自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

真似の効用

2010年08月26日 14時53分53秒 | コラム
 真似、模倣は良くないと言われるけど、真に似せるのであれば、人の歩みはこれに徹してきたと言えるし、真似あっての人類文明と言えるだろう。言葉と文字によって、先人の体験から身につけた知恵を、等差数列、等比数列的に積み上げてきたのが今の人類である。

 個人的に見れば、人間生まれた時は全て“裸で名無し”だし、その生育過程で“見本”を持てたか否か、そしてその見本に真似する努力をしたか否かで、その人の生き方が後生の参考になるものだ。一番身近な存在が親であり、肉親、友、教師、さらに書物を通しての先人の生き方、そこに真似する意義を発見しひたすら努力できた人が、後生にとっての“偉人”となるのであろう。

 経済成長期の“経営の神様”との称号をうけている松下幸之助氏、丁稚奉公から幼少期をスタートし、“心学”を大成した石田梅岩氏を同じ境遇からスタートした自分の生涯の師として、その教えを町工場から世界的大企業に躍進させた過程に活かしたのだが、その先の師としては、孔子の儒教の教えがあった。昨今、経済成長路線の中国でも松下氏の経営が取り上げられている様だ。しかし今日のニュースで、日本人と同じ生活水準を維持すると、地球2.3個が必要、今の世界中の人の生活を維持するには、1.44個の地球が必要との、環境NGOの試算が出されているし、“経済成長は善”の考え方が見直される時代に至ったと言えるだろう。

 松下氏は“経済成長は善”の立場で、国民に平和と幸福をもたらすとの信念の下、私財をなげうって、PHP研究所、そして人材養成機関として松下政経塾を設立したのだが、その塾の出身者が現政権の民主党の若手の主流を為しているし、自治体の長としてメディアにも度々話題性を持って迎えられている。彼の理念である、PHP(繁栄を通しての平和と幸福)はかってのローマンパックスに繋がるし、ネオコンが模索しているアメリカンパックスに繋がるのではないだろうか、、、。

 これからは、最初のPと後のPを取り替えた,PHP(平和を通しての繁栄と幸福)にしなければならないと思う。松下電器が、かって新たな技術開発の費用をけちり、マネシタ電気と揶揄されたことのあったが、松下政経塾も“松下村塾”を意識していたのだろう。吉田松陰の気骨を受けついだ塾生の多くは、師と同様維新を迎える前にその若い命を散らせた。国難を上回る人類難の今日、松下氏が期待した人材は育っているのだろうか。

近くて遠い国から、近くて近い国に、、

2010年08月22日 11時49分06秒 | コラム
 かって石川啄木が『地図上の 朝鮮国に 黒々と 墨を塗りつつ 秋風を聞く』と詠んでから丁度100年になる。同じく日韓併合の祝賀式で、初代朝鮮総督、後に総理大臣も務めた寺内正毅は『小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を 如何に見るらむ』と誇りを謳ったのだが、どちらの詩により多くの共鳴が出来るのだろうか、、、。

 隣国朝鮮は、歴史的に見て大国中国の影響を強く受け続けた国である。その歴史の大部分は中国を宗主国としての地位に甘んじていた。今の北朝鮮から中国の東北部で勢力を持った高句麗も南部に勃興した新羅と唐帝国の挟み撃ちに合い、滅亡し、やがて新羅による半島統一国家が出現するが、大国中国の影響を受けずにはいられなかった。その後分断を繰り返すが、高麗による半島の大部分を支配が実現するが、モンゴル帝国の支配下に入り、その傭兵として元寇にも参加されられ、多くのに犠牲を払った。モンゴル帝国崩壊後、李氏朝鮮による長期統一国家が出現する(1392~1910)。 民族心も高まり、漢字からの脱却を目指し、ハングル文字が作り出された。しかし、秀吉の朝鮮出兵に明帝国の援助も受けなければならなかったし、完全自立の道は遠かった。それでも文化的には常に日本に対しては優位の立場を維持し、鎖国をしていた江戸時代でも、定期的に続いた朝鮮通信使に対して、秀吉が拉致した朝鮮の技術者(陶工など)の返還にも応じ、厚遇した。

