自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

文月の終わり

2010年07月31日 14時35分41秒 | コラム
 梅雨明けと同時に連日の猛暑、マイナス38度のモスクワは納得がいくけど、そのロシアでも連日の猛暑、観測史上最高の、37度、38度が報道されている。将に地球的規模の異常気象なのだろうが、“人類への警鐘”として受け止めることの出来る心を今の人類は持ち合わせているのであろうか、、、。

 2年前の“文月に寄せて”のブログで、22世紀の人類への架空の手紙を認めたのだが、その届け先が、世界連邦の一員である誰かであることを願いつつも、もしかしたら文明を拒否し続けられたアマゾンの奥地の原住民になるのではと考えたのですが、あながち的はずれではないとの悲観的な考えに浸されています。

 パグワッシュ会議で、核兵器をなくすには国家の消滅が欠かせない、と言うのが世界的な知識人、アインシュタイン、バートランド・ラッセル氏らの結論だったのだが、現実世界の強国の政治家には一顧だにされなかった。第1回の会議に出席した湯川、朝永両博士の費用は、当時の日本政府は一銭も出さず、平凡社社長の下中弥三郎氏が負担したと言われている。

 科学は、地球の誕生、生命の誕生、恐竜滅亡後の哺乳類の繁栄、そして人類の起こり、さらに一億年後には哺乳類の衰退まで予測している。当然人類が築いた筈の文明も無に帰するのであろう。ラジカロヒューマニストの立場では、この世に無限のものがあるとすれば、時間と空間、それに人間の可能性を加えたいのだが、“政治は最高の道徳である”とかけ離れ、国益を主張していればその国の主権者の支持を受けることの出来る今の各国の政治家に任せていては、人類が22世紀を迎えることすら危うくなってしまうだろう、、、。

七夕に想う、、、

2010年07月07日 12時26分23秒 | コラム
 しばし素直になり、童心に返って、七夕の行事の心に触れよう。朝早起きをし、芋の葉に溜まった露を集め、その滴で墨をすり、短冊に願い事を書いて、笹の葉に吊す、、、。人生とか、人間とかを考えるに当たって、年中行事というのは、長年にわたって引き継がれてきた人間の知恵といっても良いであろう。

 イマイチ人間を抜け出すには、一つのきっかけを掴むことだ。いくら世の中便利になっても。自分の人生の代用品は作れないし、何処にも売っていない。自分の人生の主人公は、自分自身以外には演じられないものだ。主人公の条件は、自分のなすべきことと、自分の出来ることを知っていることだ。それが分からないと、その日、その時暮らし、気ままな生活になってしまう。不安を避けるために、TVやゲーム、極端な場合は覚醒剤にまで逃避してしまう。スレで無不安が消えない時は、“俺だけじゃない、あいつよりましだ、、、”と問題をはぐらかしてしまう。

 自分の為すべきことは、自分の将来、さらに人類の将来を考えることによって明らかとなるし、今までの、昨日までの自分を考えると、自分に何が出来るかが分かってくる。そしてそれが、たとえ“ハチドリの一滴”だとしても、その出来ることを着実に積み上げていくことが大切なのだ。可能性とは、出来ることを積み上げた量に比例して大きくなるものだ。自分や人類の将来を見限ると、出てくるのは、“しらけ”と“いじけ”である。七夕の星祭りに当たって、星空を眺め、純な心に立ち戻って、一年後の自分、いやもっと先の自分について考えをめぐらし、心からの願いをかけてみよう、、、。