自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

{村や町を強くしろ!}に向けて、、、

2011年02月28日 19時34分39秒 | ニュ-ス

 タイトルは、日本最初の公害事件、足尾鉱毒事件に関わった田中正造氏が到達した真理だが、この国の資本主義勃興期、企業の立場を擁護する中央政府の横暴に対しての最終結論として、田中氏が提起したスローガンである。今喧伝されている地方の時代の先駆けともいえるだろう。さらに中国革命時、毛沢東が提起した(農村から都市を包囲)との戦略とも通じるものがあるのだろう。

 資本主義は生産力拡大という物質的富を生み出す仕組みだが、その過程で都市は常に農村から人的富を収奪し続けた。古くはエンクロージャーで、(おとなしい羊が人をかみ殺した)といわれる現象を生み出したし、最近では、1960年からのこの国の世界を驚かせた高度経済成長では、優れた労働力(手先が器用で、学習能力を保持し、辛抱強い)の保持者の農村から工業都市へ若年労働力が移転し続けた。1960年代、稲作と裏作の麦、葉タバコやこんにゃく等の栽培により、地域にある中学校に500人を超える生徒を送り出していたのに、最近は百人を割り、来年は閉校となるという現実、安価な労働力が枯渇し、より安い労働力を求め、グローバリズムの美名のもと、海外への工場移転、国内の労働事情は悪化の道をたどっている。豊かさとは何かを問い直さなければならない時期が来たといえるだろう。

 中央が地方を合法的に収奪する仕組みが、中央集権、それを正当化する仕組みが官僚機構である。明治以降、民権と国権はせめぎあいを続けたが、常に国権が勝利した。自由民権運動が敗北し、大日本帝国憲法が成立(君主権>議会)後、天皇への直訴により、民権を訴えたのが田中氏であったし、普通選挙と議院内閣制の実現により民権が守られると主張したのが吉野作造氏の民本主義であった。第一次大戦後の世界的民主主義、平和への願いの高まりの中、わが国でも短い期間政党内閣の確立,いわゆる大正デモクラシーを実現するが。5;15。2;26でファシズムの道を選択、結果が8;15となる。戦後も、古い上着にサヨナラした一時期もあったが、アメリカの冷戦発動により、そのアメリカに協力することにより免責された古い上着が権力を再構築し、保守合同により常に三分の二近くの議席を保持し、保守政権を続けていたし、その議席を保証したのも保守的と言われた農村部の議席であった。

 伝統的に革新勢力の強い、北海道や京都府では早くから、革新知事が誕生し、特に京都府では蜷川府政が7期28年間も続き、15の春を泣かせない、のスローガンで、高校三原則(地区制、総合性、男女共学)を維持し続けた。保守派は、京都大学の入学率が府立高校は低下していると抗議し、保守府政を回復する。学者(政治家と違い金権ではない?)と革新統一で、東京(美濃部)、大阪(黒田)、福岡(奥田)、が誕生するが、老人医療無料化等の功績はあるが、議会では少数与党であり不完全燃焼で終わり、いずれも保守派に奪い返された。


{政治は最高の道徳}であるために、、、

2011年02月12日 13時50分15秒 | コラム

 アリストテレスの言として言い伝えられているのだが、最高善の実現が政治であるとは雲泥の差があるこの国の政治状況で、一つの光明は、先日の名古屋市長選で圧勝した河村氏の存在であろう。首長も市議会も最高善を目指していると考えたいのだが、その手法を巡って、阿久根市、名古屋市も市民を巻き込む混乱が生じた。両市は対照的な結果となったが、安堵したのが阿久根市の市会議員、戦々恐々の名古屋市会議員といえるだろう。

 河村氏は、地方の政治はボランティア、無給でいいと主張しているが、全く正しいと思う。国政にあたるものもそうあっていいと思う。確かに政治に金がかかるのは事実であるが、その費用は自分で稼ぎ出すのが本来の政治家で、職業として政治家を目指しては。政治屋に堕落するのは避けられない。かつての井戸塀代議士の存在は、政治目標の実現を目指す心意気であったと思う。かつて、解放のために政治活動をした松本冶一郎氏は、土建業を生業とし、そこから上がる利益を運動につぎ込んだといわれるが、最高善を目指しても、生活力がないと井戸塀になるが、生業が順調なら、歳費にも献金にも、政党助成金にも依存しなくても済むはずだ。