 長い日朝間の友好的な交流に陰りを見せたのが、欧米に弱肉強食の帝国主義が出現してからであるが、太平の眠りから目覚め、急速に欧米(主にイギリス、アメリカ)化の道を歩み始めた日本は、“江華島事件”を起こし、隣国の人に“我々が仏教や漢字を教えたし、多くの朝鮮文化を日本に伝えた。それなのに、なぜペリーにやられていやだったことを隣国に押しつけたのだ”との不信感を持たせることになった。19世紀後半~20世紀初頭の朝鮮内部の分断は35年間にわたる日本の植民地支配を結果的に生み出してしまった。日清戦争の原因が朝鮮市場にあったのだが、当時の朝鮮の政治権力は、今まで通り中国(当時は清帝国・・・アヘン戦争以来苦難を迎えていた。)との関係を重んじる“事大党”と新興国日本の力を借りて中国から自立しようとする“独立党”とが対立していた。そんな中で真の自立を目指す“東学党”の勢力が朝鮮民衆の支持を拡大した。その勢いを鎮圧すべく日清両国が軍隊を出し、両国が朝鮮半島での戦争に発展したのが日清戦争である。下関条約で、日本の主張が通り、朝鮮は独立国であることを両国が認めた。ロシアの帝国主義政策(南下政策)は地中海、インド洋(その途中がアフガン)、北東アジアの3方面で展開される。イギリスの3C政策と重なる地中海、インド洋への進出を防ぐため、トルコを支援し(クリミヤ戦争)、アフガンを保護国にすることによりロシアの南下を防いだ。北東アジアに対しては新興国日本を利用し(日英同盟・・栄光ある孤立政策を破棄して)食い止めようとした。万里の長城以北のアジアは日ロの利権獲得の草刈り場となり、当時の最大帝国イギリスの支援の下、対ロ戦争に向かう。“朝鮮のロシアによる植民地化を防ぐ”が開戦を正当化する名目であった。

 ポーツマス条約で、イギリスの了解の下、ロシアは朝鮮における日本の優位を認めることとなった。東学党の流れをくむ朝鮮民衆の反日運動も広がりを見せる様になり、その象徴的な出来事がハルピン駅頭における襲撃事件である。我が国にとっては初代総理大臣にして、4度も総理を務め、初代朝鮮総監を勤めだ伊藤博文の暗殺、これほど両国の考えが180度違うものはないであろう。実行者の“安重根”は日本ではテロリストだが朝鮮では愛国者となっている。このダブルスタンダードは、100年後の今も、増えこすそれなくなることなく続いている。権力側と民衆、超大国と被抑圧国との価値観の相違なのだろうが、啄木的心情と寺内的心情の違いとも言えるだろう。国益より人類益を考えられる人は多く存在した。しかし、現実世界は国益を主張する政治家が今もって影響力を行使している。隣国朝鮮の分断の最高責任はこの日本にある。100年前の日韓併合条約が合法だと主張できるのは、第一次大戦後のベルサイユ会議で、アメリカ大統領ウイルソンが提唱した“民族自決主義”にいち早く賛同し、朝鮮民衆の3・1独立運動を受け容れ、下関条約での約束“朝鮮は独立国”を実現していたらの話であって、それを武力で弾圧したのみならず、“皇民化政策”を推し進め、氏名や言語まで葬り去ろうとしたのは何としても頂けない。さらに敗戦間近、ポツダム宣言受託が遅れたことによる多くの悲劇の一つ、米ソによる朝鮮分割統治も、隣国民衆には償いきれない負の遺産をもたらしたことは忘れてはいけない。さらに加えて、朝鮮の分断を固定化することとなった、冷戦発動による、アメリカの意志の沿った、当時軍事政権下にあった韓国との間に、朝鮮半島の唯一の合法的政権として“韓国”を承認する“日韓基本条約”を結んだことは、北の民衆に植民地時代の怨みの上塗りをすることになったことも、“青いリボン”を付けて、人道的要求をしているつもりの人たちも忘れてはいけないことである。

 半島の北に存在する国(国連に加盟を認められているれきっとした独立国)に対して“ならず者”“悪の帝国”と名指ししたのはアメリカである。そして外交上はアメリカ・韓国と北朝鮮は交戦状態である(休戦は50年以上維持されているが、、)。北朝鮮の政治体制(権力の世襲を維持するほ封建国家、、?)に問題があるとしても、その問題を解決するのは北朝鮮の民衆であって、難題を吹き付けて抹殺することはいかなる国にも認められない。北朝鮮はアメリカと直接交渉して、講和条約締結を求めているのだから、北朝鮮を再攻撃する意志がないのなら直ちに講和に応じることだろう。

