現天皇の生前退位の意向を巡って,スプーク気味に報道されたが,今のところなりを潜めている。万世一系故に尊い方とのおぼろげな感覚が,この国では一般的だが,70億を超すこの惑星の住人は,すべて万世一系である。現皇太子家族3人で,神武天皇陵を参拝したとのニュースが報道されたりしたが、この参拝を皇太子は取り巻く周辺からどのような説明を受けたのであろうか、、、。初代天皇にして,二千六百数十年前に即位したあなたのご先祖とでも説明されたのであろうか、、、、。
この国の成り立ちについては,歴史学でもまだ不明な点が多いのだが,大和地方の有力な豪族達の連合勢力により,東北と南九州をを除いて統合されたのは4世紀半ばと言われている。その連合体のまとめ役が大王であり、絶対的な権力を維持しているわけではなかった。特に渡来系の氏族であった蘇我氏は,その経済力から,大王家を凌ぐ勢いを示し、大王家と姻戚関係を結び、蝦夷、入鹿、馬子(後の歴史書で蔑称で記された)の三代が全盛期で,おそらく蘇我王朝を成立させたのだと思う。歴史上の人物として人気のある聖徳太子、父方も母方も蘇我氏の血を引いている、、、。新興勢力の藤原氏と大王家が組んで,蘇我氏打倒のクデターが成功、遣隋使として派遣され、唐王朝の成立を学んで帰国した留学生達をブレーンに古代天皇制が確立した。そして天武朝の正当性を記したのが,日本書紀である。
天皇が実権を持ち、”詔を承れば必ず慎め”が実現できていたのは,天智、天武、聖武天皇までであろう。仏教の慈悲の教えを実現すべく、国教とし,大仏建立の詔を発した聖武天皇が天皇制の最盛期となる。その聖武天皇に自分の娘(光明皇后)を配した藤原不比等は日本歴史上最大の黒幕と言えるかもしれない。蘇我氏を打倒する大化の改新(クデター)の立案者、中臣鎌足の息子にして,蘇我氏の滅亡を目の当たりにしただけに、”トップに立つのは危険である”と自覚していたのであろう。自らは黒子に徹し,利は十分に確保する政治姿勢を取る術を実現した。彼の血を引く藤原北家は、摂関政治を通して、平安時代400年の半ば200年間、我が世の春を謳歌した。
平安半ばから,自営地を持ち、”一所懸命”を信条に武装した自営農民はまとめ役として,天皇の血筋を引く人物を棟梁にし、桓武平氏、清和源氏の武士団を結成し,中央政権にもの申し,やがて権力を獲得する(平清盛の政権)。関東地方の武士団は、中央政府(形の上では天皇の命令)で東北の蝦夷討伐にを通して実力をつけ、やがて地方政権を確立する(鎌倉幕府)。公家の反抗を押さえ(承久の乱)、元々は蝦夷を打てとの位であった征夷大将軍は,やがて天皇からすべてを任せられた地位に昇格する。その将軍すらお飾りとなり,土着の武士であった平氏系の北条氏の権力が確立する(執権政治)。
元の襲来ににより、”徳政令”で御家人を救済するしかなかった北条政権は,源氏系の足利、新田氏の反旗により崩壊、一時、天皇が政権に復帰するが(建武の親政)、実権は足利氏に移行する。足利氏の政治ブレーンは旧来の,天皇から全面依頼されての政治権力を行使する,幕府を開くのだったら、天皇は必要だし、木か石で作ればよいと進言したようだが、形式を重んじた足利尊氏は従来の方式を採用した。ただし、北条氏が執権職を独占した弊害をなくすため,将軍を補佐する役職を管領とし、三家に分任させた。
有力な守護大名を押さえ足利政権を確立した三代足利義満は、明に対して,日本国王と名乗りながら,朝貢貿易で利を得、貴族の最高位太政大臣を併任した。そういえば戦後の混乱期、熊沢天皇なる人物が出現し、”今の天皇(昭和天皇)は義満の血筋を引く人物で,南朝の正式な血を引くのは自分である。”と主張したのだが、天皇制最盛期の聖武天皇の血筋を引く人物はごまんと居るだろう、、、。江戸時代でも,密かに権力獲得を目指した大名は、天皇家の血筋を引く人物を養育していたようだ。大室虎之助なる人物は南朝の血を引く人物として毛利家の家臣として幕末期を生きた人物である。その大室虎之助が,後の明治天皇であるとの言を述べていた、ワールドフォラムの創立者だった佐宗邦皇氏が突然死したのは謎を深めることとなる。
現天皇が,生前退位の意思を表したのは,囚われ人として、自分の意志を表現できなかった今までに対する,人間宣言なのかもしれない。そのルーツは,10代の初期に,ヴァイニング女史から薫陶を受けたからだろう。リベラリストであり,人間信頼に徹するクエーカー教徒でもあった人から,プリンスではなく,ジミーの愛称で呼ばれたようだが、、、。二世代に渡って皇族からでなく、民間から后を迎え、自分の意志を通したことでも明らかだ、、、。宮内省の役人は頭を痛めて居るだろうが、、、。