日本の教科書では『南京大虐殺』という言葉を避けて南京事件と表現しているのだが、歴史的には1927年、南京に於ける騒擾に対する米英軍の砲撃事件を南京事件と呼んでいる。その10年後、日本軍による南京攻略前後の日本軍の中国軍捕虜、便衣隊、一般市民への組織的殺戮をいうのだが、その殺害の数を30万以上からせいぜい4,5万程度との論争がこの国ではあるのだが数が少なければそれだけ罪が軽いとはならないのである。さらに、『皇軍無謬』を信じる保守勢力の代弁者は、南京事件そのものをなかったと主張している。しかし廬溝橋事件(’37・7・7)から始まる8年間の本格的な日中戦争時の『無敵皇軍』による様々な蛮行の先駆けとなった出来事として教訓としなければならない。
2000年に渉る日中交流史の中で、その大部分は日本が恩恵を受け続けたといって良いであろう。鎌倉時代のモンゴル襲来の時も、被征服民族だった漢民族は、船の建造や操作等の後方支援を強制されたが、基本的に農耕民族である漢民族は、武力による勢力拡大はしない。モンゴル族を砂漠の彼方へ追いやり漢民族の明が建国されると、室町幕府を確立した足利義満は公家方を屈服させ(南北朝統一)、自ら日本国王を名乗ったが、明に対しては朝貢貿易の形式を取り、莫大な経済的利益を得ることが出来た。明のあと、満州民族による征服王朝(清)が約300年に渉り中国本土を支配する。その末期、明治維新の政治改革に成功した日本との朝鮮を巡る戦いが日清戦争であるが、漢民族にとって民族主義の目覚めともなり、明治維新から学ぼうとする多くの中国人が日本に留学するようになる。孫文を支援した宮崎稲天、魯迅に慕われた藤野先生、彼らの存在は日中友好にとっては貴重な存在だが、この国では少数派、特に1915年、対華21箇条要求を建国間もない中華民国に対し武力を背景に認めさせた頃からそれまでの反動か、反中華思想、中国への侮蔑意識が大勢となってきた。少数派として、『杜子春』を原典を参考に著した芥川龍之介は、’21年、新聞記者として約半年の中国訪問、その紀行文で新中国の誕生を予見するジャーナリストとしての先見性を発揮していた。秀吉の朝鮮出兵にしても、秀吉自身は明まで攻め込むつもりだったようだが、朝鮮を支援した明兵とは朝鮮半島で戦ったし、日清戦争にしても戦場は朝鮮半島であった。
中国大陸に日本の軍隊が足を踏み入れ、武力を行使したのは、北清事変における義和団の反乱を当時中国に利害関係にあった国が共同して弾圧した時であり、特に北清(満州)に関心の強いロシアとの対立がイギリスの支援(日英同盟)を受けてロシアと開戦する。日露戦争の戦場が中国であったこと、その勝利が中国への旧来の帝国主義政策を進めるきっかけとなった。ヨーロッパに於ける新旧帝国主義間の戦いが第一次世界大戦となるが、空白の期間、中国に於けるドイツの利権を奪い、更にロシア革命に対して干渉としてシベリア出兵したのも、中国東北部(満州)への領土的野心を露わにした出来事である。
第一次世界大戦への反省として、人類の良心を体現しようとリーダーシップを発揮したのが、大戦中、イギリスを追い越し世界最大の経済力を持つようになったアメリカ合衆国のウイルソン大統領である。英仏の反対もあって不十分な結末となったが、軍縮会議、国際連盟の成立、1928年には不戦条約まで結ばれた。中国市場を巡る日米の対立を予想して、アメリカの主張が通り、ワシントン会議で、中国に関する9カ国条約で中国の領土保全・機会均等が決まり、同時に日英同盟も廃止された。日本は何れの条約も批准したが、その国際協調の時代に棹さしたのが、アメリカは中国市場で十分だが、中国への領土的野心を持つ日本であった。
