自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

『冤罪は私で終わりに、、』なるか、、、?

2007年10月31日 22時51分48秒 | ニュ-ス
 『たとえ100人の疑わしいものを見逃しても、一人の無実のものを作ってはいけない。』という言葉の重さが問い直されてる出来事がまたまた起きてしまった。 石川五右衛門の辞世の句と伝えられている、「世に盗人の種は尽きまじ、、。」と同じく、「冤罪の種は尽きまじ、、」では困るのである。
 富山県で、無実の罪で、しかも破廉恥罪で、2年間服役し、出所後も肩身の狭い、定職にも就けず苦難の日々を送っていた男性が、真犯人の自供があって、やり直し裁判で無罪が確定したのだが、もし真犯人の自供がなかったらどういうことになったかを思うと他人事ながら胸の痛みを感じる。いかにも人の良さそうなというか、一見気の弱そうな柳原氏の『冤罪は私で終わりに、、』との言と、『無罪です、だけではすませたくない』の言を冤罪の根絶のために生かさなければならない。

 普通の一般市民が突然逮捕されて、身に覚えのないことで追求された時、何日間否定続けられるだろうか、、、。逮捕されると、まずもって自殺予防の名目でベルトを取り外される、この時点で取調官と心理的に不利な立場に立たされる。普通の日常生活をしているものにとって、三日前の自己のアリバイ、まして数週間前の前のことを聞かれても、正確に覚えているものはまれであろう。同じことを何回も問いただされ、しかも長時間にも及ぶ取り調べに対しては、気の弱い人だと三日持たないし、よほどしっかりした意志を持っている人でも、つい弱気になって、この場では取調官に迎合し、裁判で真実を述べれば認めて貰えるだろうと虚偽の自白をしてまう例も起こりうることだ。冤罪の種はここで蒔かれる。次の段階、起訴するか、証拠不十分で不起訴にするかは検察官の仕事である。柳原氏の場合も、はじめ富山地検の検事は、逮捕そのものが、被害者の証言に基づく似顔絵に似ているでは、物証が弱いとして処分保留で釈放したが、県警が未遂事件の方で再逮捕すると、「似顔絵に酷似している」という理由で起訴してしまった。冤罪の芽が吹いたこととなる。次の段階が公判に於ける裁判官の役割であるし、三審制の採用も、公判を通しての真実の解明にあるのだが、、、。警察がある人物を逮捕した段階ではあくまでも、その人物は「被疑者」である。検察が物的証拠に基づき起訴したとしても、公判中は「刑事被告人」である。公判でその犯罪が証明されて判決を受ければ、初めて「犯人」となる。メディアの報道姿勢も冤罪事件が後を絶たない原因の一つではないかとの自戒も必要である。柳原氏の場合、真犯人が、警察の無能ぶりを嘲笑するために二つの事件の自供をしたのか、自分の犯した犯行を悔い、それによって無実の人を作ってしまった悔恨のもと真実を述べたのかは報道では把握出来ないが、無実が晴らされたことは不幸中の幸いである。

 かつては古代日本で、『盟神探湯(くがたち)』といって、真実を証明するために、神の前で誓い、熱湯に手を入れて火傷をしなければ真実を述べているとの神事があったが、虚偽を申し立てていたものに対する訓戒にはなったろうけど、真実を述べていたものに対してはどうだったのだろうか、、、。憲法にも、拷問の禁止、唯一の証拠が自白の場合は有罪とならない、と定められているように、自白中心に変わって物的証拠中心になったことは素晴らしいことだが、これまでに拷問によって自白に追い込まれ、命を奪われた人はどれだけいただろうか、、、。現代版『盟神探湯』はポリグラフなのだろうが、心拍、血圧、発汗などの生理現象をデーター化するだけでは真実には迫れないようだ。妄想により真実と思いこんでる人、虚言癖のある人、逆に緊張しやすい人、気の弱い人だと不正確なデーターが生じてくる。最近では、まだ一般的に実用化されてないが、FBIが開発している「特定脳波検出機器」がある。人間の脳で嘘を付いた時に検出される特定脳波信号を検出し、真偽を確かめる。またこの脳波は自分に関係のない情報には検出されないといわれるように最新版「嘘発見器」といえるだろう。

国際貢献より人類貢献

2007年10月27日 12時40分43秒 | コラム
 パグウォッシュ会議で、核兵器を全面破棄し、世界平和を実現するためには、国家そのものを消滅させなければならない、と結論づけたのだが、各国の政治家は、その人類的立場の提案に消極的ないし無視を決め込み、中には敵意を示すものさえいる有様である。

