自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

ファシズム前夜、、、

2009年05月28日 11時30分54秒 | コラム
 北朝鮮の地下核実験に対して、国会での非難さらなる経済制裁の決議が全会一致でなされたのだが、何か背筋が寒くなる思いである。1人ぐらいは、このような決議は問題ある政権の延命に繋がるし、結果的には経済制裁でさらなる苦悩を強いられるのは北朝鮮の一般民衆である、として棄権に回る人物がいても良いと思うのだが、、、。国内に蔓延している拉致被害者への同情を、反北朝鮮(政府と民衆を区別しない)感情に転化させることに成功した権力側の掌に乗せられているからだろう。

 ファシズムもその対極と言われる民主主義も、みんなの幸せを願うことでは同じである。違っているのはその実現のために、みんなの幸せのためには、個々の人権や幸福を制限しても良いと考えるのがファシズムであり、個々の人権や幸福を最大限尊重することがみんなに幸せになるとの理念が民主主義なのだ。

 個々の人間を信頼することが民主主義の原点なのだが、社会不安が増大すると、英雄待望論のようなムードが作り出される。今回の核実験、新型インフルエンザに対する、国民の不安をもとに『予行演習』をやっているような気がする。

 マスク着用、一斉休校、これらのことが何の抵抗もなく、“蔓延を防止するみんなの幸せ”の名目で実施されている。風邪がビールスで伝染することは科学的に証明されているし、『風邪は万病の基』と言われるように、たかが風邪かと軽視してはいけないのは事実である。それ故に、風邪をひいた人は、自宅でゆっくり静養することが大切だし、どうしても外出する用件がある場合、他人に迷惑(伝染)をかけないために、マスクを着用するのは、社会生活をしている人としての最低の義務である。病院で患者を診る人たちや、食品関係に従事する人がマスクを着用しているのは何ら違和感がないが、日常生活をしている人のマスクの移動は不気味である。

豊かさとは、、、

2009年05月21日 20時52分35秒 | 学校・教育
 教職から離れて10年になる。今回久しぶりに現場を訪ねる機会があったのだが、大きく様変わりしている。過疎地には必然の現象なのだが、その地の文化の中心だった学校が次々に消えていくことだ。そして子ども達は統合された遠方の学校へスクールバスで通うことになる。

 学校の統廃合は、私の現職中にも行われていたが、さらに急速に加速的に進行している。経済成長路線が地方から若年労働力を都市に収奪したのだろうが、かっては農業中心に生活を営みながら、大字単位の歩いて通える学校へ、100~200人の生徒を送り出していたのに、新入生が1人か2人、廃校もやむなしとの故老の嘆きは身にしみる。

 物質的豊かさの原点である物は、全て人間の労働の産物である。経済の論理は効率性が最優先される、その行く先が現在の経済破綻である。この経済危機こそ、人間が、特に先進国と言われる国に住んでいる人間が、物質的豊かさを追い求めてきた今までの生き方を改めるチャンスである。

 物質的に貧しくとも、地域にたくさんの人がいて互いに協力し合い助け合って生きているのが本当の豊かさではないのだろうか、、、。私の現職中(中学校勤務)に、学区には5つの小学校があった。一番規模が小さな学校から来る生徒達が、一番勤勉だったことを思い出す。そして、PTAの会合があると、その学区の父母達は必ず誘い合って全員が参加していた。そうゆう地域の伝統は、当時の生徒、今は親となった人たちにも引き継がれ、地域の子どもは地域みんなで育てるとなっている。つまり、互いが知り合える小さな地域だから実現できるのだ。

 小規模校の良さを象徴できる、ある校長さんのことを思い出す。その方は、より規模の大きな学校への異動を断り、全校生の顔と名前が分かる学校で定年を迎えられたのだが、廊下で子どもと出会うと、腕組みをし大きく股を広げる、すると子ども達は、その股の間をすっとすり抜けてたそうだ。まさに人間的ふれあいの教育の原点があると言えるだろう。

『子どもの日』

2009年05月05日 15時08分17秒 | コラム
 かっては端午の節句、3月3日がひな祭り、それぞれ男の子と女の子を祝う日であった。戦後、民主主義なのか、5月5日をこどもの日として、こどもの人格をを重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日となった。3月3日は行事として残ったが休日とはなっていない。

 その社会が、良い方向へ歩んでいるかどうかは、「老人とこどもが」その社会でどのような扱いを受けてるかで判断できる、との考えを見たか聞いたかしたことを覚えている。まさにその通りだろう。老人は今までその社会に貢献した人であり、こどもはその社会の後継者であるし、その両者が恵まれ大切にされてるならば、良い方向へ向けて歩んでいる社会と言えるだろう。

 その観点でこの国を見たとき、不安を通り越して絶望に近いのではないかと考えてしまう。経済優先、効率万能の世の中では、『老人、こどもは足手纏い』が“道理”だし、一部の豊かな高齢者を除いて、大部分の高齢者は、戦後の厳しい時代を必死になって生き抜いてきたのに、この国はあまりにも冷たい仕打ちをしているのではないだろうか。

 早晩この世と別れる高齢者にとって、未来を託せるこども達が大切にされているのなら、まだ諦めがつく。ところが、こどもの日はあっても、こども達は幼少時から弱肉強食の競争社会に投げ込まれ、心身の健全なはぐくみを阻害されている。
 こどもと深い関わりを持つ教師達も管理主義が強まる中で、自信と責任を持ってこどもと対面することに戸惑いがちになってしまった。
 教育現場で“懲罰”と“体罰”の違いが理解されていまい為に、いたずらで教師の尻を蹴ったと言う、本来ならば元気な子として、その活力を引き出したやることが真の教育なのに、教師にゆとりがなかったものか身体を使っての制止に、母親が体罰として裁判沙汰に、一審二審は母親の訴えを認め、最高裁で“体罰ではない”との判断が出たのだが、メディアが喧伝する「モンスターペアレンツ」に対する現場教師への支援になるのであろうか、、、。何れにしても今のこの社会は、その社会の影響をまともに受けるこども達にとって、住みづらく、生きづらいのは否定できないであろう。