自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

葉月の終わりに、、、

2020年08月31日 12時34分06秒 | コラム

 陰暦での月日の表現の仕方には趣がある。温暖湿潤気候のこの国では、”まかぬ種は生えぬ”の逆の現象が起きて,この国の土と共に生きてきた人にとっては,雑草との戦いはずっと継続してきたものである。つい170年前、当時でも世界有数の人口を抱え、3000万の人口を支えたこの国は,農業の自給自足で生きてきたのだが,欧米で生まれた,拡大再生産が命の経済の仕組みに取り込まれ,闇雲に突っ走った結果が75年前の敗戦である。二度と戦争はしない,そのためには軍隊を持たない,さらに交戦権すら放棄した憲法を定めたのだから,農業立国を目指すべきであった。そのモデルとしては,かってヨーロッパに覇を唱え,戦いに敗れ不毛の半島に閉じ込められながらら豊かな国を生んだデンマークである。

 日本は連合国に占領され,十分な民主主義が回復されれば,占領軍は撤退することになっていたのに、実質この国を支配したのはアメリカ軍であった。アメリカの都合で対日占領政策(日本が完全に民主主義の国となる)が変更され,戦後発動された東西冷戦のあおりを受け、アメリカの手下の地位に甘んじることとなった。アメリカに大きな力を持つまでに育った巨大企業、その象徴は軍需産業である。資本主義の最大の欠点が過剰生産,売れ残り、倒産であるが,軍需産業にはそれがない,政府が全て購入してくれるからだ。戦争は全ての人が反対するのだが、軍需産業にとっては,戦争は必要悪となる。アメリカの軍需産業にとっての好材料が,朝鮮戦争、そしてベトナム戦争であった。この国にとって,朝鮮戦争は,この国の経済復興につながったし,ベトナム戦争は高度経済成長の引き金となった・歴代この国の政権は,アメリカに従属し(サンフランシスコ会議、日米安保条約),豊かになれれば国民の支持が得られる状況を維持してきている。

 対米従属路線の現状を築いた人物の、孫息子が政権を投げ出したのだが、体調不調ではなく能力不足だったのではないだろうか、、、。この国の資源、働くことが好きな国民性、つまり,”傍が楽になる”を貫いてきた自分たちにもっと自信を持つことだ、政府が何かやってくれる期待を持つことなく、自分の生活は自分で良きものにするとの生き方を再確認することであろう。

 散歩の風景で、”稔れば稔ほど、頭を垂れる、稲穂かな”の田ぽを見ることが出来る。農道、あぜ道、土手、様子も三通り、きれいに刈り込んであるところ、雑草が生い茂り、背丈ほど伸びているところ、除草剤をまいて枯れ死して無様な姿を示しているところである。戦後一時、”東洋のデンマーク”を目指したこの国だが、その心を取り返す必要がある。人類がこの地上で平和的に生存し続けらるるために、、、


私の8月15日、その2

2020年08月15日 10時48分23秒 | コラム

 8月15日はこの国にとって終戦なのか、敗戦なのか考える必要がある。日本国憲法第9条がこの国の日々に生かされていれば,8月15日は終戦記念日として誇りにしてよいであろうが、、、。戦争とスポーツに共通点があるが。古代ギリシャ人の知性が生かされたからであろう。スポーツで、勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしと言われているが,チームを強くするには勝った試合より負けた試合から多くのことを学べるからだ。勝ち続けるといい気になり,反省を怠り勝手なことをやって大失敗をするのが,スポーツでも戦争でも言える真実である。この国の近代史を見るとこの真実が当てはまる。

 戊辰戦争は最後の国内戦争であり。イギリスと組んだ討幕派の薩長とフランスと組んだ幕府との戦いとなるが,討幕派が勝利し、新政府、明治政府が実現したのだが,民権派を押さえ込み,国権を重視する体制が確立した。隣国朝鮮は、江戸時代修好使節を定期的に派遣していたし,一方大国中国と地続きでもあり,属国状況を継続してきた。

 その朝鮮国内で,新興国日本にならって、清からの独立を目指す勢力(独立党)と今までどうりに大国に順応する(事大党)が対立していたが、真の自立を目指す東学党が反乱を起こしその勢いは全半島に及ぶことになった。事大党は清の支援を。独立党は日本の支援を要請し。東学党の乱は収拾したが、日清両軍が衝突し,いわゆる日清戦争が勃発する。近代兵器をイギリスから購入した日本が圧倒的に優勢で、下関で講和条約を結んだ。①朝鮮は独立国、②リャオトウ半島,台湾の割譲、③3億テールの賠償金(当時の日本国家予算の3倍の現金)、朝鮮半島の付けににあるリャオトウ半島は朝鮮の独立を阻害するとの名目で,ドイツ、フランス、ロシアの干渉で返却した。いずれにしても、戦争は勝つと儲かるとの先入観を持ってしまったと言えるだろう。その後ロシアとの戦争で勝利し、ポーツマス条約の内容に不満な日比谷焼き討ち事件が起きたのは、後の”欲しがりません、勝つまでは”につながる。この国の民の価値観なのかも知れない、、、。