 人は本来他人のためになることに喜びを感じるものである。『一人は万民のために、万民は一人のために、、、。』のスローガンに異を唱えるものは皆無であろう。一人では生きていけない人間は、群を作り、最小の集団としての家族、さらに部族、民族へと集団を広げ、現在では、民族国家、多民族国家が国としてそれぞれの利益を求め、未だに抗争が続いているのだが、国益を越えた人類益を優先して考えられるのは、哲学者や科学者、文学者などに限られるのだろうか、、、。政治家は国益を主張していれば、民主主義の代議制を通して権力を維持出来るのが現実だ。

 インド洋での給油活動は国際貢献になっているし、日米同盟に欠かせないし、国益にも合致する、というのが現政権の主張だが、、、。人類益の立場で考え直す必要がある。現政権はアフガニスタンに1400億円を援助し、民政に貢献したと公言しているが、アメリカによって無差別爆撃され、ただでさえ社会資本の貧弱なアフガニスタンにとっては、その十分の一でも、爆撃で破壊される前に、ペシャワールの中村哲氏らの活動に支援を与えていたら、真の支援になったと思う。

 インド洋やイラクに派遣された自衛隊員の帰国後の自殺率の異常な高さは、職務を通して人のためになったとの自覚が持てないからだと思う。災害地などに派遣された自衛隊員の献身的な活動には多くの人が感謝しているし、隊員も誇りと喜びも感じてると思う。組織され十分に訓練された集団を、人殺しに使うのでなく、人活かしに使うべきだ。法的な制約もあるのだろうが、戦車の代わりにユンボやトラクター、大砲や機関銃のかわりに、削岩機やダイナマイト、小銃の代わりに注射器を持って海外派遣するなら、それらの活動は即人類貢献になるだろう、、、。
 

9-11の真相が明らかになってからでは、、、

2007年10月16日 23時37分35秒 | ニュ-ス
 これまでもネット上では、9-11への疑問点が出されていたが、今回(十月十五日)日テレで、ツインタワーの崩落の疑問点を6項目にわたって報道したが、一般メディアが報道するのはこの国では初めてではないだろうか。不断の日テレでは想像出来ないのだが、番組案内のトップに出ていたのに、全く別の内容になっていて、看板に偽りありか、何処かから圧力がかかって取りやめたのかとも考えたが、最後になってきちんと放映された。番組担当者に敬意を表したい。

 9-11があって、『テロとの戦争』に星条旗を掲げて大多数のアメリカ人は支持を与えた。次期大統領に有力なヒラリー・クリントンも、アフガン攻撃だけでなく、イラク攻撃も支持した。完璧な情報操作(歴史に耐えうる)はあり得ないし、ほころびが糸口となり、真相への入り口となる。すでにイラク戦への大義名分は否定されたし、アフガンだって、混乱の収拾にあたり、国土の4分の3を実行支配したタリバンをアメリカは最初は支持していた。アメリカの希望通りのパイプライン建設が出来ると思えたからだ。国内に反対派(北部同盟)を抱え、鎮圧に失敗したタリバンは、次第に先鋭化していく(イスラム原理主義)。アメリカはスタンスを変え北部同盟に支援を与え、9-11の犯行を、オサマ率いるアルカイダと決めつけ、そのオサマを匿っているとして、タリバン政権打倒のアフガン攻撃を開始したのである。

 この国の大きな政治課題が、テロ特捜法の延長、インド洋での給油継続が日米関係にとって最優先、国益にもかなう、とかの国会論戦が盛んだが、その前提の9-11の真相を探ることなく、6年前の報道(度重なる映像での焼き付け、思いこみ)を何ら疑いもなく信じ、それ故に『テロとの戦争』も当然であり、諸々注文を出すのは怪しからぬ、との姿勢にはイライラが募る。

スポーツと喧嘩は違う。

2007年10月15日 21時34分18秒 | ニュ-ス
 哺乳類では、子どもの頃からじゃれ合ったり、かみ合ったりの遊びがみられるが、これは後の獲物獲得、種の保存のためのバトルに繋がる基礎練習といって良いであろう。その遊びに、ルールを作り、勝敗を競うのがスポーツであるが、人間が他の動物と異なり、優勝劣敗、適者生存の法則に拘束されないための知恵といって良いであろう。勝っておごらず、敗者に対する気配り、敗れてくじけず、捲土重来を目指す人間らしい心の育成に繋がる人類の英知である。
 
