『人の支配』から『法の支配』へは歴史的な人類の歩みである。人間は弱きが故に群をつくった動物だが、最小単位の家族、その広がりとしての部族、さらに言語や宗教、習慣の共通する民族へと社会集団を広げていった。そしてその集団の維持のため、その集団に属する個々の利益の衝突を調整する手段として、掟とかタブーとか約束等、その集団の社会規範というべきものを生み出した。国民国家が成立する絶対王政では、『王権神授説』、『朕は国家なり』がまかり通る、人の支配全盛期であった。絶対王政を批判した啓蒙思想家の考えが実現したのは、王政を倒す市民革命によってである。そして近代国家では、人民主権、間接民主制による議会の存在、そしてその議会に立法権を委ね、その議会で定めた法により政治を行う行政権を、大統領制をとる国と議院内閣制をとる国に分かれてはいるが、内閣に委ね、司法権を独立した機関、裁判所に委ねている。
裁判所の裁判官は、閻魔様と同じ法衣を着服、威厳を保持しているのだが、大の虫であれ小の虫であれ、社会に害をなすものに対しては、法に照らして厳正な判決をしてくれるとの期待があればこそ、その権威が保たれるのである。何しろ最難関の国家試験に合格し、司法研修生としてさらに研鑽を積み、そして司法の専門家(裁判官・検察官・弁護士)として社会正義を実現する仕事に携わるのだから、一般庶民から見たら、全面的に彼らの仕事ぶりを信頼して見守るしかない、、、。
社会正義を実現するための法体系は、社会の複雑化と共に、理念としての『法三章』というわけにはいかない。六法全書だけでも優に昼寝の枕になるほどの分厚さだし、さらに細則、施行規則、通達となると膨大な量になるだろう、、、。そういう法体系の頂点にあるのが憲法である。国の基本法、法律の法律、国の最高法規といわれるもので、一般の法が議会の多数決によって改廃されるのに対して、簡単に改正できない仕組みになっている。憲法が変更されれば、それに応じて全ての法が見直されなくてはならなくなるからだ。憲法は基本法であり、その国の目指す大枠を決めたものであり、その憲法を含め、民法、商法、刑法、刑事訴訟法、民事訴訟法を六法とし、法治主義をとる国の根本法となっている。日本国憲法は欽定憲法(大日本帝国憲法)の改正手続きを踏んで成立したものであり、様々な問題点はあるが、こと人権の規定、平和主義に関しては、人類史上最も優れた内容をその条文に取り入れている。この国の保守主義者たちは、この点がお気に召さないようだ。戦後、冷戦を発動したアメリカに追従し、隷属関係を強めながら、補助金と利益誘導で国政選挙で多数を維持し、一貫して政権を維持し続けた。国会の多数決で何でもありを強行し、憲法の精神とは大きくずれてきたのには、解釈改憲で湖塗してきた。
行政の暴走を食い止めてくれるのが、『違憲立法審査権』を持ち独立して職務を遂行する裁判所の役割なのだが、地方裁判所では、『良心に従い、独立して職権を行い、この憲法と法律にのみ拘束される』裁判官が存在していて、砂川事件では『アメリカ駐留軍は憲法違反』、恵庭事件では『自衛隊は憲法違反』との明快は判決が出たが、いずれも上級審で破棄されてしまった。上級審の閻魔様は、『既成事実を追認し、統治行為論で己の職務遂行を放棄』してしまったようだ。伝家の宝刀、違憲立法審査権を行使して憲法の目指す方向に逆行する統治行為(国会の多数決により実現可能)に歯止めをかけてくれるなら、主権者は、平和的な誓願ないしは裁判を受ける権利を行使して、司法への信頼、そして法の支配を受け容れることが出来る。さもないと主権者の一部は先鋭化し、過激派さらにはテロすら容認する人間を生み出してしまう。