五四運動による中国民衆のそれまでの反英活動が反日に変わっていく中で、天皇の統帥権を盾とした現地派遣の軍部による独断専行を本国政府が追認するというパターンが繰り返されをれ、中国との全面戦争に繋がる。その序幕にあたるのが、柳条溝(湖)事件(関東軍の謀略)を発端とする満州事変である。満州は中国の領土ではない、領土保全を決めた九カ国条約違反ではないというのが日本の言い分で、辛亥革命によって退位した清王朝の皇帝を中心に傀儡の満州国を建国する。国際連盟によって民族自決に基づく独立国ではないとの決定がなされると、連盟を脱退し孤立化へ向かう。国内的にも数度のク・デター事件後、2・26事件で政党政治に結末を付け、廬溝橋事件を発端に中国への侵略を行うが、実質戦争であるが、不戦条約を批准してる手前、事変、事変で押し通した。中国に対する侮蔑意識が、『のらくろ』に象徴されるように、一突きで中国軍なんか殲滅出来る、と現地軍も判断し、華北を日本の勢力範囲におくが、西安事件による国共合作により、、激しい抵抗を受けることになる。そして戦線を上海へ拡大するのだが、第二次上海事件では、同盟国ドイツによって訓練された中国軍の抵抗にそれまでにない打撃を受けることとなる。 日中戦争の結末は、民衆の抵抗勢力を組織した毛沢東の戦略通り推移し、点と線は支配したが、抵抗の海で悶え苦しんだのが無敵皇軍であり、犠牲が大きくなればなるほど、皇軍の暴力性も高まったといえるだろう。家庭にあれば頼もしく尊敬に値する父・兄なのだが、戦場という特殊な場におかれた時、時には獣に化す場合もあるということも理解しなければならない。特に近代戦となると、実戦部隊1に対して、7から8倍(救護・輜重・警備等)の後方支援が必要であるのだが、中国戦線の日本軍は食料等は現地調達なので、ままならなければ強奪という手段が恒常的になり、一般民衆の抵抗もそれに伴い高まってくる。最終的には全てが敵となり、奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす(三光作戦)となったのだろう。南京大虐殺はその過渡期での歴史的事実で、殺戮された人数の多寡が問題なのではなく、戦争に付きものの惨劇(近々のイラク・アフガン戦争を見よ!)を防ぎ、更に進んで戦争をしないで済むにはどうすれば良いかの人類的課題にどう立ち向かえばいいかの問題である。その政治的解答が日本国憲法第九条だし、経済的解答が、アダム・スミス、K.マルクス、ケインズ、に続く第4の経済学、『戦争経済から脱却した経済学』の確立だろう、、、。
2000年に渉る日中交流史の中で、その大部分は日本が恩恵を受け続けたといって良いであろう。鎌倉時代のモンゴル襲来の時も、被征服民族だった漢民族は、船の建造や操作等の後方支援を強制されたが、基本的に農耕民族である漢民族は、武力による勢力拡大はしない。モンゴル族を砂漠の彼方へ追いやり漢民族の明が建国されると、室町幕府を確立した足利義満は公家方を屈服させ(南北朝統一)、自ら日本国王を名乗ったが、明に対しては朝貢貿易の形式を取り、莫大な経済的利益を得ることが出来た。明のあと、満州民族による征服王朝(清)が約300年に渉り中国本土を支配する。その末期、明治維新の政治改革に成功した日本との朝鮮を巡る戦いが日清戦争であるが、漢民族にとって民族主義の目覚めともなり、明治維新から学ぼうとする多くの中国人が日本に留学するようになる。孫文を支援した宮崎稲天、魯迅に慕われた藤野先生、彼らの存在は日中友好にとっては貴重な存在だが、この国では少数派、特に1915年、対華21箇条要求を建国間もない中華民国に対し武力を背景に認めさせた頃からそれまでの反動か、反中華思想、中国への侮蔑意識が大勢となってきた。少数派として、『杜子春』を原典を参考に著した芥川龍之介は、’21年、新聞記者として約半年の中国訪問、その紀行文で新中国の誕生を予見するジャーナリストとしての先見性を発揮していた。秀吉の朝鮮出兵にしても、秀吉自身は明まで攻め込むつもりだったようだが、朝鮮を支援した明兵とは朝鮮半島で戦ったし、日清戦争にしても戦場は朝鮮半島であった。