 スポーツが感動を与えるのは勝敗を競うがフェアプレイに徹し、互いの力を出し切った結果の勝敗であるだけに人の心に響くのであろう。古くは、ウインブルドンでの清水選手とチルデン選手の戦い、’84年ロス・オリンピックで、山下選手と対戦したエジプトの選手が、傷めた右足を攻めなかったフェアープレイ、敗れた清水選手、ラシュワン選手の方に大きな賞賛が寄せられたのは、スポーツを通してすばらしい人間の心が育つことの証明だろう。そのスポーツも最近金権主義が忍び込んできたのが気にかかることではあるが、、、。

 それを象徴してるのが、TBSの視聴率優先の亀田ファミリー物語である。やんちゃな3兄弟、スポーツでもやらせてないと将来心配な要素を持っていた。子育てに於ける意見の違いから、母親は亀田ファミリーから去ったようであるが、3人のわが子への思いは今でも変わらないものがあるだろう、、、。父親が、格闘技であるボクシングに子供たちの秘めた資質を見て、我が子を世界チャンピオンに育てるとの夢を持つのは問題ない。それ故に幼少時から厳しいトレーニングを課し、子供たちもそれに耐え、力を付けてきたのは素晴らしいことだ。肉体的には同世代若者の数倍のもの強さを身につけたろう。しかし精神的には未熟なまま、おだてられると図に乗る、大口をたたいても周りが容認する、メディアのヒール作りによる視聴率のUPの意図を読めといっても無理なことだが、、、。父親がライセンスを無期限に剥奪されたようだが、子供たちには罪はない。まして次男は未成年であるし、3兄弟をしっかり預かるボクシングジムがあれば、3兄弟の世界チャンピオンも夢ではないだろう、、、。

今日は何の日、、、?

2007年10月10日 14時27分53秒 | コラム
 10月10日は、アジアで初のオリンピックが東京で開催された1964年、その開会式を選ぶに当たって、統計上晴れ日になる確率が高いこの日を選んだものである。’66年、疑念が持たれていた、2月11日の建国記念の日、祝日が増えることで反対の少なかった、9月15日の敬老の日、10月10日の体育の日の三日間を政令で国民の祝日に追加したものである。2月11日に疑念が持たれたのは、明治6年、太政官府告で祝日は皇室行事の8日間(それまではお盆と正月しか休めなかった国民にとって嬉しいことになっただろう、、。)、その中で、辛酉説に基づき、601年が辛酉の年、それから1260年前のBC.660年の1月1日(陰暦)、初代神武天皇が即位したと考えられるとし、それを明治になって採用した太陽暦に変更して、2月11日を紀元節として定めたのであるが、歴史学の立場での、大和の豪族を中心に東北と南九州を除きこの国の統一がなったのは、4世紀の半ばとの結論と矛盾するからである、、、。

 今年の体育の日は、連休を増やすと、国民が遊んでくれて、経済効果によい結果をもたらすとのレベルの低い判断で、8日にスライドされたのであるが、各地の体育行事は雨で祟れたところが多かったようだ。制定当時の日、今日10日だと天候に恵まれたのだが、、、。さらに、10月10日は、1010で銭湯の日とか、なかなかユニークな設定である。青空の下で汗を流し、銭湯(この国の古くからの社交の場)でさっぱりしてリフレッシュ、翌日からの学業、仕事の励みになるだろうし、体育の日は10月10日に戻した方が良いのではないだろうか、、、。

 この国の唯一の資源は、働くことが好きだったという国民性である。その国民性を損なう愚を加速させる連休増やし、成人の日、新たに作られた海の日、敬老の日のスライドは、体育の日同様止めるべきだと思う。スライドしなくとも、何年か毎に実現する連休を楽しみに、経済効果に寄与しなくとも、家族団らんや個々人のリフレッシュに活用出来る様にすべきであろう。 

謝りには勇気が、、、

2007年10月09日 10時07分24秒 | コラム
 人間は過ちを犯す生きものだし、その過ちから多くのことを学びより賢く人間らしい生きものに成長していくものである。それと同時に、なかなかその過ちに気付かぬ、気付いたとしても、その責めを果たしがらないものである。個人的な問題なら問題は生じないが、対人間の問題になると、相手に怒りの感情を持たせてしまう場合がある。その怒りに対して謝罪し、その責めをしっかり果たせば、『忘れることは出来ないが、許すことは出来る。』との怒りを恕(ゆるし)に昇華させる知恵が生まれるのだが、そうじゃないと、怒りは怨みに変質してしまうものだ、、、。

