自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

イラン情勢

2009年06月24日 13時29分53秒 | コラム
 大統領選の結果を巡って、不正の疑いありと抗議する“改革派”、体制の正当性を維持しようとする“保守派”、国民を分断させ漁夫の利を得ようとするものにスキを見せてはいけないのであるが、、、。一般の報道姿勢を見ると、正義は改革派、それを強権で弾圧する保守派と見えてしまう。

 イランはイラン高原から発し、紀元前500年頃、当時の巨大帝国、ペルシャ帝国を築いたペルシャ人の末裔である。さらに領土拡大を目指しギリシャに侵入、スパルタ王の奮戦、マラトンの戦いにおけるアテネの大勝利(その勝利の報告をアテネ市民に伝えるために兵士がアテネまで駈けたのがマラソンの起源と言われている)、初代ペルシャ帝国は軍事的天才マケドニアのアレクサンダー大王によって滅ぼされるが、後ローマ帝国のライバル、ササン朝ペルシャとして復活するなど誇り高き民族である。

 その後、イスラム、モンゴル、トルコ等の侵入もあり、多くの王朝が興亡する。シーア派のイスラム王朝が成立したのが、1500年から200年ほど続いたサファヴィ朝である。第一次世界大戦前の頃は、ロシアとイギリスの勢力争いが演じられたし、近代化(欧米思想の影響)も進み、1905年~1911年、立憲革命が成功する。(今回最高指導者が、イランでは選挙不正があるはずはないと主張する原点がここにある)ロシア帝国の圧力で崩壊し、再び英露の草刈り場となる。
 イギリスの退潮に伴って、アメリカが進出してくるが、第二次大戦後、イラン・アメリカ関係は良好だった。民主的選挙で選ばれたモサッデグ政権が成立し(1953年)石油国有化を宣言するまでは。CIA主導のク・デターで政権に着いたのがパフラヴィ朝(1953~’78)であり、急速なアメリカナイズ、アメリカの傀儡政権と見なされた。(アメリカのダブルスタンダードはここでも顕著である)

 いわゆるホメイニ革命で、イスラム回帰のイラン・イスラム共和国として、現在に至っているのであるが、もともと親米的だったイランの人々を反米にしたのはアメリカといって良いであろう。莫大なイラン人の財産を持ち逃げしアメリカに亡命したシャーをイランに引き渡すように要求したが、アメリカはそれを拒否、怒った一部の者たちは、アメリカの大使館を占拠、それに対して、アメリカは経済封鎖、国交断絶で応じた。さらに、世俗的なアラブの君主国の不安を巧みに焚きつけ、サダム・フセインに武器援助をし、イランとの開戦を促した。8年間のイラン・イラク戦争、それこそ両国国民を苦しめただけの、イライラ戦争であった。アラブのオイルマネーがイラクへの武器に変じたし、不思議なことにイスラエルがイランに武器を提供、アメリカもイランに武器売却をした。結局利を得たのが軍需産業なのだろう。さらにその後のブッシュ親子の二度にわたる湾岸戦争に繋がる要素も生じていた。イラクへの最大の資金供給国だったクエート、その借金をチャラにするためにサダム・フセインが考えたのがクエート併合である。内々にアメリカの了解を受けたと信じたサダム・フセインは、まさか、国連で侵略者と成り、国連軍(主力はアメリカ軍)から攻撃を受けるとは思ってもいなかったろう。その後の彼の結末は悲劇というより、ブラックユーモアーと言えるかもしれない。

 イスラムの教義に厳密だったホメイニ師の死後、教義では飯が食えないと考える改革派が政権を獲得、アメリカとの修復を意図したが、イラクのあとはイラン、そして中東の石油支配を狙う“ネオコン”は、イランをテロ支援国家から、悪の枢軸と決めつけた。そういうアメリカの狙いの躓きが、イラクの民衆の抵抗であり、副産物として4年前、反米主義を主張して圧倒的支持を得て選出さてたのが保守派のアフマドネジャド大統領である。アメリカが真に代わるのか、マイノリティのオバマ大統領選出でその兆しが見えるのだが、それを信じるイランの改革派、2期目のアフマドネジャド大統領がどうこの問題を解決するか、アメリカの今後次第と言えるだろう。

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