自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

G20会議で決めるべきは、、、

2013年02月15日 13時23分10秒 | 政治・経済

 今週末ロシアでG20の会議が開かれる。おそらく各国のエゴが災いしてまともな取り決めもないまま終了することだろう、、、。’09年に”国際経済協力の協議体”とされ、世界人口の3分の2を占め、GDPでは90%、貿易額では80%以上を占める地域の問題について話し合われるのだが、、、。

 世界の信用ある基準通貨が、ニクソンショック以来消滅してしまい、市場に任せる変動相場制になり、投機資本主義の跳梁跋扈を許すことになった現状を何とか押さえ込まねばならないのが現在の課題である。交換の仲立ちとしての通貨、その通貨の仲立ちとしてこの地球上で最高に適していたのが、地金としての金である。つまり、少しでも値打ちがある、腐ったり減ったりしない、分けても値打ちが変わらない、等の条件に最高の適したのが金である。

 ロシアに集まる20カ国は、各国が持ち出せる金の地金の量を公にして、その集めた金といつでも交換できる通貨(1gの金を1ワールドと決めてよいであろう)の発行に踏み切るべきだ。そして各国はその拠出に応じた世界通貨(ワールド)を受け取り、最終国際決算をワールドでやればよいと思う。各国の通貨レートは、その国の経済状況は日々変わることはないのだから、半年ないし、1年は固定相場とし、半年一年単位で見直しすれば、投機資本主義の寵児を閉め出すことが可能となる。額に汗、つまり労働が富の源泉であるという、ペティーにはじまりリカード、アダム.スミス、そしてマルクスによって証明された労働価値説を、たとえマルクス主義を否定する人でも認める必要がある。もっとも世界通貨(ワールド)が発行されるようになれば、為替相場も不要になるかもしれない。


千里馬が暴走馬に、、、?

2013年02月13日 10時13分13秒 | コラム

 今年は朝鮮戦争休戦から60年になる。未だに平和条約が締結されていないのだが、アメリカに対して直接対話を呼びかけても応じてもらえず、ミサイル、核実験で何とか交渉に持ち込もうとしているのかもしれない。民主主義人民共和国とは名ばかりの、キム王朝3代目の確立を意図しているのだろうが、千里馬が暴走馬になってしまった責任はどこに求められるのであろうか、、、。

 隣国朝鮮が南北に分断され、過酷な戦乱を迎えた責任の大半は我が国にある。朝鮮を植民地にした(1910年)事実を、この国の保守派はロシアの朝鮮支配を防ぐためやむを得なかったと主張しているが、だったら、第一次大戦後、ウイルソンが提唱した”民族自決主義”にいち早く賛同し、朝鮮の独立を認め(3.1独立運動を弾圧することなく)他国にも植民地放棄を求めたのだったら話は分かる。そうすれば、秀吉の朝鮮出兵、日韓併合も両国間の一時的な負の歴史として理解し合い、古代から続いた永劫の歴史の上に立った友好国になれたのだが。それどころか、朝鮮を足場に中国への帝国主義政策を実施し、満州事変から始まる対中15年戦争の泥沼に陥り、対米英戦争まで発動し、その結末を1945年8月15日まで延ばしたことが、隣国朝鮮の不幸に繋がったことを忘れてはいけない。敗戦を自覚し、中立条約を結んでいたソビエトに仲介を要請していたし(ヤルタ密談で相手にされず)、7月26日に出されたポツダム宣言を、すぐに受託するか、少なくとも8月を迎える前に受託していれば、ソビエト参戦もないし、それに伴う北方領土の問題もないし、朝鮮分断も、ヒロシマ、ナガサキもなかった。

