タイトルは、日本最初の公害事件、足尾鉱毒事件に関わった田中正造氏が到達した真理だが、この国の資本主義勃興期、企業の立場を擁護する中央政府の横暴に対しての最終結論として、田中氏が提起したスローガンである。今喧伝されている地方の時代の先駆けともいえるだろう。さらに中国革命時、毛沢東が提起した(農村から都市を包囲)との戦略とも通じるものがあるのだろう。
資本主義は生産力拡大という物質的富を生み出す仕組みだが、その過程で都市は常に農村から人的富を収奪し続けた。古くはエンクロージャーで、(おとなしい羊が人をかみ殺した)といわれる現象を生み出したし、最近では、1960年からのこの国の世界を驚かせた高度経済成長では、優れた労働力(手先が器用で、学習能力を保持し、辛抱強い)の保持者の農村から工業都市へ若年労働力が移転し続けた。1960年代、稲作と裏作の麦、葉タバコやこんにゃく等の栽培により、地域にある中学校に500人を超える生徒を送り出していたのに、最近は百人を割り、来年は閉校となるという現実、安価な労働力が枯渇し、より安い労働力を求め、グローバリズムの美名のもと、海外への工場移転、国内の労働事情は悪化の道をたどっている。豊かさとは何かを問い直さなければならない時期が来たといえるだろう。
中央が地方を合法的に収奪する仕組みが、中央集権、それを正当化する仕組みが官僚機構である。明治以降、民権と国権はせめぎあいを続けたが、常に国権が勝利した。自由民権運動が敗北し、大日本帝国憲法が成立(君主権>議会)後、天皇への直訴により、民権を訴えたのが田中氏であったし、普通選挙と議院内閣制の実現により民権が守られると主張したのが吉野作造氏の民本主義であった。第一次大戦後の世界的民主主義、平和への願いの高まりの中、わが国でも短い期間政党内閣の確立,いわゆる大正デモクラシーを実現するが。5;15。2;26でファシズムの道を選択、結果が8;15となる。戦後も、古い上着にサヨナラした一時期もあったが、アメリカの冷戦発動により、そのアメリカに協力することにより免責された古い上着が権力を再構築し、保守合同により常に三分の二近くの議席を保持し、保守政権を続けていたし、その議席を保証したのも保守的と言われた農村部の議席であった。
伝統的に革新勢力の強い、北海道や京都府では早くから、革新知事が誕生し、特に京都府では蜷川府政が7期28年間も続き、15の春を泣かせない、のスローガンで、高校三原則(地区制、総合性、男女共学)を維持し続けた。保守派は、京都大学の入学率が府立高校は低下していると抗議し、保守府政を回復する。学者(政治家と違い金権ではない?)と革新統一で、東京(美濃部)、大阪(黒田)、福岡(奥田)、が誕生するが、老人医療無料化等の功績はあるが、議会では少数与党であり不完全燃焼で終わり、いずれも保守派に奪い返された。