72年前の今日10月21日、冷たい雨の降りしきる神宮外苑競技場で、ペンを銃に持ち替えさせられた学生たちが、学徒出陣のパレードを行い、2万5000人の分列行進、5万を超す大群衆がそれを見守った。2020年開催の東京オリンピックのメイン会場として建て替えられることとなり、競技場前に設置されていた学徒の慰霊碑も撤去されたが、2年前最後の慰霊祭が100人ほどの参加で執り行われたが、歴史を風化させないためには、新競技場が竣工しても、会場を訪れた人の目に付くところにその慰霊碑は里帰りすべきだろう、、、。
アメリカのベトナム戦争への介入が本格化した1964年の北爆開始から、世界各地でベトナム反戦活動も活発化してきたが、この国でも、当時最大の労働組合の連合体であった総評の呼びかけで、1966年10月21日、ベトナム戦争反対のストライキを呼びかけ、運動がスタートした。その日を記念して10月21日を国際反戦デーと呼ばれるようになった。その記念日に、1968年には新宿駅で、翌69年には佐藤訪米阻止の騒乱が生じたが、それ以降は、年中行事としての中央集会が開催されていたのだが、発信元の総評はすでになく、イニシアチブ争奪で社共が分裂集会を開いたり、統一して中央集会を開いたりしていたが、忘れ去られた行事になってしまっている。沖縄ではこの日を記念する辺野古での集会が執り行われるのだが、、、、。
”武器よさらば”、”西部戦線異状なし”は第一次世界大戦後の反戦文学作品だが、いずれも映画化されたし、多くに人が観賞したことだろう、、。双方の映画は鑑賞した記憶があるのだが、レマルクの作品には今でも強い衝撃を受けた思い出がある。戦線がこう着し、塹壕戦になり、狙撃兵として相手を窺っているとき、相手陣地の兵士が鉄兜を脱いだ頭髪の様子が故郷の父のことに思いを寄せられ、引き金を引かなかった。故郷を偲んでいるうちに、一羽の蝶が舞っている、立ち上がって手を伸ばした瞬間、一発の銃声、そして、その若者の頭を貫いた。その日の前線からの本部あての電文が”西部戦線異状なし”であった。人間性を抹殺するのが戦争というものであることを叩き込まれた気がする。
元読売新聞の記者だった大谷氏のインタビューを聞く機会があったが、どこにでもある幸せを壊すのが戦争だし、メディアに携わる人間は肝に銘じなくてはならないとの趣旨であった。かって読売には”黒田軍団”と言われた、どこにでもある幸せを守ろうとしたジャーナリストがいたのだが、今は産経新聞と太鼓持ちを競っているのは困り者だ、、、。ひと月前、強引に法案を可決した(混乱の中でとても良識の府で審議され納得の上で議決されたとは思えないのだが、、、)あと、内閣改造に踏み切り、お友達だと安心なのか、?のつきそうな大臣を大量生産、臨時国会を召集する気配を見せず、アメリカ空母の甲板に招待されて大見得を切る大根役者、そんな人物へすり寄るのは、”社会の木鐸”の看板を降りしてからにしてもらいたいものだ、、、。