自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

南京事件から70年

2007年11月30日 12時13分51秒 | コラム
 日本の教科書では『南京大虐殺』という言葉を避けて南京事件と表現しているのだが、歴史的には1927年、南京に於ける騒擾に対する米英軍の砲撃事件を南京事件と呼んでいる。その10年後、日本軍による南京攻略前後の日本軍の中国軍捕虜、便衣隊、一般市民への組織的殺戮をいうのだが、その殺害の数を30万以上からせいぜい4,5万程度との論争がこの国ではあるのだが数が少なければそれだけ罪が軽いとはならないのである。さらに、『皇軍無謬』を信じる保守勢力の代弁者は、南京事件そのものをなかったと主張している。しかし廬溝橋事件(’37・7・7)から始まる8年間の本格的な日中戦争時の『無敵皇軍』による様々な蛮行の先駆けとなった出来事として教訓としなければならない。

 2000年に渉る日中交流史の中で、その大部分は日本が恩恵を受け続けたといって良いであろう。鎌倉時代のモンゴル襲来の時も、被征服民族だった漢民族は、船の建造や操作等の後方支援を強制されたが、基本的に農耕民族である漢民族は、武力による勢力拡大はしない。モンゴル族を砂漠の彼方へ追いやり漢民族の明が建国されると、室町幕府を確立した足利義満は公家方を屈服させ(南北朝統一)、自ら日本国王を名乗ったが、明に対しては朝貢貿易の形式を取り、莫大な経済的利益を得ることが出来た。明のあと、満州民族による征服王朝(清)が約300年に渉り中国本土を支配する。その末期、明治維新の政治改革に成功した日本との朝鮮を巡る戦いが日清戦争であるが、漢民族にとって民族主義の目覚めともなり、明治維新から学ぼうとする多くの中国人が日本に留学するようになる。孫文を支援した宮崎稲天、魯迅に慕われた藤野先生、彼らの存在は日中友好にとっては貴重な存在だが、この国では少数派、特に1915年、対華21箇条要求を建国間もない中華民国に対し武力を背景に認めさせた頃からそれまでの反動か、反中華思想、中国への侮蔑意識が大勢となってきた。少数派として、『杜子春』を原典を参考に著した芥川龍之介は、’21年、新聞記者として約半年の中国訪問、その紀行文で新中国の誕生を予見するジャーナリストとしての先見性を発揮していた。秀吉の朝鮮出兵にしても、秀吉自身は明まで攻め込むつもりだったようだが、朝鮮を支援した明兵とは朝鮮半島で戦ったし、日清戦争にしても戦場は朝鮮半島であった。

 中国大陸に日本の軍隊が足を踏み入れ、武力を行使したのは、北清事変における義和団の反乱を当時中国に利害関係にあった国が共同して弾圧した時であり、特に北清(満州)に関心の強いロシアとの対立がイギリスの支援(日英同盟)を受けてロシアと開戦する。日露戦争の戦場が中国であったこと、その勝利が中国への旧来の帝国主義政策を進めるきっかけとなった。ヨーロッパに於ける新旧帝国主義間の戦いが第一次世界大戦となるが、空白の期間、中国に於けるドイツの利権を奪い、更にロシア革命に対して干渉としてシベリア出兵したのも、中国東北部(満州)への領土的野心を露わにした出来事である。