 冷戦前のアメリカ、ソビエトの約束、”北緯38度以北の日本軍の武装解除はソビエト軍が、南はアメリカ軍が、終了後両軍は撤退し、統一選挙実施”が実行されていれば、対日独立を進めていた人たちを中心に新しい朝鮮共和国が出来ていたことだろう、、、。冷戦の局地熱戦、朝鮮戦争、”戦争は殺戮と破壊、正義の戦争とて絶対悪”どれほど多くに悲しみをこの半島にもたらしたことか、、、。’53年、休戦成立後の国造りは、チョンリマ運動で民衆の結束に成功した北の方が順調だった。南の民衆行動により李承晩が亡命し、南北の統一が実現しそうになり、半島の社会主義化を防ぐべく、アメリカに支援された軍部のク.デターにより、朴軍事政権が南を支配するようになった。北の優位を覆すべく、アメリカは全面的に朴政権を支援、さらに日本にも南を支援させるべく、”日韓基本条約”の締結を促した。日米の支援を受けた朴政権は、“漢江の奇跡”といわれる高度経済成長で、南の優位を実現した。マスゲームに見られる北の一糸乱れぬ統一の素晴らしさも、自然災害や軍事優先による一般民衆の生活苦をカバーしきれなかったのだろう。北の指導部は南、さらに日本にも工作活動を強化したのだと思う。その延長沿いに”拉致問題”が存在する。

 ブルーリボンをつけて、”制裁、制裁”と口走るだけのこの国の指導者、テポドンや核兵器保持の危険をあおって、憲法を改悪し、軍隊と軍需産業を育てたいのであろうか、、、。北の何十何百倍のミサイル、核兵器を持つアメリカの危険性を主張しないのは、安保条約を結んでいる友好国からなのか、そうであれば、正式に国交を回復し友好条約を結べばいいことだ。自由往来をすることが出来るようになれば、北を訪問し、”誰々を訪ねて何千里”生存しているのであれば再会が実現するはずだ。

 今回の核実験で、現在の気象学、地震学で、人工地震か自然地震かの区別が出来る事実が分かった、自然地震だと初期の揺れがあり、その後に大きな振動があるということ、人工地震では、最初に大きな振動があるということである。3.11以前、この国の地震学者は、首都圏直下、東南海地震が起こる危険性を高い確率で予想していた。三陸沖地震については低い確率であった。それなのに突然襲った大地震、東日本大震災が本当に自然災害だったのか、震源地も揺れの震度もデータとして残っているはずだから、この国の地震学者の名誉回復のためにも、そのデータを公表してもらいたいものである。現在東南海地震の予知のため活動している、海底探索船”ちきゅう号”が3.11の発生時、どこで活動していたのかも確認する必要がある。3.11は人工地震と主張する人たちは一般に陰謀論者として片付けられているが、真のジャーナリストなのか、本当に陰謀論者なのかはっきりさせるために、、、。


2-11は紀元節、建国の日ではない、、、

2013年02月11日 00時51分59秒 | コラム

 政令で建国を記念する日と定めても、史実に合わないことには納得できないし、休みが一日増えるからとの理由で歓迎する人が多いのが現実だろう。封建社会の江戸幕府を倒したのは、ヨーロッパの市民革命と異なり、薩長を中心する下級武士が主体であった。それ故に主君の主君である幕府に代わる政権(明治政府)の正当性を権威づけるために、天皇を利用した。1868年の王政復古、’73年の紀元節、’80年の君が代の制定、’89年の大日本帝国憲法、’90年の教育勅語でその完成を見る。この国の歴史を振り返ってみよう、、、。

 戦前の日本では、桜と菊が二大タブーであった。軍と天皇に対する批判はもちろん、まともな研究・考察さえ問題視されたし、触れてはいけない領域であった。神聖にして犯すべからず天皇とその統帥権の下にある軍にはいっさい口出しできないのが戦前のわが国であった。『近代天皇制』は日露戦争後構築されたが、その権威は2600年に及ぶ皇統の血という架空の教義に基づいていた。そのカリスマ性は、戦前は当然、戦後に於いても、多くの日本人の中に大きな影響を与えている。架空の権威に基づく独裁政権を維持している某国を揶揄し、その危険性を針小棒大に宣伝し続けるマスコミ、1945年8月15日、宮城前で土下座して天皇に謝る人の群、『玉音放送』で差ほど混乱もなく異民族の占領を甘んじて受け容れた歴史を持つ自国のことは忘れてしまったのだろうか、、、。戦前の教義、皇国史観の克服なしには、この国の民主主義は形骸化するだけである。

