自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

忘れてはいけないこと、、、。

2013年12月31日 13時38分14秒 | コラム

 今年も最後の日となった。明日からの新しい年に期待が持てるのか、同じような屈折した心を抱えながら過ごすことになるのか、、、。最初のボタンのかけ間違いまで戻らないと根本的解決にはならないのだが,この国の最初の掛け違いは何処になるのであろうか、、、。”己の欲せざるところ他に施すことなかれ”とのアジアの心に背いた、”江華島事件”、”日清戦争”あたりなのかもしれない。

 その行き着く先が,8月15日の敗戦となるのだが,その敗戦から学んだ貴重な財産が,不戦の誓いを究極まで推し進めた日本国憲法第9条なのだがその完全平和主義の精神は今は風前の灯火、解釈改憲で魂を抜き去り,条文改定がまな板にのりそうな状況である。

 今もって続いている成田空港反対闘争の中心的役割を果たしてきた北原派の事務局次長の萩原氏が心筋梗塞で死去したとのニュースが流されてのが今月22日、他人事に思えなかったのはその時期私は千葉の市原市で行われていたシニアーのサッカー全国大会予選に参加し,12月1日のプレー中、心筋梗塞を起こし,救急車で搬送、適切な初期措置の恩恵もあり,命を取り留め入院生活をしている時期だったからだ、、、。年末に成田空港を利用しての海外渡航が増え続けるニュースが聞かれる中で,反対運動を続けている人たちがいることも忘れがちとなっているが,成田空港問題は我が国の真の独立と深い関わりがあることを忘れてはいけない。

 最終的に村山内閣の時に反対同盟にそれまでの不手際を謝罪したことにより,容認せざるを得なくなり,断固ハンタイを主張する勢力は孤立してしまうこととなった。しかし彼らの精神は,今後のこの国の歩みに活かされなくてはならない。何故に、戦後開拓者として入植、近郊農業地区として十分の生活が成り立つ地域に,突然、住民に一言の相談もなく空港の設置を閣議決定したのはなぜなのか、、、。当時ベトナム反戦運動が各地で盛り上がり,反戦運動に参加していた人が,ベトナムの指導者と対談したとき,日本国民のベトナム支援はありがたいけど、日本国民は自分たちの問題を解決する運動で私たちを支援してほしいと言われてしまった。つまり、サンフランシスコ講和会議で,独立を回復し,’60年安保改定で対等な条約にしたはずなのに、アメリカは,好きな場所を好きな時間軍事用に日本の土地を利用できた。新しい空港を作るに当たって,日本の空は完全にアメリカの使い放題、唯一空いていた地域であったのが芝山地区であった。ポツダム宣言受託の降伏条件は,民主的な政府が樹立されれば、直ちに占領軍は撤退するであったのだし,沖縄はもちろん他の米軍基地もすべて国外に撤去するのが当然である。そのためには,真の民主的な政府を作らなければならない。平和的な産業である農業で自活している芝山地区の人を孤立させてはいけない。