自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

投資家と投機屋は違う、、、

2018年02月16日 12時57分12秒 | コラム

 儲ける自由が保障されたのは、市民革命によってである。それまでは、儲けることは詐欺と同等と見なされ、キリスト教世界では禁止されていた。キリスト教徒ではないユダヤ人はローマ帝国に滅ぼされヨーロッパ各地に流浪し、商業活動にその生きる道を見いだした。200年にわたる十字軍の遠征は交通の発展を促し、遠征の起点となった北イタリアに自治都市を生み出し、封建諸侯に貢納の代わりに自治権を認めさせた。ユダヤ人以外のキリスト教徒も商業活動に携わるようになり、商業活動も神の意に適っていると主張したカルビンはルターとともに新教徒として勢力を拡大した。血なまぐさい宗教戦争を経て、信教の自由は認められるようになり、経済活動の自由が認められたのは、それまでの絶対王政により許可を得ていた大商人の重商主義を克服してからである。やがて産業革命を経て成立したのがそれまでの封建制に代わる資本主義社会である。その資本主義も、商業資本からスタートし産業資本、そして金融資本へと大化けしてしまった。

 誰も儲ける自由はあるとしても、実際に儲けるためには、元手がないとならないし、元手がある人は資本家として企業を立ち上げ、元手がない人は労働者として働き、資本家に儲けをもたらすと同時に己の生活費を受け取る賃労働が一般的となる社会体制が出来上がった。企業を立ち上げる資金がない人は銀行に預金し、利子を受け取る。銀行は競争に勝ち残るためには拡大再生産が命の企業に金を融資し利子を受け取る。その両利子の差が金融資本の利益となる。以前の産業資本は会社形式でも、自己資金の会社が多かった(合名会社。合資会社)、現在ではほとんどが株式会社である。株式会社のスタートは、一般の預金者に目を付け、銀行利子より高い配当金をもたらすことの出来る商品を生産できるとの自信を持ったある青年が始めたことである。

 優良企業、つまり多くの人が必要で、安くて良い商品を作っている会社を支援するために、その会社の株を購入するのが本来の投資家である。世界の経済状況を読み取り、株を売ったり、買ったりして利をあげようとしている人は投資家でなく、投機屋である。

 資本主義の長所はなんと言っても生産性が向上し続けることである。それ故にある商品を作るに必要な労働量は減り続ける。それだけ安い品物が作られるようになるから、今までその品を購入できなかった人も購入できるようになる。購買力が増すから、生産量も増大し、いわゆる好景気の循環が起きる。好景気の循環はやがて生産過剰となり、売れ残ることから生産縮小、倒産、失業者、さらなる購買力の減退、、、いわゆる不景気、深刻になったのが恐慌である。資本主義の欠点を根本的に無くすには社会主義が主張されたが、資本主義の長所を活かし、金融政策と財政政策で危機を乗り越えられると主張したのがケインズである。

 国家による経済関与を否定するのが、新自由主義と言われるネオコンである。法人税は出来るだけ低く、累進課税などはとんでもないことだと考えている。有り余るほどの財を有しながら、さらなる儲けを企んでいる。日々の経済ニュースで株式市場の株価、外国為替相場での円高、円安等が報道されているが、株式相場も外国為替相場も投機鳩なってしまっていることに気づかなければならない。


節分の豆まきに思う、、、

2018年02月03日 19時02分16秒 | コラム

 最近は豆まきの行事は一般家庭からは遠のいてしまったようだが、長年にわたって伝えられてきた行事の心は捨ててしまって良いものではない。四季の区別がはっきりしているこの国では、それぞれの季節のはじめを、立春、立夏、立秋、立冬とし、その前日を節分と言った。一番喜ばれたのが立春であったろう。それ故に立春前の節分には、特別な願いを掛けたのだと思う。この国では人の願いの実現を妨げるものとして、”鬼”の存在を信じたのだろう。”鬼”とは”隠(おに)”のことで、目には見えない、隠れているけど人の願いの実現を妨げるもの、人に不幸をもたらす病気などをもたらすものと信じたようだ。鬼が家の中に入らないように、とげのある柊の枝を入り口に刺しておくと鬼が入り込まないだろう、入った鬼は豆で追い出そうとの意味があったのだと思う。

 鬼に関わる御伽草子では、桃太郎と一寸法師が双璧である。鬼を退治して宝物と願いが何でも叶う打ち出の小槌、を得た物語である。特に御伽草子が全盛であった戦国末のこの国、下克上の風潮、つまり、本人次第で何にでも成れた時代背景を象徴するのが、一寸法師の物語である。そういえば現職中に、特別なテスト問題として、”一寸法師とメダカの兄弟の共通点と相違点をあげよ”という問題を出したことを思い出した。答えは、共通点、小さい、取るに足らない、大きな願いを持ったであり、相違点は、メダカで終わったメダカと、打ち出の小槌を得た一寸法師である。何故そんな違いが生まれた意味を考えさせた。メダカは大きくなったら鯉になろう、と思っても、”スイスイ、スイスイ”と生き方を変えなかった。もし、”バチャバチャ”と泳ぎを変えたら鯉になれたと思う。一方一寸法師は、”旅に出た”一番楽な家を出たのが決めてである。

 ①自分が未熟であるとの自覚(指に満たない)、②理想、夢、希望、目標を持つこと(小さな体に大きな望み)、③今までと違った生活を始める(旅に出る)、④自分の中の怠け心に勝つ(鬼のお腹の中で戦う)、⑤希望が実現する(打ち出の小槌を手にする)、⑥いい気にならず、再び一寸法師に戻る。自分の中に好循環をおこし、己の人生を輝かせよう!、、、が模範解答となる。さらに、この節分の豆まきで言うなら、鬼は豆(忠実)に弱い、忠実(まめ)の反対は、”あとで、、、”である。


45年前の中学3年生へのメッセージ

2018年02月02日 08時49分23秒 | コラム

 45年前の中学3年生は今年還暦を迎える。中学校教師をしていて、ピッカピカの新入生から3年間の関わりを持つのが大切なのだが、いろんな事情もあって、長い教師生活の中で4回しかそういう機会が持てなかった。その最初の学年の還暦同窓会に招待されたのだが、逢ってまもなく、中学時代の顔が甦り、たちまちタイムスリップしての至福の時間を持てたのは教師冥利と言えると思う。

 

ともに学んだね、人生の目的は

How to live、What to do、だって

中学時代は、友情が、人を信じることが財産なんだって

 

今春、テストを受ける君たち

テストで人間を区別することのない

そんな社会を夢見ても

現実の社会はテストが大きな壁

 

テストで試されるのは、自分というもののほんの一部

自分のすべてではない

道は一つだけではない

回り道だってあるし

自ら切り開いて進む道もある

大切なことは

自分の歩んでいるその道を

一歩一歩、力強く歩むこと

誇りを持って、赤ベコのごとく

たとえ歩みは、のろくとも、、、。