四月~三月の会計年度を採用いているこの国では、四月が希望あふれる出会い、三月は悔いのない別れの季節とされてきた。旧暦一月が会計年度のスタートだった時もあるが、新米が取り入れの10月の時もあり、新暦を採用するようになり、一月の時もあったが,明治19年から会計法によって四月となり、市町村、県でも採用されるようになった。桜満開の入学式、入社式は希望のスタートであって欲しいのだが、、、。
道徳の教科制が決められ成績も付けるし、教科書も作られた。現場の先生方の苦悩は四月とともにやってくるのではないかとの危惧を感じる。戦前の修身が忠君愛国心を育てることになったとの反省から、廃止されたが、戦後13年を経て、道徳として復活した。小学校1年で敗戦を迎えた私の通信簿には、修身の欄があり、優、良、可の評定はなされていないが、修身の教科書は読み物としてはおもしろかった記憶がある。修身、齋家、治国、平天下は儒教の基本原理であり、修身には罪はない。文字どおり身を修めることであり、その最終到達点が”克己”と言って良いであろう。成長過程の子どもに修身を要求するより、今の社会を構成する大人こそ身を修めることが必要である。
道徳の特設時間を経験することなく学校教育を終えた私だが、教育実習で一時間の道徳の時間を担当することになったが、当時はやっていた”スーダラ節”を教材として生徒と話し合ったことを思い出した。やればいいと分かっていながらなかなか実行できない、やってはいけないと分かっていながら、ついついやってしまう、それが人間なのだ。それ故に、日々自省、日記を付けることも自制心を育てることになると日記指導をした記憶がある。実際教師となり、新任教員研修会で先輩の道徳の授業を参観し、その後の研修会でどんな意見でも良いから感想をと言われて、”学校で道徳を指導することは大切だが、あらゆる場でその指導はなされるべきで、1時間の教科としての時間があった方が良いのか、ない方がやりやすいのか、現場の先生の考えをお聞きしたい”と発言したのだが、その時の発言が地教委に伝達され、その地教委から私が務める校長に伝達されたのを知って驚いた記憶がある。”あなたは文部省の道徳教育に反対の考えを持っているから担任は持たすことが出来ない”と言われたのである。
現場の苦労の多い先生方への参考になればと思い、私の現職時代の御法度3箇条をお知らせしたい。①他人に迷惑を掛けるのは禁。②出来ないのは昔の怠け、やらないのは今の怠け、今の怠けは禁。③貴重な存在の自分を、不健康にしたり、粗末にしたり、安売りするのは禁。そして口癖となっていた言葉は、”俺だけじゃない、あれよりましは言っちゃいけない。”だった。森友事件がきっかけに国会論戦を聞く機会があったが、この国の宰相の”民主党政権の時は云々、、、、、”が口癖、何とかならないものだろうか、、、、。