自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

”おもろうて、やがて悲しき”世にいたらぬように、、、

2018年11月26日 17時06分03秒 | コラム

 1964年に東京オリンピック、1870年に大阪万博が 開催された。戦後の復興がなり、高度経済成長に向かって行く時代を象徴するイベントであった。”富の源泉は労働にあり”の労働価値説は真理だと思うが、資本の蓄積のためには、一般の民衆は”働けど働けど、我が暮らし楽にならざる”を余儀なくされた。さらに、”欲しがりません勝つまでは”を強要された戦中であったのだが、戦いに敗れ、無一文からスタートしたこの国は、”働くことが好き”な国民性を発揮し、アメリカの無駄使い(朝鮮戦争、ベトナム戦争)のおこぼれもあって、驚異の戦後復興を成し遂げた。

 ニクソンショック、オイルショック、は人為的な日本たたきなのだが、政治は二流でも、経済は一流なのだろう。2年後の東京オリンピック、`25年の大阪万博も決まったようだが、夢よもう一度とはならないような気がする。酷暑の中でのスポーツ大会など誰が考えてもおかしいし、外国人労働者に頼らないと人手不足になっている現状、数の力とその後ろの見えない利権に動かされている。

  仕事があっても、人手がなければ、ものは生産されないし、当然儲けも望めない。特に労働条件の良好でない職場は人手不足で悩まされる。戦後のベビーブームで生まれた世代は、労働力としては良質な世代であった。つまり幼少時から親の懸命に働く姿を見て育ち、手伝いをやることを厭わない世代であった。”金の卵”とおだてられ、中卒で中小企業で働き、大企業を支え`60年代からのこの国の高度経済成長を担ったのである。そうゆう優れた人材を供給した地方は過疎化し、学校も閉鎖が続いている。今都市部で細々と年金生活に入っている人の中には、母校が全て無くなったという人も稀ではない。つまり、出身小中学校は閉鎖、出身高校も統合で母校名が消えている。

 技術研修生という名の外国人労働者を無制限に採用しようとする法案が強引に強行採決されつつある昨今だが、私も知人に頼まれて、彼らの日本語研修に何度か関わったが、”民間外交”として彼らが研修を終え、帰国したあとで、日本で良い思い出が出来たと言えるようになって欲しいと願っての対応をしてきた。


無賠償、無併合

2018年11月17日 06時22分23秒 | コラム

 弱肉強食が一般的だった時期、戦争が起きると勝利した方が負けた方から、領土を奪ったり賠償金を課すのが常であった。戦争で敗れてただでさえ苦しい生活を余儀なくされるのに、さらなる負担を強いられるのだから、”復讐戦”を準備。することとなり、争いを繰り返すのが人類の歴史であった。復讐戦を無くすには相手を殲滅する方法がとられたのも人類の歴史では一般的だった。カントの”永遠の平和のために”等、戦争を無くすにはどうすれば好いかの提案も為されるようになったが、現実の世界は戦争は継続された。多数の国を巻き込んだ第一次世界大戦中、革命が起きたロシアではレーニンが権力を獲得し、無賠償、無併合、民族自決主義を主張し、戦線から離脱した。アメリカの参戦は第一次世界大戦を終結させたが、リベラルなウイルソン大統領は、レーニンが主張した無賠償、無併合、民族自決主義を取り入れた”講和原則14箇条”でベルサイユ会議に臨んだが、戦勝国、イギリス、フランスの拒否に会い、敗戦国ドイツで、後、”ベルサイユ条約破棄”を主張し、合法的に権力を獲得したヒトラーを迎えることとなった。

