戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話、戦後70年での談話を、有識者懇談会なるものまで設けて、安倍色を打ち出そうとの意欲満々の安倍総理だったが、あちこちでチェックを受けたようで何とも締まらない談話となってしまった。新聞一面で、英訳付きで示されていたが、読み始めて、冒頭の文で後を読み続ける必要がなくなってしまった。”日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。”という件である。安倍さんが選んだ有識者という人たちの歴史認識の貧しさを再認識する内容である。その歴史認識の行き着く先が、”大東亜戦争”はアジア解放の戦いであり、我が国は敗れたが、アジア、アフリカの独立を促した、、、となる独善的な歴史認識である。
”日露戦争までは正義の戦争であった。軍規が守られていて、日本軍は立派だった。”との司馬史観がこの国の有識者には常識になっているのかもしれないが、日露戦争をあおるメディアに対して、平民新聞を発刊し、日露戦争反対の主張をした幸徳秋水の主張を、両国民衆にとっての真理として受け止める必要があるのだが、、、。
アジアで欧米の植民地にならずに独立を維持できたのは、この国の一人として誇りにしていいのだが、他の植民地支配受けた人々への優越感となってはいけない。この国に砲艦外交で開国をせまり、植民地化の第一歩である、不平等条約を押し付けたアメリカ、この国がアメリカの植民地にならなくて済んだのは、アメリカにおける内戦(南北戦争)、イギリスに対するインド人の抵抗(セポイの乱)、中国人の欧米への反乱(太平天国の乱)等の国際状況がこの国に優位に働き、その条件を生かし、倒幕に成功し、中央集権国家を設立し、独立を維持できたとのグローバルな歴史認識が必要である。
今までは中東では親日感情が高いといわれてきた。その代表がトルコであろう。その理由は、かって大帝国をきづいたオスマントルコ帝国が、弱体化する中で、拡張政策を意図したロシア帝国との間に、17C~19Cにかけて、12回にわたって戦争を続け、領土を奪われ続けてきた歴史があるからだ。すべて負け続け領土を奪われ、唯一勝利したのは、同じくこの地に利害関係にあったイギリス、フランスの支援を受けて戦ったクりミヤ戦争の時だけであった。それ故に、大帝国は解体され、トルコ民族発祥の小アジア半島に共和国を建設したトルコは、当然その国の歴史で、ロシアへの敵愾心、そのロシアに勝利したアジアの小国、日本について学ぶ機会が多いのであろう。戦争に敗れたのち復興がなり、豊かな国を再建した日本に、興味を持ち、留学してくるトルコ人も出てくるようになる。そんな人々の中で、日本語を学び、文字も読めるようになり、大きなネオン照明で自分の国名を見つけ、同僚に会えると思って出向いたところ、なんてことない風俗施設だった。そんな親日家の投書があって、○○ランドに名称を変えたなんということもあったのだが、、、。
歴史は繰り返すというけど、大英帝国は、名誉ある孤立政策を維持してきた。世界が束になっても負けることがない軍事力を保持し、大帝国を維持できたからだ。最初に挑戦してきたのがフランスだし、アフリカでは、イギリスの縦断政策とフランスの横断政策がぶつかり合い、ファッショだ事件でイギリスは勝利した。インドではプラッシーで勝利したイギリスはやがて大英帝国領にした。アジアの片隅日本でも、討幕派を支援したのがイギリスだし、幕府を支援したのがフランスであった。唯一フランスが勝利できたのが、イギリスの植民地だったアメリカ東部の13州が本国から独立を目指したとき、支援して独立を果たした時であろ。その喜びを象徴する建造物が、フランス市民からのアメリカ市民へのプレゼント、自由の女神である。続いて力をつけてきたロシアとの関係では、地中海へのロシアの意図は、トルコを支援し、黒海のクリミアにとどめることができた。インド洋への南下は、その”乳牛たるインド(ネルーの言)”を守るために、アフガンを保護領とし、ロシアに最後通牒を出し防ぐことができた。中国への進出に対して、中国でのアヘン戦争以来の利権を守るために、栄光ある孤立をやめて、新興国日本をおだて、ロシアの中国への南下政策を防いだのが日露戦争である。1902年の日英同盟があって、この国は対ロ戦に踏み切り、多大の犠牲を払い辛勝、そしてイギリスの支援打ち切り(ロシアの南下が停止、日本の利権拡大は朝鮮にとどめたいイギリスの意思)で、戦争の継続は困難で、ポーツマス条約。反対の日比谷焼打ち事件があったのは、真実を知らされないマインドコントロールされてる大衆が存在していたから、、、。”中国の海洋進出”と”ロシアの、朝鮮、中国への南下政策”それを食い止めたい、アメリカ、イギリス、の対日政策が、日米安保条約(より具体化する約束が安保法制)であり、日英同盟だったのだろう、、、。