 皇国史観のルーツは、江戸時代の鎖国政策による情報操作・情報遮断故のドグマに求めて良いであろう。それまでのわが国の学問というと、儒教の解釈として幕府の正学となった朱子学、実践を重んじる陽明学、古典から直に学ぼうとする古学、一般庶民に分かりやすく教えようとする心学、吉宗の洋書輸入の許可以降の蘭学、仏教伝来以降の様々な宗派による解釈が中心であった。そんな中で、儒教は中国、仏教はインド、蘭学(洋学)はヨーロッパの教え、日本の根本の教えは何かを求めた、契沖、賀茂真淵、本居宣長は万葉集や古事記の研究を通してつかもうとした。国学の始まりである。そして対外的なものを除去した中で残るのは、神道と天皇制であるとのイデオロギーを確立したのが平田篤胤であり、水戸学に引き継がれ、幕末の倒幕勢力を結集させる尊王攘夷運動となる。鎖国を止めての開国方針は時代の流れであり、フランスと結んだ幕府とイギリスと組んだ倒幕勢力の薩摩・長州の争いは、インド、アフリカでの英仏抗争でのイギリスの勝利の流れをくみ、イギリスと結んだ倒幕勢力の勝利となる。 新しく権力をつかんだ薩長は、自らの権力維持のために、尊王思想を最大限に利用した。江戸開幕以来、実質首都だった江戸を東京と改め、天皇を京都から移し、天皇の権威を高めることにより、自らの幕府に変わる政権の正当性を主張した。古代天皇制確立期の歴史書、日本書紀の記述を根拠に、日本の国は神武以来天皇がこの国を治めていたのだから、それまでの武家政権に代わり、天皇親政の政治が実施されるとの『王政復古』の大号令が発せられた。そして、天皇が神の前で誓いを立てるという形で、政治の基本方針五箇条が発表された。

 辛酉の年に大変革が起きる(この辛酉説そのものが古代中国の思想なのだが)、601年がその辛酉の年であることから、それより1260年前の正月に初代天皇である神武天皇が即位したという仮説の下に、明治の絶対王政的天皇制が構築された。薩長独裁に不満な勢力の運動としての自由民権運動も、議会開設の詔(天皇の命令)を勝ち取ったが、その代わりに、大日本帝国憲法(君主権>議会)の下での藩閥政治の継続となる。民権重視の思想もそれを支援する勢力も、いわゆる大正デモクラシーといわれる中で育っていったが、世界恐慌の波に飲み込まれ、ひ弱な体質を持った日本の資本主義は、ファシズムへと大きく舵取りをすることになる。財閥と軍部が組み、政党政治を、5・15事件,2・26事件で葬り、中国への侵略、1940年には、皇紀2600年祭を大々的に挙行し、天皇の下大アジアの統一を目指した『大東亜共栄圏』の実現を目指して対米英戦争を発動する。

 戦後の一時期、我こそは正統南朝(後醍醐天皇)の血筋をひく天皇であると主張した、熊沢天皇なるものも現れ話題となったが日本の占領統治にとって天皇制を温存した方が有利と判断したアメリカの意向によって、第一次大戦後、日本が参考にした帝政ドイツの皇帝は退位し、共和制になったように、本来は廃止されるべきであった天皇制は象徴天皇制として残ることとなった。国権の機能はいっさい保持せず、内閣の助言と承認の下行う国事行為のみに限られたのだが、それに伴って、戦前以来の宮内庁の機能は手を付けられることなく残ることになった。戦前は神であり、戦後人間宣言をして本来の人間に戻ったのであるが、依然として囚われの身であることには変わりない。二代にわたって民間から后を迎え、国民と共に歩む象徴天皇制を模索しているのだが、Y染色体、万世一系、皇国2600年有余との皇国史観の影響下にある保守政治家、その代弁者としての御用学者、さらに生活権もかかっている宮内庁によって、開かれた皇室は、未だに閉ざされたままであるし、いつ何時、再び雲の上に登らないとも限らないのである。全ての人類解放を目指す上では、天皇もその後継者も人間的自由は保障されるべきであるし(辞める自由も含めて)、象徴天皇制も歴史の中に残るべきであろう、、、。 