 日本と韓国は、アメリカの支援を期待することなく、三国間(日朝韓)で人道主義の立場で相互に協力し、東アジアから戦争のない世界へ向けて歩む必要がある。人間讃歌の立場で物事の解決に当たれば全てがうまく行くと思う。昨今、苦難の中で生まれ育ち、輝きを見せる在日二世三世の活躍が目立つ様になったが、この国に住む人の大部分は歴史的に見て、在日、75~80世で占められているのだから、、、。

 
 

8・15は終戦ではなく敗戦、そして終戦祈念日

2010年08月15日 09時06分32秒 | コラム
 戦争は一言で言えば、“人と人とが殺し合うこと”である。何時になったら、その殺し合いを止め、真に文明化された“ホモサピエンス(賢い人)”になれるのだろうか。人類の遠い祖先は、アフリカの森を脱出した300人あまりであり、世界各地に生活の場を広げ、現在65億を超え、この奇蹟の惑星の主人公となっている。全ての今を生きる人類のDNAはその原点に遡れば、1人の女性“ルーシー”に辿り着くし、まさに“人間みな兄弟(姉妹)”となるのだが、、、。

 戦争をなくすための戦争を続け、ギリシャでの争いを治め、さらに東方の大国、ペルシャを征服したアレクサンダー王、志半ばで倒れ、その願いを引き継いだローマ帝国により“ローマンパックス”がなったのだが、その平和も永遠ではなかった。この国でも戦国の世を治めた家康、その体制を維持するために鎖国をし、この国を魔法瓶にしたのだが、ぺりーの砲艦外交によって、“太平の夢”から無理やり覚まされてしまった。

 当時の世界は弱肉強食の帝国主義隆盛期、戦争に勝利したものが富を独占できる状況だった、最強国がイギリス、ライバルがフランスで、その対立は我が国でも展開され、討幕派をイギリスが、幕府をフランスが支援した。ここでもフランスは後れをとり、北海道を担保にフランスからの武器購入、技術導入を図った幕府は倒されてしまった。明治政府の師匠役となったのがイギリスであり、“富国強兵・殖産興業”をスローガンに欧米列強の後追いをした。

 朝鮮を植民地にするまでは米英の許容範囲、中国の市場は米英の獲得したいことであり、日本の勝手を許さないのが米英の基本姿勢であった。ヨーロッパで急速に力を伸ばしてきたのがドイツ帝国であり、永年の対立を止めて仏英はロシアを味方に対独包囲網を構築する。バルカン半島(ヨーロッパの火薬庫)問題をきっかけに第一次世界大戦が勃発。火事場泥棒みたいに、日英同盟を口実に、ドイツが保持する山東半島の利権を奪いさらなる大陸侵略を目指して、革命まもない(辛亥革命)中華民国に“対華21カ条”を武力を背景に押しつけた。当然米英の反発は形となって現れてくる。

 第一次世界大戦は、それまでは、○○の戦いと言われた、戦場があり、軍隊同士の戦いであり、死傷者も」兵士に限られていたのとは違い、全土が戦火に脅かされ、一般市民に死傷者が多く出る戦争となった。それ故に人類もその賢さを振るう必要が生まれたのだろう。長く中立を維持してきたアメリカのウイルソン大統領は“講和原則14カ条”でベルサイユ会議に臨んだし、カントが“永遠の平和のために”が100年を経て、“不戦条約”として結実した。それらの人類の英明さが“国益”を凌駕できれば良かったのだが、英仏のドイツに対する懲罰的戦後処理が、ヨーロッパにおける戦争の要因、ナチスドイツの選挙による権力獲得に繋がった。戦後、ドイツ帝国は“ワイマール共和国”として、世界初の社会権を憲法で定め、男女の普通選挙を認めた当時の世界で最も民主的な憲法ではあったのだが、、。