 時代は変わって、近現代史は受験には出ないとのことで、歴史を学んでいない若い世代は、アメリカと戦争をしたのを知らないものも多い。まして、“北方領土”の本質はほとんど理解されていない。歯舞、色丹が日本に返還されれば、安倍内閣の支持率が大幅にアップするかもしれない。この国も、日清戦争で、台湾を奪い、莫大な賠償金(当時の国家予算の3倍)を得たし、日露戦争では、樺太の南半分を割譲させ、満州国を創り、同じく中国に関心を持つ米英との対立、その結末が、1945年8月15日の敗戦である。無賠償、無併合は、イギリスがアヘン戦争で得た香港を中国へ返還したり、小笠原、沖縄を日本に返還したり、一般化しているが、日本が戦争で獲得した領土はポツダム宣言を受託し元の国に返還するのは当然だが、千島列島は、ロシアとの交渉で得た固有の領土である。歯舞色丹は根室半島の続きであり、アメリカが当時のソビエトに約束した、”南樺太の領有と千島列島の獲得”には含まれていない当時のソビエトのの勇み足だし、日本に謝罪し弁償金を払って返還するのが道理に合っている。親日家と言われるプーチンが日露の平和条約について提案しだした8年前のブログを再録する。

日露と北方領土

日本の諺に、「遠くの親戚より、近くの他人」というのがあるけど、近代国家になってからのわが国は隣近所との付き合いが下手であるといえるだろう。向こう三軒というと、朝鮮・中国・ロシアになるわけだが、欧米諸国に鎖国の夢を打ち破られてから急速に欧米の経済システム、資本主義を取り入れての近代国家を目指したため、その拡大再生産が生命の経済仕組みは隣近所との諍いを起こし、未だにその完全な修復がなせれないままである、、、。

 ロシアでプーチン大統領が選出され、未だに平和条約が結ばれていない両国間の問題の解決に意欲的な態度を見せているが、両国間の歴史について少し調べてみたいと思う。もともとロシアという国は民族的にはスラブ民族で、どちらかというとヨーロッパでは後進国扱いを受けてきた。かつてはモンゴルの支配下にあったし、その支配から抜け出し、 イワン大帝の頃からその存在感を示すようになり、17世紀末のピーター大帝の頃からその拡張政策を推し進め、不凍港を求めての南下政策は、ロシアの外交方針の原則となる。江戸時代鎖国政策を取る日本近海に最初にやってくるようになったのはその南下政策の延長上のロシアである。度々使節を送ってくるが、特に日露の友好の証として、遭難しロシアにたどり着き当時のエカテリナ女帝に厚遇を受けた大黒屋光大夫の帰国は特筆すべきであろう。本格的な外交が開始されたのが、江戸末期であるが、千島列島と樺太(ロシアはこれ等をクリル諸島・サハリンと呼ぶ)は、当時は北方少数民族の生活の場であり、そこに探検、領土拡大という波が押し寄せてきた。ロシアの来航に対抗して、鎖国中の江戸幕府も、最上徳内・近藤重蔵等に千島探検を命じ、さらに間宮林蔵は樺太に渡り、間宮海峡を発見する。ペリーによって鎖国政策を放棄させられた幕府は、ロシアとの間に日露和親条約を結び、その中で領土問題も話し合われたが、樺太は棚上げ、混在を維持し、千島の島々の線引きをし国後・択捉を日本領、それ以北をロシアとの取り決めがなされた(1855年)。 歯舞・色丹は根室半島の続きだし、千島列島には含まれないのが地理学上の常識だ。
 幕府が倒れ新政府がなるが、幕府が結んだ条約は遵守することを条件に明治政府は欧米列強に承認された。新政府はロシアとの国境問題を解決するための交渉を行い、樺太を放棄し、カムイ岬以北の千島列島を日本領とする条約を結んだ。1875年、千島樺太交換条約がこれである。北方領土問題の原点に当たるこの条約の重要性を忘れてはいけない。その後わが国はポーツマス条約で南樺太をロシアから奪ったのだが、千島列島は正式な話し合いで決定した領土である。
 前にも述べたがロシアはヨーロッパの後進国であり、かつてロシアの詩人が、『豊かなロシア、そして貧しきロシア』と詠じた様に日本にとっても親しみの持てる国であった。トルストイを生んだ国であり、彼に親しみを持つ白樺派の文学活動が見られ、武者小路実篤、有島武郎たちが活動したし、ロシア民謡の親しみのあるメロディはわが国でも多くの人の心を捉えたものである。
 民衆同士は本来友好的に助け合えるものなのだが(日露戦争に反対した、平民新聞の幸徳秋水の存在は、日露両国民の共通の財産である)、国と国(政府と政府)が対立するようになると民衆もそのプロパガンダに乗せられ、互いに憎みあい傷つけあうようにもなる。日露戦争中にロシアでは第一次革命運動がおき、第一次世界大戦中には世界で最初の社会主義革命が成功する。労働者・農民・兵士からなる会議(ソビエト)の権力が確立したのは、各国の干渉戦争(シベリア出兵)に打ち勝って以降である、、、。日本政府が最後まで撤兵しなかったことは反省すべきことである。その後最近のソビエト崩壊までは、社会主義国ソビエト連邦がわが国の隣人となる。
 『世界を震惑させたロシア革命』はその理念からは、それまで人間扱いを受けていなかった、虐げられた農民・労働者・兵士の解放を目指すものであった。しかし、アンドレ・ジイドが早々と落胆したように、国の内外に反革命勢力を抱え、革命の成果を守るためには極端な権力集中、その結果として独裁政治を生み出すこととなる。レーニンに代わったスターリンがそれを推し進めることになったのだが、ソビエトが輝いていたのは、計画経済によって、世界大恐慌の影響もなく、短期間に世界有数の工業国に発展させたこととナチスドイツとの戦いに勝利したときである。スターリン時代の功罪は歴史的に定着したようであるが、その罪の部分にわが国も責任がないとはいえないだろう。革命当初から社会主義ロシアを敵視し、革命の指導者レーニンを新聞報道では“冷忍”と記したし、前にも述べたシベリア出兵を最後まで続け、第二次世界大戦前は、ナチスドイツとの間に対ソ戦を想定した日独防共協定(1936年)を結び、張鼓峰事件・ノモンハン事件等の武力紛争を起こし、ドイツも呼応すると考えていたのだが、優先順位を対英仏戦においたドイツは独ソ不可侵条約を結び、日本政府を愕然とさせた。今度は日ソ中立条約(’41年)を結びインドシナ進駐を開始し、米英との対立を深めるが、軍事同盟国のドイツは長期戦に備えてソビエトへの侵略を開始する。外交音痴もここまで来ると国を滅ぼすことになるだろう。