 第一次世界大戦への反省として、人類の良心を体現しようとリーダーシップを発揮したのが、大戦中、イギリスを追い越し世界最大の経済力を持つようになったアメリカ合衆国のウイルソン大統領である。英仏の反対もあって不十分な結末となったが、軍縮会議、国際連盟の成立、1928年には不戦条約まで結ばれた。中国市場を巡る日米の対立を予想して、アメリカの主張が通り、ワシントン会議で、中国に関する9カ国条約で中国の領土保全・機会均等が決まり、同時に日英同盟も廃止された。日本は何れの条約も批准したが、その国際協調の時代に棹さしたのが、アメリカは中国市場で十分だが、中国への領土的野心を持つ日本であった。
 五四運動による中国民衆のそれまでの反英活動が反日に変わっていく中で、天皇の統帥権を盾とした現地派遣の軍部による独断専行を本国政府が追認するというパターンが繰り返されをれ、中国との全面戦争に繋がる。その序幕にあたるのが、柳条溝(湖)事件(関東軍の謀略)を発端とする満州事変である。満州は中国の領土ではない、領土保全を決めた九カ国条約違反ではないというのが日本の言い分で、辛亥革命によって退位した清王朝の皇帝を中心に傀儡の満州国を建国する。国際連盟によって民族自決に基づく独立国ではないとの決定がなされると、連盟を脱退し孤立化へ向かう。国内的にも数度のク・デター事件後、2・26事件で政党政治に結末を付け、廬溝橋事件を発端に中国への侵略を行うが、実質戦争であるが、不戦条約を批准してる手前、事変、事変で押し通した。中国に対する侮蔑意識が、『のらくろ』に象徴されるように、一突きで中国軍なんか殲滅出来る、と現地軍も判断し、華北を日本の勢力範囲におくが、西安事件による国共合作により、、激しい抵抗を受けることになる。そして戦線を上海へ拡大するのだが、第二次上海事件では、同盟国ドイツによって訓練された中国軍の抵抗にそれまでにない打撃を受けることとなる。 日中戦争の結末は、民衆の抵抗勢力を組織した毛沢東の戦略通り推移し、点と線は支配したが、抵抗の海で悶え苦しんだのが無敵皇軍であり、犠牲が大きくなればなるほど、皇軍の暴力性も高まったといえるだろう。家庭にあれば頼もしく尊敬に値する父・兄なのだが、戦場という特殊な場におかれた時、時には獣に化す場合もあるということも理解しなければならない。特に近代戦となると、実戦部隊1に対して、7から8倍(救護・輜重・警備等)の後方支援が必要であるのだが、中国戦線の日本軍は食料等は現地調達なので、ままならなければ強奪という手段が恒常的になり、一般民衆の抵抗もそれに伴い高まってくる。最終的には全てが敵となり、奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす(三光作戦)となったのだろう。南京大虐殺はその過渡期での歴史的事実で、殺戮された人数の多寡が問題なのではなく、戦争に付きものの惨劇(近々のイラク・アフガン戦争を見よ!)を防ぎ、更に進んで戦争をしないで済むにはどうすれば良いかの人類的課題にどう立ち向かえばいいかの問題である。その政治的解答が日本国憲法第九条だし、経済的解答が、アダム・スミス、K.マルクス、ケインズ、に続く第4の経済学、『戦争経済から脱却した経済学』の確立だろう、、、。

『天網恢々疎にして漏らさず』のためには、、、

2007年11月20日 14時01分29秒 | コラム
 人間に警鐘を与える81章の箴言を残し、何処かへ去った老子の73章での言葉である。仰ぎては天に恥じず、俯しては己に恥じぬ生き方をしようとする者にとっては座右の銘ともなる箴言であろう。いくら現実が利によって動く人間が多数だとしても、社会的地位が高まれば高まる程、利ではなく義により行動する人が多くないと困るのである。

 欲に絡め取られた人間の悲しい不祥事が頻発する昨今だが、今回の防衛省の問題にしても、問題が明らかになったのは、山田洋行での内部対立が発端となって、互いの暴露合戦になっているのだと思う。防衛省の中にも清廉潔白な、つまり業者からの盆暮れの届け物を送り返すような人もいるだろうが、そういう人は出世出来ない仕組みになっている。いろいろな問題に決定権を行使出来る重要な立場にある人は、清濁併せ飲めて大物だ、決定権の行使にあたって間違いがなければいいのだと考えているのではないだろうか、、、。そして一般庶民を見下し、利をちらつかせれば、決定に文句を唱えないのが一般人だ、との哲学を保持してるのではないだろうか、、、。アメリカの都合による米軍再編にあたって、利権の構造が明らかになっては困るし、決定したことに異を唱える自治体には補助金の交付を止める様な理不尽なことをあからさまに強行している現実は悲しいことだ。

 防衛省の天皇とまでいわれた元事務次官、己の刑事罰は受ける覚悟をしているようだが、己の知り得たことの全てを公にすることが、本当の贖罪になるのではないだろうか。『正直者が馬鹿を見て、悪い奴程よく眠る』のを無くすためには、社会的地位の高ければ高い人の内部告発が必要だと思う。歴代の警視総監が己の知り得た秘密を、国家のためにの名目で、墓まで持ち去ることがなければ、もう少しましな今があったかも知れない、、、。 

『死の商人』は歴史から引退を!