 戦争は絶対悪であり、勝って良いものでもないし、負けて悪いものでもない。日米の戦争にしても原因は資本主義国にとっての最大の魅力、中国市場を巡る日米の対立である。アメリカの資本主義はそれまでの露骨な植民地獲得ではなく、市場獲得で満足できる新帝国主義であった、第一次大戦後、中国をめぐる帝国主義の対立(ドイツ、ロシアは撤退)を、中国に恩を売りながら調停したのがアメリカである、中国に関する9か国条約がそれであり(領土保全・機会均等・門戸開放、等)、それに反する行動をとりだした日本に対して経済制裁を加えてきた。追いつめら形で,“真珠湾攻撃”となるのであるが、負けて良かったのは、戦争のない世にするために、人類の最高に到達した英知である、憲法第9条を持てたことである。その点で敗戦を誇って良いのであるが、降伏を受け容れる時期を誤ったので、敗戦による多くの悲劇を積み上げてしまった。アッツ島玉砕、ミッドウェイ海戦の敗北が講和交渉のスタートとなれば良かったし、サイパン玉砕、東条内閣総辞職の段階で、“負けるが勝ち”を決断しても良かった。さらに、外交音痴で、ソビエトに仲裁を依頼して、ヤルタ密談故無視された段階、最終は、ポツダム宣言が提示され(7月26日)、8月以前に受託していれば、当然ヒロシマ・ナガサキはなかったし、ソビエト参戦による残留孤児も生じなかったし、北方領土問題もないし、さらに朝鮮の南北分断、朝鮮戦争もなかったはずだ。
 勝ったから良くないのは、相手国の日本を叩きつぶすために軍事経済に切り替えたアメリカが、資本主義の最大の欠点、過剰生産による経済後退(不景気、さらに進んでの恐慌)を防ぐためには、定期的な戦争を必要とする国になってしまったことだ。アメリカの大戦の指導者、ルーズベルトはリベラリストで、“社会主義は競争相手であるが敵ではない、敵はファシズムである”としてナチスドイツと戦うソビエトを支援したが、“神を認めない共産主義は敵である”との保守派の勢力も強く、大戦終了間際、ルーズベルトの死(暗殺説もある)の後昇格した、トルーマン大統領は、マッカーシズムの広まりの中で、冷戦を発動する。その行き着く先が冷戦終了後も権力を維持し、ネオコンとして産軍複合体を構成し、戦争を必要とする経済から脱却できず、今もって世界各地に不幸をまき散らしている。

 “対等で緊密な日米菅家”を目指した前総理は、普天間問題で挫折し退陣したが、この国の戦後の政治権力は戦前と変わることがなかった。つまり保守化したアメリカに協力することで戦前の罪を免れた(公職追放解除)人たちによって再構築された。極東軍事裁判で処刑された者たちに敗戦の責任を全てかぶせ、“終戦”を戦後主権者となった国民に定着させ、“一億総懺悔”で敗戦の責めを誰も果たそうとはしなかった。対等で友好な日米関係を築くには、戦後の日米関係を大転換する覚悟が必要だった。ポツダム宣言の完全履行を求め、日本からの軍事基地撤去(軍事費負担で財政難のアメリカを救う親米政策なのだが、、、)を目指すべきであった。“みんな違って、みんな良い”を認め合うのが民主主義の原点であるし、“敵”を作って、己の意志(利)を貫徹しようとする勢力には断固として不服従の精神で臨むことだ。今日8月15日は、戦没者を追悼するだけでなく、この地球上で戦争で命を奪われることのない日に向けての、祈念日にすべきだ。それを実現するための武器が、核の傘でも、海兵隊の抑止力でも、日米軍事同盟でもなく、憲法9条である。

式典等での年月日は、、、

2010年08月09日 16時32分58秒 | コラム
 65年前の暑い夏、今年も、6日は広島で、8日は長崎で、15日は東京で、記念式典が開催される。宣言、メッセージ、挨拶の最後でその日の年月日が読まれるのだが、どうしても気になって堪らないのだが、わりとすんなり聞き流されている。国際的に、今年はキリスト起源で2010年、イスラム歴では1432年、仏歴では2553年となる。我が国では江戸時代までは元号、そして陰暦を採用していたのだが、欧米諸国と付き合いを始めてから、太陽暦、キリスト歴を採用する様になった。元号はもともと中国の影響を受けた地域でひろまったもので我が国では“大化の改新”でおなじみの大化が最初の年号とされる。元号制定は天皇の専決事項であり、慶事があったり不祥事が起きた時など、しばしば改元されてきた。慶応4年を明治元年とし、一世一年号を詔書で明らかにした。

 明治新政府は、欧米列強の植民地獲得競争に対抗すべく、中央集権国家を目指し、当時幼帝だった明治天皇を、明治大帝に育て上げることに成功した。三種の神器と3本の矢(大日本帝国憲法、教育勅語、君が代)で日本人の精神構造を“滅私奉公”型に作り上げた。その結末が65年前の暑い夏、そして一面焼け野原であり、経済規模は一挙に100年後戻りした。

“古い上着”にサヨナラし、新制日本の再建目指し、“戦い越えて立ち上がる”予定だったのだが、治安維持法違反で囚われの身であった羽仁氏が後に述懐した様に、仲間が牢の鍵を開けてくれると思ってたのに、15日が過ぎてしまい、釈放されたのがGHQの指令があってから、つまり“日本のバスチーユ”は起きなかった。それ故に、日本共和国成立は幻となってしまった。65年前に、松本冶一郎大統領、羽仁五郎総理、住井すえ文部大臣の共和国政府が出来ていたら“東洋のスイス”が実現していたであろう。