 力のあるものが、その力で己の行動を正邪の区別なく正当化すると、『権力は腐敗する。絶対的に腐敗する。』現象が生じてくる。この奇跡の惑星地球号でも、グローバリズムが進行し、その危機が緊急の課題となっているが、そのグローバリズムの先駆けとなった大航海の時代、スペインが初代世界チャンピオンといえるし、そのスペインが(新大陸)でどんな暴挙を繰り返したか、そのスペインを破り、七つの海を支配したイギリスが、インド、中国でどんな振る舞いをしたか、すでに歴史になっていることだが、人類の過ちとして検証する必要がある。
 グローバリズムを政治的にも経済的にも完成させようとしているのが、第一次世界大戦中にイギリスを追い越し、冷戦の力の抗争に勝利したといわれるアメリカである。建国以来、いろんな過ちはあっても、一度も謝罪することなく、その意志を通し、下手をすると、宇宙船地球号を破滅させるまで己の過ちに気付かないでいるのではないだろうか、、、。

 西部劇で実施したことを、地球的規模で実現しようとしてるようにも思える。白人移住者(アジア系先住民から見ると侵入者)への攻撃を口実に、騎兵隊を動員しての先住民の抹殺、最終的には、ウィンデッドニーの虐殺。日本に関しても、3月10日の東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキにおける、一般市民に対する無差別爆撃も今もって謝罪はない。
 ベトナム戦争に関しても、その枯葉作戦で、ベトちゃんドクちゃんの悲劇、つい数ヶ月前、ドクちゃんの結婚式のニュースがあったのだが、ベトちゃんが26年にわたる苦悩の生涯を終えたとのニュース。枯葉作戦の後遺症に悩む多くの人に対して今もってその過ちを認めていないし、当然責任を果たしていない。アメリカがベトナム戦争から得た教訓は、情報管理を徹底することにより、戦争の実態を隠蔽し、ソンミ事件が明らかになることにより、アメリカ国内の反戦活動が、最終的にアメリカの敗北に繋がった二の舞を繰り返さない手法だけである。9-11を口実に、アフガン、イラクへと『テロとの戦い』を進めているのだが、ソンミ事件に類する出来事は無数にあるのだろうが、情報管理により報道されるのは微々たるものである。戦闘で殺しても殺しても、増え続ける『テロリスト』、日本軍がかって中国大陸で実施したといわれる三光作戦を、イスラム世界を相手に推し進めるのであろうか、、、。9-11の情報操作により、『テロとの戦争』に対して、チベット問題を抱える中国、チェチェン紛争を抱えるロシアも、国連で拒否権を使えなくなっている。唯一の超大国アメリカが、その過ちに気付き、勇気を持って今までの独善的な行動の謝罪をすれば、世界の指導者、リーダーの地位を容認する国が増え、反米的な『テロリスト』も武力を行使することなく消滅するのではないだろうか。

『世のため、人のため、、、?』

2007年10月04日 22時22分38秒 | コラム
 政治家が大見得を切って、『国家、国民のため、、、』という言葉を良く口にするが、何となく白々しくかんじるのは私だけだろうか、、、。確かに政治家を目指した初期の動機は、世のため人のためという気持ちは強かったと思う。ところが現実の政治の世界は、きれい事が通用しないし、権謀術数なしには勝ち残れないし、権力に近づけば近づく程、本音と建て前を使い分ける様になるのだと思う。政治の世界に限らずあらゆる場で散見されると思う。

 自分のためを思い、自分のために必死になって努力した結果がみんなのためにもなったというのが本物だと思う。『みんなのために、自分はどうなっても、、、』というのは一見立派だけど、本当はみんなのためにならないと思う。『みんなのためにやってるんだ、、、』というのは、その裏に、だから何か自分に戻ってくるものがあっても良いという気持ちがある。だから本物の献身ではなくなる。
 社会や国家に貢献したとして、勲章を貰う人がいるけど、本当にそうなのかは分からないと思う。本当に社会や人のためになったというのは、自分のためにしたことであって、周りの人から褒められるのは、嫌なのだと思う、、、。

 最近、公務員バッシングが目立つが、『公務員は全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではない。』とあるように、公務員の真の喜び、つまり公務員になって良かったと感じるのは、みんなのための仕事をして、みんなから喜ばれたときである。今は国会議員となり、かっての輝きがないが、出雲市長だった頃、『市の職員は市民のために働き、市民に喜ばれる喜びを知った。』と言える行政を実践したように、長たるものが、職員と一体となって、公務員の本分に徹すればよいのであるが、出世する公務員、上級の公務員になればなるほど、一部の奉仕者になってしまうのが現実である、、、。公金横領に手を染めてしまう不届きな公務員も、みんなのために働きみんなに感謝される喜びを味合う仕事に徹していたら、そんなことにはならなかったであろう。
 大臣に留任した厚生労働大臣が張り切って諸悪の追求に力を入れているが、巨悪を見逃し、少悪を捉えるだけにはして欲しくないと思う。

『皇軍無謬』に11万人がNO!