 第二次世界大戦終了までは、米・英・ソ三国は反ファシズムという観点で共同歩調を取った。北方領土問題を考える上で、先に述べた千島樺太交換条約とヤルタ会談(’45年2月)とポツダム会議(’45年7月)とサンフランシスコ講和会議(’51年9月)はセットで考えなければならないものである。ドイツの敗戦が時間の問題となった’45年2月、米・英・ソ三国首脳は戦後の問題を大戦中の協力体制の下、処理することを確認し、早期に大戦を終了させるため、ドイツ降伏後、2ヶ月、3ヵ月以内にソビエトが対日戦に参加するように求めた。代償を求めたスターリンに対して、南樺太の回復と千島列島の領有を認めた。アメリカは何よりも自国の若い兵士の犠牲を最小限に抑えるため、玉砕戦法を取る日本軍の抵抗に苦慮していたので、ウイルソン大統領によって第一次大戦後に主張され、ほぼ国際原則になっていた無賠償・無併合の例外を認めたわけだ。戦闘能力を失ったわが国は、もはや戦争継続の望みも絶たれていたにも拘らず、例の外交音痴ぶりを発揮し、中立条約を望みとソビエトに仲介役を依頼しようと動いたが、’45年4月、中立条約の延長はしないとの通告を受けただけである。ドイツ降伏が’45年5月7日、ヤルタ密談で遅くとも8月8日にはソビエトの対日戦が開始される。わが国にポツダム宣言が突きつけられたのが7月26日、7月中に降伏していれば、千島列島は日本の領土であるし、北方領土の問題など戦後生じるはずはなかった。ポツダム宣言にある戦争犯罪人は処罰するとの項目にこだわって、8月15日まで降伏が延びたため、ヒロシマ・ナガサキ、そして今も解決できない残留孤児、さらに朝鮮の分断まで引き起こした。8月15日以降も参戦したソビエトは領有を保障された千島列島に進駐し、島民を強制的に退去させた。
 さて戦後の世界だが、ヤルタ会談で目指した戦後の構築は、冷戦の勃発で反故にされてしまった。尽力したルーズベルトに代わって保守派のトルーマン副大統領が大統領に昇格したのもその一因だが、一国社会主義で苦心したソビエトが社会主義国の拡大、そしてそれらを支配下に置こうとしたこともその対立を深めることとなった。大戦中は、ファシズムと戦うためには悪魔とでも手をつなぐと述べたチャーチルも、スターリンのやり方を、鉄のカーテン云々、との批判を向けることとなった。
 冷戦構造に組み込まれたわが国も、アメリカの庇護のもとで独立を回復する道を選んだ(サンフランシスコ単独講和、ソビエト・中国・インドは講和せず)。この会議で、外交の継続(ヤルタ密談の内容)を認めるアメリカは日本の全権大使吉田首相に千島列島の放棄を促し、その放棄宣言を楯に実質支配のソビエトがその領有権を確定したという主張を断固として譲らなかったし、それを引き継ぐ今のロシアもその延長上にあるのが現状である。                この国の歴代保守政権は、吉田首相が放棄した千島列島とは北千島であって、南千島の国後・択捉はその中にないらないと強弁しているが、北海道とカムチャッカ半島の間に散在する島々が千島列島(クリル諸島)であることは疑いない。歯舞色丹は千島列島でないという言うのは話が通じるが、、、。ソビエト崩壊後、現在のロシア政府は、歯舞・色丹の二島で妥協する気があるようであるが、原則は譲るべきではないと思う。わが国が戦前もそうだが、戦後はアメリカの手下として一貫して取り続けた反共・反ソビエトの政策が、本来ロシア国民の生活の向上に向けられるべきロシア国民の労働の成果が果てしない軍備拡張に費やされた責任を感じつつ、人類の立場に立った交渉をすべきだと思う。戦争によって領土の変更は認められないとの原則に立って、日ロ間に関しては、南樺太のロシアへの返還は当然だが、千島列島は日本の領土であるべきであることを確認すべきである。しかし、国際会議で、千島列島の放棄を宣言したのだから、領土回復は主張できない。しかしその帰属は決定していないし、ロシア領とはいえない(無賠償、無併合の原則から)。その上で、実質支配のロシアと図り、もともとこの地の先住民族であった少数民族に自治権を与え、北方民族自治共和国を日露が協力して支援していくことだ。そうすることが、民族紛争の根を絶つ全人類的な目標に向けた、日露両国の国際貢献に繋がるのではないだろうか、、、、。