 国体護持しか念頭になかった、敗戦処理内閣、アメリカの日本研究の成果、天皇への忠誠心は占領軍への協力に活かせる、との妥協の産物として天皇制は“国民統合の象徴”として生き残った。さらにアメリカの冷戦発動により、公職追放解除となった戦前の勢力が、アメリカの意志に忠実であることを前提として、政治、経済、メディア界に復帰した。当然彼らの精神構造は、前述の3本の矢による戦前回帰であり、日本国憲法と旧教育基本法が目の敵となる。

 国会の多数決で実現可能な、元号実質法制化(政令による)、国旗・国歌制定、旧教育基本法改定、はすでに成就した。強制しないはずの国旗・国歌は現代版“踏み絵”として、忠君愛国、滅私奉公の従順なる臣民育成の手段にされている。大日本帝国憲法下(万世一系の天皇の統治権・神聖にして犯すべからず)では、法制化されていなくとも、最も相応しいのが“君が代”であるが、日本国憲法下で育ったものとしては、“歌いたくない歌”である。日本国憲法の定めで総理に就任した菅総理は、過日の予算委員会で保守派の代表でメディアにも度々登場する平澤氏に追求されて、無気になって反論していたが、挑発に乗って自らの良心を裏切ることがあってはならない。多分その平澤氏の発言の効き目なのだろう、広島、長崎での総理挨拶の最後で、“平成22年”と読んでいる。広島の子供たちは“平成22年、2010年”と述べているし、長崎市長も“2010年、平成22年”と述べたが、被爆者代表の80何歳かの人の宣言の内容の素晴らしさ故に、“被爆65年1月4日”と述べて欲しかった。

過ちを繰り返さないのは誰、、、

2010年08月06日 21時29分03秒 | コラム
 65年前に広島上空で爆発した原子爆弾は、数知れない不幸を、ただこの地に生きていたという人々に与えたし、65年後の今も与え続けている。今年の平和式典には、国連事務総長が始めて出席し核廃絶への意欲を示すメッセージを発したし、在日アメリカ大使がこれまた初の出席となった。オバマ大統領が核廃絶への意欲を示し、ノーベル平和賞まで受賞したが、具体的な行動が伴わない意思表示では、核廃絶を願う人類にとって、幻想に過ぎないと思う。

 私ごとになるが、もしかしたら65年前の8月6日は、私たち家族の命日になってたかもしれない。その3年前、東南アジアに侵略した日本軍は、たちまち、イギリス、フランス、オランダの支配していた地域を占領した。旧逓信省の役人だった父は、占領地と本土との軍事郵便開設の先発隊として、陸軍に召集され、陸軍司政官としてシンガポールに赴任した。外地赴任は2年とのことだったので、その任期を終えて帰国すれば、留守家族は仙台に住んでいたし、次の赴任地は広島勤務が決まっていたそうだ。帰国予定が、1944年3月、しかし、その一年前に、遺骨だけが戻ってきた。遺族となった母と6人の子供たちは、仙台で敗戦を迎えた。

 父が元気で帰国していたら、灰となったかも知れない私にも、ヒロシマは他人事ではない。原爆を開発した科学者は、人類に使用すべきではない、50年間は草木一本生えないであろうし、警告で止めるべきだと主張したのだが、国益(アメリカの若者の犠牲を少なくする)を重視するアメリカ大統領トルーマンのGOサインで、ヒロシマのみならずナガサキで悪魔の兵器が炸裂した。

 ポツダム宣言受託の勧告は7月26日に当時の日本国政府に提示された。米ソの密談で、ドイツ降伏の3ヶ月後(8月8日)のソビエトの対日参戦が準備されていた。何故、7月中に、遅くとも8月6日前に無条件降伏を決断しなかったのか。心ならずも犠牲となった20万以上の声を上げることの出来ない人々の声を聞く耳を持つ人の数を増やしていく記念日にしなくてはならない。人の善意は期待したいが、1928年の不戦条約が厳守されれば、20世紀前半で戦争のない地球が実現したはずだし、体制の違いを超えて、反ファシズム戦争に勝利した米ソの兵士達の握手“エルベの誓い”が両国の多数となれば、不毛の“東西冷戦”など発動することはなかったはずだ、