2007年11月16日 14時54分45秒 | コラム
 山田洋行に関するニュースで何となく聞き覚えがある企業名だなと思ったのだが、武器とは無縁の学用品メイカーの内田洋行のことだった。洋行とは中国語で貿易商社のことを言うらしいが、ウチダの定規やコンパスは使いやすくて狂いもなかったことを思い出す、、、。

 三大総合商社の三菱商事、住友商事、三井物産にも軍需品を扱う部門があるのだろうが、シーメンス事件の三井物産を除いて、未だかって司直の手が伸びたことがないのは不思議なことだが、戦後の新興商社、丸紅や日商岩井の、ロッキード社やグラマン社との関係が表立ったのは、三大商社に抗して業績を伸ばすにはより派手な政界への工作が必要だったのだろう、、、。まして軍需産業専門の山田洋行にしてみれば、自衛隊関係者に働きかけ、食い込むことによって、業績を伸ばすこと以外考えられない。

 不問にされたといわれる水増し請求の備品は、ヘリコプターがその熱線を追尾されて肩で担がれた小型ミサイルに撃墜されないために(アフガンに侵攻した旧ソビエトのヘリがアメリカから提供された武器で大損害を受けた)熱球をばらまく装置とのこと、こんなものが、戦争をしないと決めたこの国に必要なのだろうか。
 ヘリコプターには急を要する病人の搬送、道が寸断された被害地に対する物資の輸送、増水した川の中州に取り残されたり、火災のビルの屋上に逃れた人の救出、等の役目がある。まともに使えば人類に役立つものを、『死の商人』は人類の不幸に繋がるもので利を得続けている。

 守谷元事務次官は己の非は認め、組織を守ろうとの意欲を示しているが、小の虫を殺し、巨悪を見逃すことになってはいけない。今後10兆円規模といわれるミサイル防衛網の整備、それを推し進めるバックには三菱があることを注意深く見守ることだろう、、、。

茶番で一件落着?

2007年11月09日 13時56分14秒 | ニュ-ス
 とんだ政治劇だったね。作・脚本、ナベツネ氏、裏方、大勲位、二人主役、小沢・福田。ナベツネ氏は平成の坂本龍馬のつもりで、精一杯の憂国の念から、大連立の実現を目指したのだろう。小沢氏も一時は南州翁(西郷隆盛)の気になり、薩長同盟、江戸城無血明け渡しが可能と考えたのかも知れない。坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、勝海舟等の憂国の念は、亡国の危機迫る中での日本の真の独立であって、今回の(憂国)の士たちのそれは、アメリカが言い出し、始めた『テロとの戦争』に協力しないとアメリカからどんな仕打ちを受けるかも知れないとの心配から、今までの従米路線を継続するための大連立を目指したものに過ぎない。

 アメリカと友好関係を維持するのは当然であるが、そのアメリカとの間には、従米・親米・抗ないし好米・嫌米・反米の五段階があると思う。避けたいのは、親米高じての従米と嫌米が高じての反米である。反米の行き着く先が鬼畜米英であり、真珠湾攻撃の戦争になった歴史を忘れてはいけない。小沢氏は親米ではあるが、アメリカの理不尽には協力出来ない抗米で、テロ特に反対なのは正しいと思う。抗米に対してアメリカがその非を認め反省するなら、親米度は高まるだろう。非を認めなければ、嫌米になるのもやむを得ないが、反米になってはいけないと思う。真の日米友好のためには、親米・抗米・嫌米の範囲で意見の違いや利害の対立を交渉によって解決していくことだろう。今のアメリカは度量がないのか、従米のみを親米と見なし、それ以外は全て反米と考え、力で押さえ込もうとしているのではないだろうか。それ故に反米勢力を増やし、その延長上にテロリストに活動の場を与えてしまってるのではないだろうか。

 今もって原爆投下や東京大空襲など無差別爆撃で一般市民を殺戮したことをアメリカは謝罪していない。アメリカの都合による米軍再編の費用を日本に負担させようとしている。近々では岩国に於ける米軍軍人の日本人女性への暴力、嫌米になる要素は数知れない。従米路線から真の親米路線へ、更にあらゆる国との友好路線のための大連立なら大賛成で、その為に平成の坂本龍馬の出現が待たれるところである。