母校は分かる、入学した学校は、、、?

2018年11月06日 09時03分15秒 | コラム

 小学校に入学したのは敗戦の年であった。最初の思いでは、前日から楽しみにしていた遠足、校庭に集合して、学校長の話のあと、我々一年生は近くの愛宕神社まで出向くことになっていた。今でもはっきり記憶しているのだが、学校長の話で、”空襲がないと好いのですが、、”の発言の直後、サイレンが鳴り、即中止、下校したことである。東北地方の県都ではあるが、軍需産業が無くとも度々爆撃を受けるようになり、まもなく敗戦、、、。当時は子どもでも、大きくなったら何になると問われると、男の子は、”兵隊さん、陸軍大将、海軍大将”であった。明治以降の皇国史観に基づく教育が、家庭でも、学校でも。社会でも徹底していたからであろう。それに異を唱えるものは、治安維持法で絡め取られていたことはずっと後になって知ったのだが、、、。

 ”国難”がやたら喧伝されるようになった昨今、学校教育の原点となった小学校を訪ねることにした。3年生の途中で転校することになったので、母校とは言えない小学校である。校長室には、歴代校長の写真が飾ってあるのが分かっていたので、まだまぶたに残っている朝礼台でお話をした校長さんに会いたかったのが来校の目的であった。21代目の学校長が、73年前のにこやかに挨拶をした姿であった。初代から8代目まではまだ写真がなかったが、20代目の校長さんの写真を見て愕然とした。丸刈りで軍服姿の写真であった。

 ”盆の上の豆”的体質は、”国難”で加速するのではないだろうか、、、。