5月に入るとチームの勢いは完全に失せて、5月は7勝15敗の負け越しとなりました。中継ぎ投手陣の
登板過多を避ける為の投手陣の再編成を近藤監督は明言していましたが、やはり目先の勝利の誘惑に
勝てず、なかなか手を付けられませんでした。
洋洋洋-巨巨-広広-神神神-洋洋-神神神-洋洋-広広広-ヤヤ
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好調時のチーム方針を変更する事の難しさを改めて体現したのが5月の中日ドラゴンズです。負けが
込んできた時に着手しても、時すでに遅し。今の中日投手陣を表現すると「強力打線の援護があって
こその投手陣」である。先発組は誰が投げても同じようなもので軸として期待されていた三沢の状態は
一向に上がって来ず、藤沢・戸田は一時の勢いは失せて頼みの綱は鈴木と小松両投手のみ。「計算
出来る先発は星野くらい(近藤監督)」 しかし星野も今年から投手コーチ兼任の肩書付のベテランで
せいぜい1週間に1度の登板が精一杯で、とても「軸」ではない。開幕して2ヶ月で完投が3試合では
いくら分業制をとっているとはいえ中継ぎがパンクしても不思議ではない。まだ打撃陣が好調なうちは
負担は軽かったが大量得点試合が減り僅差の試合が多くなると中継ぎが登板過多になり鈴木・小松に
繋ぐまでに落とす試合が増え出した。4月の小松は19試合中・10試合に登板したが、5月は14試合
段階で5試合だけと宝の持ち腐れ状態。
「まぁ皆さんが心配するほど私は気にしていません。投手陣の手直しもしますよ、藤沢と戸田を中継ぎに
回し、代わりに都と牛島を先発組に入れます。それにウチは元々攻撃優先で押していく布陣です。打線が
元の状態に戻れば投手もシャンとなりますよ」と近藤監督は強気の姿勢を崩さなかったが、肝心の打線に
復活の兆しは見られなかった。4月の好調時でも中日の打線は固定されてはいませんでしたが、「一番・
田尾、三番・谷沢、四番・大島」は不動でした。ところが打線が湿り負けが込んでくると打順をいじり始め毎試合打順が大幅に入れ替わるようになった。一時はバットを振ればヒットで、打率が4割を越えていた田尾も打順が三番になった途端に、ランナーを帰そうと焦るばかりに当たりがパタッと止まってしまった。逆にポイントゲッターである五番のプレッシャーから解き放たれた新一番・コージーは結果を出したのに2~3試合で五番に戻されるなどの場当たり的な采配が批判されました。例えば5月20日の阪神戦では相手の先発予想が左腕・山本和だったので、田尾と谷沢を外してオール右打者の打線を組みました。
(右)中尾
(左)豊田 外された田尾と谷沢は共に今季の山本との対戦成績は10打数3安打
(中)石井 昨年も田尾は17打数6安打 打率.353。谷沢は2本塁打を含む20打数
(三)大島 8安打 打率 .400 と決して山本を苦手にしていませんでした。この奇策も
(一)秋田 功を奏さず2対5で破れ5連敗を喫してしまい益々批判に晒されました。
(捕)木俣
(遊)宇野
(二)田野倉
(投)牛島
5月に続いて6月も4勝12敗2分と負け越し。結局スタートダッシュに成功したものの58勝68敗7分で5位に終わった1981年は、まさに竜頭蛇尾の年でした。