『世界を震撼させたロシア革命』から90年

2007年11月07日 11時55分38秒 | コラム
『世界を震撼させたロシア革命』はその理念からは、それまで人間扱いを受けていなかった、虐げられた農民・労働者・兵士の解放を目指すものであった。しかし、アンドレ・ジイドが早々と落胆したように、国の内外に反革命勢力を抱え、革命の成果を守るためには極端な権力集中、その結果として独裁政治を生み出すこととなる。社会主義というのはもともと経済理論であって、そういう社会経済体制を建設する為には、一人一人の意識をその体制にあったものに変えて行かなくてはならないし、それこそ気の遠くなるような時間が必要となる。つまり民主的手法による政治、教育によって実現に向かうものである。その為には基本的に人間信頼(ヒューマニズム)が欠かせない。

 かつて次のような言葉『16歳の時に社会主義者でないものは、心のない人間であり、60歳になっても社会主義者でいるのは頭(脳)のない人間である。』を聞いたことがある。前半の部には全面的に賛同したい。つまり若い頃に、社会的差別に敏感で、その解決のために社会主義の理念を信じることは、心ある若者にはあってしかるべきである。後半の部では、リベラルな政治家の中に若い頃、マルクス主義に惹かれた人が多々見られるのが分かるような気がする。

 ソビエト崩壊による社会主義の実験が頓挫したのも、社会主義大国中国の作今の苦悩、これらは、私利を否定する社会主義の原則を権力(共産党独裁)で維持するために、個々人の欲まで押しつぶしてるからだと思う。社会主義は私利を否定するも、私欲まで否定してはいけない。むしろ、他利私欲は推奨すべきだ。人は生きていく上での向上心は持つべきだし、向上心は言い換えれば私欲ともいえる。問題は、私利私欲ではなく、己の向上心を他利私欲に高めることにある。

 この国には『働く(傍が楽になる)』という言葉がある。かつて日本にきた、F.ザビエルが賞賛した当時の国民性『勤勉で、礼儀正しく、慎ましい』は構造改革という名の市場原理主義によって葬り去られようとしている。働くことが好きというこの国の唯一の財産は、篤農家や町工場の経営者兼職人に細々と引き継がれているが、その火は決して消すようなことがあってはならない。

損得から尊徳へ

2007年11月06日 15時41分42秒 | コラム
 散歩の途中で、木の枝にラジオをかけて、畑仕事に励む古老に出会う。不断はあいさつ程度で通り過ぎるのだが、たまたま一服中の古老から色んな話を聞かせて貰った。埋もれ消え去りかねない地域史の一端である。程近いところに、今は芦原の窪地になっているところがあり、そこはかって農業用のため池であったとのこと、そのため池は、江戸三大飢饉の天保の頃、二宮金次郎の指導のもと作られた。今は用水路が引かれ、無用のものになっているが、かつてはこの地の農業にとって欠かせない存在であったし、水の管理にあたって厳しい決まりもあった。用水路が引かれる40年ほど前までは、地域全体で管理し、寄り合いでは先人の労苦を偲んで、報徳訓を唱和したそうだ。その際の双副の掛け軸(尊徳姿絵と9字12連の報徳訓)も無用となり処分されそうになったので、いかばかりかの金を払って自宅に持ち帰り、今も家宝として床の間にかけてるとのことであった。
 その時には、サツマイモの収穫をしていたのだが、昔からこの地のサツマイモは味が良く美味しいとの評判で、多くの農家が作っていたのだが、今では俺だけになってしまったが、それでも収穫したのを配ってくるのと楽しみにしてる人が多いとか、彼の篤農ぶりには尊徳精神が生きているのだと思う。報徳訓の一連の言葉が口からすらすら出てくる。『我が身の富貴は父母の積善にあり、子孫の富貴は自己の勤労にあり』

 銅像になると、何者かに利用されかねないのだが、3000年前の孔子の『君子は義に諭り、小人は利に諭る』との言にあるように、損得で行動する小人が目立つ作今、尊徳精神が見直されても良いのかも知れない。

 そういえば、甲子園の常連校、駅伝でも活躍する報徳学園高校の建学の初志は、神戸の実業家、大江一松氏が、1911年、当時の日本人が日露戦争の(勝利)におごり高ぶり、韓国併合に酔いしれ、このままでは日本が滅んでしまうとの危機感のもと、地に足を着けた若者の育成にあたろうとしたからである。