 わが国の歴史年表が縦で表されるのは、593年聖徳太子が摂政に就いた年と言われる飛鳥時代が最初である。それまでは、弥生時代も紀元前2~3世紀、大和時代(古墳時代)も4世紀半ば過ぎとして、年表上は斜線で表現される。記録の残る歴史時代は飛鳥時代からであり、それ以前は考古学の時代となる。考古学によって史実が解明されれば、歴史時代もそれに伴い遡るのである。わが国の古代史の解明には、中国・朝鮮・日本の東アジアの興亡の歴史として捉えていかないと真実は見えてこないであろう。古代天皇家の内紛(壬申の乱)で勝利した天武天皇の天武朝で編集された古事記、さらにその天武朝の正当性を強調する日本書紀の記述を全面的に正史と見なしては皇国史観にたどり着くことになる。邪馬台国も大和にあり、初代神武天皇の墳墓も、、との大和一元史観では行き着くところ『日本は天皇を中心とする神の国』になってしまうのである。出雲王朝もあったはずだし(日本中の神が10月にこの地に集合する)、九州王朝も吉備王朝、さらに越王朝も存在したとの多元史観でこの国の成り立ちを検証する必要がある。飛鳥・奈良・平安の約600年間は政治の中心が近畿地方にあり、実権は、天皇(律令政治)、貴族(摂関政治)、そして天皇が取り返す(院政)と移り変わったのは事実である。それに先立つ古墳時代は、わが国が多くの小国家の分立から、地域王国の成立、大和朝廷による国土統一の歴史であるし、その解明には、近畿地方に残る古墳の学術的調査が欠かせない。その多くは、明治以降、日本書紀の記述に基づいて特定されたものであるが、中には盗掘されてしまい資料価値がないものもあるだろうが、被埋葬者に敬意を表しつつ、発掘し、最新のDNA判定も加味すれば、古代史の謎は全て解明されるであろう。宮内庁の管理下にある天皇陵にその許可が出ないのは、天皇家のルーツが大陸ないしは朝鮮半島になることを恐れているのかもしれない、、、。現天皇までが2001年自らの誕生日に『ゆかり発言』をして、桓武天皇には百済王武寧の血が流れていると言いきっているのだから、自国の成り立ちの解明のために天皇陵の発掘は欠かせない。ヨーロッパ諸国が王政の頃、スペイン、イギリス、フランス等の王室は血縁で繋がっていたのだし、ノルマン人のイギリス征服後、イギリス王が度々領土確保のために大陸に武力行使したのと同じ事が、朝鮮半島に出兵し高句麗と戦ったり、663年白村江で唐・新羅の連合軍に完敗するまで続けられたと考えた方が史実に合っていると思う。皇国史観では『三韓征伐』となってしまうのだが、神宮皇后はお産で実家に帰ったというのが史実であろう。