2007年10月02日 15時18分00秒 | ニュ-ス
 未だに悲しみの記憶として残っている歴史を、記録に切り替える際に、都合の悪いものは消し去るという権力の常套手段が11万人の拳で押し戻されようとしている。この国の保守勢力は、『天皇は神』、それ故にその天皇の軍隊である『皇軍は無謬』をかたくなに信じているようだ。大日本帝国憲法下では、『天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ』だし『天皇ハ陸海軍を統帥ス』なのだから、その信じる根拠は理解出来る。その戦前体制を日本人自らの力で総括、否定して新憲法を制定出来れば良かったのであるが、治安維持法違反で囚われの日本の良心を、『バスチーユ牢獄襲撃』で救いだし、その人たちが戦後の政治に関わりを持てなかったため、ブッシュ大統領に、アメリカによって日本の民主化が成功した、なんて言われる始末である。正確には、反米じゃない、親米勢力による(民主政治)の実現なのだが、、。

 親米を装った従米勢力も、その姿勢を示せば存在を保証され、本来は反動が正確なのだが、保守の装いをし力を維持している。その勢力に発言の場を与えているのが産経新聞、その機関誌といっていい『正論』である。この立場のはっきりしている場合は問題ないのだが、購読数、視聴率、スポンサーに弱い他の大手メディアも建前上は厳正中立を標榜しているが、権力の望む世論造りに荷担していないかの検証は日々続けて欲しいものだ。

 戦後の民主主義教育に難癖を付け、『自虐史観』の是正を名目に皇国史観の復権を意図しているえせ保守主義者、その為になんとしても消し去りたいのが、皇軍の暴挙である、南京大虐殺、三光作戦、731部隊、従軍慰安婦、そして沖縄戦での軍の関与であろう、、、。

 何時の世でも、パシリは存在するもので、石原都知事に教育委員に抜擢された、家長某などは、自らが地方公共団体の教育委員であることを飛び越えて、園遊会で天皇の前で、『私の仕事は日本国中で、君が代を歌い、国旗を掲揚するようにすることです。』などと先走りをする。文科省の教科書検定官の中にも同じような功名心に煽られたパシリがいたのであろう、、、。自衛隊の『テロ支援活動』に支障、影響を与えないように、それなりの対応に追われる福田新政権だが、どんな収拾策を講じるのだろうか、、、。

『テロとの戦争』が全ての批判勢力の口封じに繋がっているが、この言葉をはいてアフガンからイラクに戦争を拡大したブッシュ大統領もパシリとはいえないだろうか、、、。産軍共同体のパシリ、9-11もやらせ説が大きくなってきてるし、ブッシュ大統領は、かっては冷戦を勝利に導いたレーガン大統領に己を模していたようだが、昨今では冷戦を始めたトルーマン大統領に切り替えている、、。
 迷ったら原点に戻る。9-11は犯罪、証拠を集め(跡地をさっさと片づけ貴重な証拠が失われたが)、犯人を逮捕し、裁判にかけ、処罰すべきだ。犯人死亡が証拠の上で確認されたら、それなりの措置がある。

『株』とは何、、、?

2007年10月01日 09時42分43秒 | 政治・経済
 毎日のニュースの度に決まって株式市況や円相場について報道されるが、経済の動向を示す重要なものなのだろう、、、。かっては時の総理大臣が、野菜の蕪を持ち上げて、『株あがれ、、、』などのパフォーマンスを見せてくれたのだけど、株が上がることが善なのであろうか、、、。確かに株を所有している人は株価が上昇すれば利を得ることになるし、株価が低下すれば損失を受けるのは事実である。小学生の頃、父親から100万円を貰い、株の売買で利を得、大学に入る頃には億の金に増やしたという超秀才児がもてはやされ、書店のベストセラーに株に関する本が上位を占めていたのだが、今は被告人の立場、『金儲け、悪いことですか、、』との名言ならぬ迷言をはいて抵抗しているのだが、、、。大衆株主時代、一億総株主などと煽られて、“虎の子”を吐き出さされないように注意したいものだ、、。

