この国の歴史年表で立軸で示されるのは、聖徳太子が摂政の位につき飛鳥時代の始まりの589年が最初である。それ以前は、縄文時代、弥生時代、古墳時代、大和時代との時代区分は斜線で表示されている。およそ8000年前とか、紀元前2、3世紀とか、、、。古代天皇制が確立したのは、大和時代の有力者蘇我氏をク、デターで倒した天智天皇、藤原鎌足による大化の改新、天皇家の内紛、壬申の乱で天武朝を開いた天武天皇を経てであろう。その天皇が善政を維持したがゆえに、天皇制が今も維持されているなら万々歳であるのだが、、、、。
今回の天皇代替わりの一連のセレモニーは、おおむね好意的に報道され続けたが、皇位継承権2位の位置にある秋篠宮の批判にどう応えるのであろうか。歴代天皇の墓前に就任の報告をし、この国にいやさかを願って戴いたようだが、今のこの国の体たらくをいささかも感じておられないのが実情だろう。超大国アメリカの大統領の表敬訪問を受け,三権の長から”天皇陛下万歳!”の声援を受ける。慇懃無礼に奉られてるとの理解はできないだろう。
権力の交代があるとその新たな権力は前時代の批判することによって己の正当性を誇示するものだ、大和時代の最大の権力者は、渡来系の蘇我氏であった、それ以前の権力者、物部氏を倒し、おそらく大王となり蘇我王朝を開いたはずだ。当時の蘇我王朝に批判的なものの存在は当然で、新興勢力の中臣鎌足、元大王家の若手中大兄皇子が組んでの政変、それ故にその新たな権力で残される歴史は、前時代のへの批判、蘇我氏の名前も蔑称が用いられる、入鹿、馬子、蝦夷、等である。本名はもっと素敵な名称であったろう。
天武朝で編纂された歴史書が。古事記、日本書紀で、文字がなかった時代伝承されてきた語り部の歴史を万葉仮名で記したのが古事記であるし、天武朝の正当性を記するのが日本書紀である。大化の改新の最大の功労者、中臣氏、天智天皇から藤原の姓を受けた鎌足の子、不比等、そしてその子孫が次の時代の権力の保持者となった。古代天皇制最盛期の天皇が、聖武天皇なのだが、深く仏教に帰依し、東大寺大仏を建立した人物だが、その聖武天皇までが、藤原不比等のコントロール下にあったといえるだろう。聖武天皇自身、不比等の孫であるし、その妻光明皇后も不比等の娘であった。つまり聖武天皇にとっては藤原不比等は祖父でもあり、義理の父でもあったわけだ、、、。
前時代の権力者、蘇我氏の滅亡を目の当たりにした藤原不比等は、第一人者にならず、黒子に徹することによって、利はたっぷり頂戴するが、責任は取らなくても済む方法を生み出した天才的な政治家であると思う。この国の無責任体制のルーツはさしずめこの時からではないかと思う、、、。
その藤原氏の摂関政治の行われていた平安時代、関東地方の農民の苦悩に反乱を起こしたのが、平将門である。新興勢力の武士団、源氏にしても、平氏にしても、天皇の血筋を引く人物を棟梁として力を集めたのである。それ故に平将門は、”王侯いずくんぞ種あらんや”の気概の元、関東で新しい天皇に即位したのだが、農繁期に農民を土地に帰したため、その隙をつかれて、藤原秀郷(中央での出世をあきらめ、地方に出た)に滅ぼされてしまったが、その人気は今も続いていて、神田明神で神となって守り続けられている。