 九州王朝の一派が大和に進入し、この地の豪族を征服・支配したか、連携して大和政権を樹立したのは何時のことだろうか、そして分家の方が力を付け、527年磐井の乱により本家の九州を支配下におき、東北と南九州の一部を除き国土統一を完成したのは6世紀、その大和政権内で力を付けてきたのが蘇我氏である。大王の血筋が途絶え、越の国から迎えた継体天皇、実権は蘇我氏にあり、聖徳太子自身、父方も母方も蘇我氏の血をひいてるし、蘇我馬子の娘と結婚し皇位継承権を持つ山背大兄王を生んでいる。蘇我氏の血をひく崇峻天皇を殺したり、聖徳太子の死後、その子を攻め滅ぼしたのも、蘇我氏が蘇我王朝を開いたと考えた方が史実だと思う。当然多くの反対者も存在したし、645年大化の改新というク・デターによって蘇我氏本家は滅亡するのであるが、、、。天智・天武朝で律令政治が確立し、聖武天皇の時、最盛期を迎える。様々な問題も生じ、桓武帝の平安遷都から100年間律令政治の立て直しを図るが、実権は大化の改新時の第一の功労者、中臣鎌足の子孫、藤原氏に移っていく。鎌足の息子、不比等がその基礎固めをするのだが、娘を聖武天皇の后にしたやり方は蘇我氏と共通するが、蘇我氏の興亡を知る不比等は、藤原氏の権力維持のためには、あくまでも黒子に徹し、トップには立たない、実利はしっかりと掴み、責任は回避する術を生み出した天才的な策略家といえるだろう。現在にも続くわが国の無責任体制のルーツはこの辺にあるのかもしれない、、、。その路線を通した藤原北家の系統が、平安中期の約200年間摂関政治という名の支配を維持した。中央での出世をあきらめ土着し地方政権を目指したのが,奥州藤原三代である。当時天皇は藤原氏の操り人形で、子どもの時だけ天皇の位に就き、成人すると退位させられる。成人しても判断力がない場合(血族結婚の弊害)は関白職に全てを委ねることとなる。そんな中央の天皇、藤原氏に反旗を翻し、関八州を支配し自ら新たな天皇と称したのが平将門である。はせ参じた農民を、農繁期に自国に帰した隙をつかれて、藤原秀郷に討たれたのであるが、今でも地元では、自分たち農民のために戦ってくれた人物として守護神となって祭り続けられている。摂関政治の欠点は、藤原氏の血をひく皇位継承者がいなくなることである。平安最後の100年間は、藤原氏と関係のない天皇が位に就き、過去の律令制を目指して、荘園を整理し、公地を回復しようとしたのが後三条天皇、しかし取り巻きの藤原氏に反対された。その息子白河天皇は藤原氏の影響から逃れるため、自ら退位し天皇の位を我が子に譲り、院政を開始する。平安400年の間、地方では自らの土地を開墾によって獲得した自営農民が、自らの土地を守るため武装し(一所懸命)、武士団を結成、着実に力を付けていく。そういう武士団のまとめ役として、平氏、源氏が並び立つ。保元・平治の乱で勝利し、藤原氏の摂関政治を踏襲して実権を得たのが平清盛である。平安末期の約20年間、『平氏にあらずば人にあらず』の政治が続くが、地方の武士たちは、源氏の血筋をひく頼朝を中心に、関東に地方政権を樹立する。

 鎌倉・室町・江戸の三幕府政治の約700年間は武家政治であるが、鎌倉から南北朝統一までの200年間は、公武の抗争期旧勢力(天皇・貴族)の武家政治に対する抵抗が見られた時期である。京都側の鎌倉幕府(実質北条氏の執権政治)に不満な武士を期待しての、北条氏追討の目論見は失敗に終わる(承久の乱)。元の襲来による、執権政治を支えていた幕府と御家人との破局は鎌倉幕府滅亡へと繋がる。ほんの2年間天皇親政の政治(後醍醐天皇)が見られるが、実権は源氏の血筋をひき、幕府の有力な御家人であった足利氏に移る。征夷大将軍(武士の最高位)を授かり開幕するのだったら、天皇は必要な存在にある。足利氏の政治ブレーンは、『天皇が必要なら木か石で作ればいい』とまで述べたようだが、尊氏は旧来の形式を重んじ踏襲する。天皇家が最困窮したのが、戦国時代である。戦国武将は、将軍をサポートし、全国にその意向を示そうとするが、実権のない将軍にその役職を与えることで存在が許されている天皇家にしてみれば当然であろう。信長の跡を継ぎ全国統一を達成した秀吉は、聚楽第に天皇を迎え、かってこの国を統一した方の子孫であることを知らせ、その天皇から全てを任された(太閤)という形を取り、天皇の地位を保証した。続く江戸幕府でも、将軍位を授ける役割を果たすが、禁中並びに公家緒法度で生活の隅々まで幕府の干渉を受けた。困った人には手をさしのべるのがこの国の一般民衆の質だったようで、京都の商人の中に天皇家に経済的援助をした人、地方でも献金をして、色紙など受け取ったものが多くいた様だが、明治の初期には、『天皇はんもえらい出世しなはった、この町に居なはる時は随分苦労したはりますけど、、、。家には天皇はんの借金証文があったんどす、今さら取り立ても出来まへんな、、、。』と話す老舗の主人も居たようで、一般民衆からは好意的に見られていた。

 旧皇室典範そのものが大日本帝国憲法とセットで天皇を神に祭り上げるものとなった明治時代の法であるし、戦後新たに定められた皇室典範は旧法と何ら代わりのない内容を持っている。日本国憲法で、その地位は主権の存する国民の総意に基づくとなっているのであるから、タブー視することなく、これからの象徴天皇制について大いに議論されるべきである。特定の勢力に利用されないようにしなければならないし、辞める自由も持たせたいものである。