中国大陸に日本の軍隊が足を踏み入れ、武力を行使したのは、北清事変における義和団の反乱を当時中国に利害関係にあった国が共同して弾圧した時であり、特に北清(満州)に関心の強いロシアとの対立がイギリスの支援(日英同盟)を受けてロシアと開戦する。日露戦争の戦場が中国であったこと、その勝利が中国への旧来の帝国主義政策を進めるきっかけとなった。ヨーロッパに於ける新旧帝国主義間の戦いが第一次世界大戦となるが、空白の期間、中国に於けるドイツの利権を奪い、更にロシア革命に対して干渉としてシベリア出兵したのも、中国東北部(満州)への領土的野心を露わにした出来事である。
第一次世界大戦への反省として、人類の良心を体現しようとリーダーシップを発揮したのが、大戦中、イギリスを追い越し世界最大の経済力を持つようになったアメリカ合衆国のウイルソン大統領である。英仏の反対もあって不十分な結末となったが、軍縮会議、国際連盟の成立、1928年には不戦条約まで結ばれた。中国市場を巡る日米の対立を予想して、アメリカの主張が通り、ワシントン会議で、中国に関する9カ国条約で中国の領土保全・機会均等が決まり、同時に日英同盟も廃止された。日本は何れの条約も批准したが、その国際協調の時代に棹さしたのが、アメリカは中国市場で十分だが、中国への領土的野心を持つ日本であった。
五四運動による中国民衆のそれまでの反英活動が反日に変わっていく中で、天皇の統帥権を盾とした現地派遣の軍部による独断専行を本国政府が追認するというパターンが繰り返されをれ、中国との全面戦争に繋がる。その序幕にあたるのが、柳条溝(湖)事件(関東軍の謀略)を発端とする満州事変である。満州は中国の領土ではない、領土保全を決めた九カ国条約違反ではないというのが日本の言い分で、辛亥革命によって退位した清王朝の皇帝を中心に傀儡の満州国を建国する。国際連盟によって民族自決に基づく独立国ではないとの決定がなされると、連盟を脱退し孤立化へ向かう。国内的にも数度のク・デター事件後、2・26事件で政党政治に結末を付け、廬溝橋事件を発端に中国への侵略を行うが、実質戦争であるが、不戦条約を批准してる手前、事変、事変で押し通した。中国に対する侮蔑意識が、『のらくろ』に象徴されるように、一突きで中国軍なんか殲滅出来る、と現地軍も判断し、華北を日本の勢力範囲におくが、西安事件による国共合作により、、激しい抵抗を受けることになる。そして戦線を上海へ拡大するのだが、第二次上海事件では、同盟国ドイツによって訓練された中国軍の抵抗にそれまでにない打撃を受けることとなる。 日中戦争の結末は、民衆の抵抗勢力を組織した毛沢東の戦略通り推移し、点と線は支配したが、抵抗の海で悶え苦しんだのが無敵皇軍であり、犠牲が大きくなればなるほど、皇軍の暴力性も高まったといえるだろう。家庭にあれば頼もしく尊敬に値する父・兄なのだが、戦場という特殊な場におかれた時、時には獣に化す場合もあるということも理解しなければならない。特に近代戦となると、実戦部隊1に対して、7から8倍(救護・輜重・警備等)の後方支援が必要であるのだが、中国戦線の日本軍は食料等は現地調達なので、ままならなければ強奪という手段が恒常的になり、一般民衆の抵抗もそれに伴い高まってくる。最終的には全てが敵となり、奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす(三光作戦)となったのだろう。南京大虐殺はその過渡期での歴史的事実で、殺戮された人数の多寡が問題なのではなく、戦争に付きものの惨劇(近々のイラク・アフガン戦争を見よ!)を防ぎ、更に進んで戦争をしないで済むにはどうすれば良いかの人類的課題にどう立ち向かえばいいかの問題である。その政治的解答が日本国憲法第九条だし、経済的解答が、アダム・スミス、K.マルクス、ケインズ、に続く第4の経済学、『戦争経済から脱却した経済学』の確立だろう、、、。