 {総理になりたい男}を名古屋市民は再度市長に圧倒的多数で選出したのだが、河村氏が国会議員だったころ、民主党の党首選挙に立とうとしても、民主党党首選挙の規定による20名の推薦人が得られなかったという事実は、主権者と乖離した民主党の体質といえるだろう。多数の民主党の議員の言い分としては、パフォーマンス好みのオポチョニストとの批判はあるのだろうが、本音は、彼が議員特権を拒否したり、莫大な費用をかけた議員会館への移転をしなかったことなど、河村氏の庶民性への妬みなのではないだろうか、、、。

 主権者から、総理にしたい男に加えていい河村氏だが、一つだけ腑に落ちないのは、かって国会議員だったとき、国旗国歌法案に反対投票をした河村氏が、超保守派と連名して、アメリカの新聞に意見広告をだし、従軍慰安婦と南京虐殺を否定する立場に組していることである。彼の人間的幅の広さと考えられぬこともないけれど、陸軍伍長として中国大陸で戦闘に携わった実父から聞いた話から判断しているのだろう。しかし、{皇軍に誤りなし}には検討が必要だろう。 

 


八百長の原点は思いやり、、、

2011年02月10日 13時56分59秒 | コラム

 相撲界の八百長が連日過剰報道なされているが、その裏に本当に糾弾されなければならない八百長が見逃されているのではないだろうか、、。八百屋の長兵衛さんが存命なら、己が発揮した思いやりが後年悪事とみなされてる現実を嘆いていることだろう。講談でも取り上げられている名横綱、谷風が、病気の母を抱える力士に賞金を譲るため、名演技をしたのだが、これこそが社会の潤滑油ともいうべき八百長であろう。

 昨今は新自由主義という名の弱肉強食の論理がまかり通り、格差が肯定されてしまっているのだが、強者が弱者を配慮するのが本来の八百長である。身一つ、裸一貫で土俵に埋まっている金を掘り起こすべく、日々トレーニングをし、十両以上の関取に出世できるのは、それこそ氷山の一角なのだろう。国技の地位を保ち、天皇賜杯を競い、NHKが全国放送をする競技に不正があってはならぬとの思い込みから追及がなされているのだが、力士全体の共存共栄のためには許される八百長は、過去も現在もあって当然だろう。好一番にかかる懸賞金を鷲づかみにした勝者が、その賞金を無給の幕下以下の力士に分配する八百長だったら歓迎されるべきだと思う。

 非難されるべき八百長は、特定の利益のため、ある決め事をしそれを最大限発揮させる仕組みである。そういう意味での、この国にとっての最大の八百長は、(2月11日)である。辛酉説(これも国粋主義者にとっては毛嫌いしている中国の思想だが)に基づき、1260年ごとに一大変革が起きるとの盲信の元、天皇中心の律令政治の正当性を示すために、601年が辛酉の年にあたることから、それより1260年前に初代天皇といわれる神武天皇が即位したと定めた日本書紀の記述である。その記述が正しいとしても、九州の一部と東北を除き、国土統一を果たし初代天皇(大王という名称はあったが、天皇という称号は聖徳太子以後である)についたのは、旧暦の1月1日とは限らないだろ。抵抗勢力を武力で制圧したのち即位したのだろうし、何しろ当時は暦などないのであるから、、、。皇国史観が正しかったのは平安時代初期までである。つまり天皇が実権を持ち天皇中心の政権を維持できたのは、天武朝以後の約300年間といえる。それ以降は常に時の権力に利用され続けた。皇国史観が完全復活したのは、薩長の藩閥政治による天皇制である。大日本帝国憲法の定め、万世一系の天皇の統治権(第一条)、神聖にして犯すべからず(第三条)、陸海軍を統帥す(第11条)、これらの八百長で、天皇個人の意思は、藩閥、のち軍部により捻じ曲げられ続けた。

 この国の保守派にとって、明日の紀元節(名前を変えての建国の日)と君が代、そして廃止されてはいるのだが教育勅語の三点セットが、望む国体へのベースキャンプである。新教育基本法に愛国心は盛り込めたし、国旗国歌法を成立させ、君が代を強制する体制は出来上がった。(君が代)は歌いたくないという少数者に踏み絵を迫ることは、民主主義の原則に反するといえるだろう。行政(東京都)のお先棒担ぎを、三権分立が建前の司法権が追認するのは、裁判官よお前もか、、、とつぶやきたくなる。