戦後生まれの総理大臣が誕生し、『美しい国』を目指すとのことだが、憲法と教育基本法改正を最優先課題にしていることに危惧の念を感じる。彼が尊敬している祖父から、幼少時に受けた薫陶が今の彼の背骨になっているのだろうが、北朝鮮に対するぶれない姿勢が人気の原点であり、その血筋やイケメンが選挙に勝てる指導者にふさわしいと、安倍翼賛とばかり雪崩現象を起こした自民党の現状は心配である。祖父から引き継いだ反共主義は、お上に逆らう不届きものをアカで括る程度のものであり、共産主義そのものへの理解は皆無だと思うのだが、幼児体験は刷り込みともいえるもので、新総理の信念ともなっている。つまり、彼の祖父が対米従属と再軍備に繋がる新安保条約締結に当たって、例のごとく国会内の多数決で国内の反対勢力を封じ込めたのだが、その時6歳だった孫に、『反対反対と騒いでいるヤツは、泥棒より悪いヤツだ。』と説明したそうだが、そういう祖父を尊敬し、闘う政治家を標榜する新総理は、何に対して、どんな闘いをしようとしているのだろうか、、、。
教育の再生が最優先課題で、その為に教育基本法に手を着けようとしているが、教育基本法をまともに読んでみたことがあるのだろうか、、、。教育基本法はその前文で、『われわれは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。云々』と述べ、戦前の国家主義教育の反省の下、第10条で、教育は不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接責任負って行われるべきである。さらに②項で、教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない、と定められている。永久政権を目指して保守合同がなり、成立した自由民主党は結党当初から、自主憲法の制定を目指したが、96条をクリアーできず、解釈改憲、国会の多数決でことを進めてきたが、アメリカのネオコンのさらなる要求に応えるには、条文改正が必要になったのが現実だろう。警察予備隊、保安隊、そして自衛隊への道は、国会の多数決による自衛隊法で合法化されているが、海外派兵は自衛隊法では許されないとなると、イラク特捜法を得意の国会の多数決で強行した。
日米安保条約は軍事同盟ではないはずだ。ところがそれへの地ならしとして、日米同盟が最優先との政治家の発言がまかり通っている。日本の政治家であれば、日本国憲法に合わせるために、安保条約の軍事面を改正し、受託したポツダム宣言にそって、米軍基地を沖縄はもとより日本全土から撤去し、日米友好条約に変更するのが正しい取るべき道であろう。その為には時間が掛かるが、教育によってどうゆう新しい世代を育て上げることが出来るかが重要である。
今度の政権の教育再生のスタッフを見ると、国家主義的立場に立つ人物で占められている。彼らにとっては今の教育基本法が不倶戴天の敵であるのは当然だろう。今までにすでに国会の多数決で、教育委員の公選制を任命制にし、教育公務員の中立性(当然のことだが)、学力テスト、教職員の勤務評定、等によって、上意下達の管理主義教育を徹底させては来たが、最終仕上げの段階に来たとの判断があるのだろう、、、。
地裁には閻魔様がいた。今回の東京都の職員が起こした裁判で、東京地裁は、憲法と法にのみ拘束された、当然の判決を出し、東京都が強制している教育の方向へ厳しい批判を加えた。石原都知事は、東京から日本を変えると豪語し、同じく教育の果たす役割を理解しているのだろうが、米長某という将棋をやっていればいい人物を都の教育委員に任命し、提灯持ちよろしく好き勝手に独善的な振る舞いの後押しをしている。園遊会で、天皇に声をかけられた米長は、励ましの言葉でも貰えるものと思ったのだろう、地方自治体(東京都)の教育委員であることも忘れ、『私の仕事は日本中の学校で、国旗を掲げ、君が代を斉唱させることです』と述べ、『強制にならないように、、、』なんてやんわりたしなめられることとなる。閻魔様に勇み足をたしなめられても、前首相は法律以前の問題だととぼけるし、都知事は直ちに控訴を口にし、実行する。行政の教育への不当な介入も、高裁、最高裁では、不問に付すという確信があるのだろう、、、。
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