 もともと株を思いついたのは無一文のアメリカの青年だった。市民革命によって実現した経済活動の自由、つまり移動・居住・職業選択の自由、そして誰でも儲ける自由がみとめられる世となった。だが実際に儲けることの出来る人はまとまった資金がないといけない、商売を始めるには商業資本、企業を興すには産業資本が必要となる。さらに資本主義経済は自由競争なので、他の企業より安くて良い製品を供給しないといけないし(ここまでは資本主義の長所)、その自由競争に勝ち残るには拡大再生産が必要となる。その為に資金を自己資本(もうけの部分から補填)で賄うのなら、実態に見合った経済成長が実現するのだが、他人資本の導入による拡大再生産という手っ取り早い手法が、競争原理が支配する中で採用されるようになる。それをサポートするのが銀行というわけである。この実態に目を付けたのがかの無一文の青年であり、確実に利を保証できる企業を設立する自信はあるが、その為に資金がない、銀行がその預金者に支払う利子より、多額の配当を約束すれば多くの資金を集めることが可能だし、まとまった資金が調達できれば念願の会社設立が実現する。株式会社はこうやって生まれ、成長し、一般化した。

 銀行にしても一般投資家にしても、優良企業(人に役立つ商品の製造販売)を育て、支援する融資、投資だと良いのであるが、利を得ることに傾くと、様々な問題点が生まれてくる。第二次世界大戦の引き金となった、ニューヨーク株式市況の大暴落がその教訓である。第一次世界大戦はヨーロッパ諸国を巻き込んだ戦争になり、直接当事者でなかったアメリカの企業は大戦中、好景気を持続した。つまり商品の売れ行きが良く、拡大再生産を持続し、その為の資金を一般投資者から集めることが出来、投資者に莫大な配当を保証した。その為に株価も高騰したが、それでも一般の金利以上の利を投資者に与え続けた。大戦が終わり、ヨーロッパ諸国の生産が回復してくると、アメリカ企業の売れ行きが停滞しだし、それまでの配当を保証できなくなる。高騰した株価は下がりはじめ、不安を感じた投資者は所有する株の売りに走った。株価が大暴落し、企業の倒産が相次ぎ、倒産した企業の株券は紙切れと同じになる。つまり、過剰生産からスタートして、売れ残り、競争に弱い中小企業の倒産、失業者の増大、社会的購買力の低下、さらなる売れ残り、大企業まで倒産、大量の失業者が生まれ、社会不安まで、、、というような資本主義経済の持つ悪のスパイラルが現実のものとなったのが、アメリカからはじまる世界大恐慌であった。

 資本主義の欠陥を根本的に質す経済学を大成したのがマルクスであり、生産力の飛躍的向上という長所を生かし、資本主義に修正を加える経済理論を確立したのがケインズである。世界恐慌に当たって、ケインズの理論を、合衆国憲法違反の判決を受けながらも実践し、資本主義の危機を克服したのがルーズベルト大統領のニューディール政策であるり、資本(お金)の暴走を人為で食い止めることに成功したのである。現在の市場原理主義の立場は、資本(お金)が人間を支配する仕組みに荷担している。

 実体経済にあった市場原理は人類にプラスに作用(生産性の向上、安価でよい製品を供給)し、社会から利を得るが故に、企業の社会的責任を自覚した経営者が多くいた.。資本家と経営者が一体であった時代は遠く去り、株式会社全盛となっては、経営者は金の論理で自らをコントロールされた雇われ人の立場になってきた。敵対的買収には常に脅かされ、ましてグローバリズムの波の押し寄せる昨今、より巨大な金融資本の鬼っ子であるハゲタカファンドは日本の優良企業の買収を、その世界戦略のターゲットにしている。日本最大の利益を上げ、世界的企業にのし上がったトヨタにしても、利をあげ続けなければならぬ、との金の論理に左右されて、自社の社員に対してはサービス残業を強制、社外工にはより過酷な労働を、さらに派遣社員を大幅に活用、下請け企業への圧迫、選別は、地震による部品工場の生産停止が本社工場の操業停止に至るほどのリスクの上に成り立っている。
 消費者主権の一票は、購入する商品がまともな生産者を支援するものとなるし、投資者のそれは、同じく優良企業への支援の一票にしていく必要がある。