 大航海時代の覇者、スペイン、ポルトガルに代わり,イギリス、フランスの覇権争いが続くが,フランスはアフリカでインドで、そして幕末に日本でも敗れ、唯一勝利したのがアメリカの独立である。支援して勝利した喜びを,今も残る”自由の女神像”プレゼントで表したのだが,,,、ビスマルクのドイツ統一後、イギリスと組まざるを得なくなった。欧州戦争(第一次世界大戦)が起き、日本は日英同盟を根拠にドイツに参戦、山東半島のドイツの租借地を占領、太平洋上のドイツの島も獲得した。

  第一次世界大戦という人類の愚行から,人に知性は働くもので、その象徴が、第一次世界大戦の講和に当たって原則を提示した,当時の新興国アメリカの大統領のウイルソンの”講和原則14箇条”であろう。無賠償、無併合、民辱自決、等の14箇条である。当時の世界の為政者が,その提案に賛同してベルサイユ条約を定めたら,第二次世界大戦は起きなかったであろう。戦勝国イギリス、フランスのドイツに対する懲罰的処置が,敗戦国ドイツで、”ベルサイユ条約破棄”を唱え続け、選挙による政権を獲得したヒトラー政権の誕生である。 

  そのヒトラー政権と結んで,”大東亜共栄圏”を目指し、朝鮮併合、満州国建設、最終的に中国を支配下に置こうとして,対米英戦争に望んだのが,大政翼賛会下の、5,15,2,26で政権を獲得した軍部である。当初は,勢力拡張の対象が第一次世界大戦後成立したソビエト連邦(社会主義を目指した)が目標だったが(日独防共協定)対英仏戦争を優先するドイツは,ソビエトと不可侵条約を締結する。外交音痴といえばそれまでだが、自力で北進政策を進めようとして完敗したのがノモンハン事件である。対ドイツ戦争で苦戦中のイギリス。フランスの植民地であったインドシナに目をつけた軍部は、対米英戦の大ばくちを打つ、パールハーバーとシンガポール攻撃である。その結末は,ヒロシマ,ナガサキ、そして75年前の無条件降伏である。 


私の8月15日

2020年08月14日 11時50分23秒 | コラム

 75年前の8月15日は、私は国民学校の一年生,仙台郊外の疎開してた学校でこの日を迎えた。仙台は逓信省(現郵政省)の役人だった父の転勤地、3年前、”大東亜戦争”で攻略した東南アジアのイギリスの植民地だった,シンガポールに陸軍司政官として赴任、当地との軍事郵便の開設の遂行にあたり、過労死したのだと思うが昭和17年12月に。当時旧制中学1年の長男を頭に6人の子どもを残し異境の地で戦病死した。

 母は外地赴任を断るように進言したそうだが,父はどうせだったら若いうちにと、赴任したとのことだが、”大東亜共栄圏”を信じていたのであろうか、、、。外地赴任は2年間、次の転勤地は広島とのこと、父が元気で帰国していたら,我々家族はヒロシマでみんな灰になってたかも知れない、、、。父一人が犠牲となり,家族全員が生きていけたということは,多くの戦争の犠牲者に比べたら,幸運だったと言えるのかも知れない。父の死、親族会議で,子どもたちの引き取りについて話し合われたようだが,母は断固として、”どの子も渡せません,私が育てます”と啖呵を切ったそうだ。

 長兄の卒業まで,転勤地の仙台で過ごしたので,私も仙台市荒町国民学校の1年紫組、最初の鮮烈な思い出が,楽しみにしていた遠足の日、校庭に集合、学校長が,空襲がないといいのですが,の発言後、直ちにサイレンが鳴り,遠足が中止となった出来事である。7月10日、仙台空襲、残された子どもの命を考えてか。仙台郊外の高立村に知り合いを頼って疎開し,その地で8月15日を迎えた。子ども心にも,日本が戦争に負けるなどとは,思ってもいなかった。何しろラジオから流れる大本営からの発表、その戦果に小躍りし,台所の母にその戦果を告げたりしたものである。当時の私は,確かに一小国民であったのだ。門前を通る大人の姿を見て。”,あんな大人がいるから戦争に負けたんだ”なんて悔しがったり、つくづく、戦前の教育の恐ろしさを感じている、、、。