九州王朝の分派が大和に侵入し、この地の豪族を征服、支配したか、連携して大和政権を樹立したのは何時の事なのだろうか、(天孫降臨の地、高千穂が宮崎県にありにあり、宮崎県沖から日本海流で容易に紀伊半島にたどり着く)そして分家の力をつけ、527年、磐井の乱で本国の九州王朝を支配下におさめ、東北と南九州の一部を除き国土統一を成し遂げたのだが、建国の日は六世紀の末というのが史実であろう。
その大和政権で力をつけてきたのが、渡来系の蘇我氏である。大王の血筋が絶え、越の国から迎えたのが継体天皇、実権は蘇我氏にあり、飛鳥朝をスタートさせた聖徳太子は、父方も母方も蘇我氏の血を引き継いでいるし、蘇我馬子の娘と結婚し、皇位継承権を持つ山背大兄王を生んでいる。蘇我三代(馬子、蝦夷、入鹿、、本名はもっと素敵な名前だと思うのだが、、、)で、蘇我氏の血を引く天皇を殺したり聖徳太子の死後、その子を攻め滅ぼしたのも、蘇我王朝を開いたと考えた方が史実にあっていると思う。当然多くの反対者は存在したし、645年、大化の改新という、ク、デターによって蘇我氏本家は滅亡する。
天智、天武朝で律令政治(天皇主権)が確立し、聖武天皇の時、最盛期を迎える。様々な問題も生じ、桓武帝の平安遷都から100年間律令政治の立て直しを図るが実権は、大化の改新時の第一の功労者、中臣鎌足の子孫、藤原氏に移っていく。鎌足の息子、不比等がその基礎固めをするのだが、娘を聖武天皇の后にしたやり方は蘇我氏と共通するが、蘇我氏の興亡を知る不比等は、藤原氏の権力維持のためには、あくまでも黒子に徹し、トップには立たない、実利はしっかり戴き、責任は回避する術を生み出した天才的な策略家と言えるであろう。現在も続くこの国の無責任体制のルーツはこの辺にあるのかもしれない、、、、。その路線を踏襲した藤原北家の系統が、平安中期の約200年間、摂関政治という名の支配を維持した。中央での出世をあきらめ地方政権をめざし土着した藤原一族の分派が、奥州藤原三代である。当時天皇は藤原氏の操り人形で、子どものときだけ天皇の位につき、成人すると退位させられる。成人しても判断力のない場合(血族結婚の弊害)は関白職にすべて委ねることとなる。そんな中央の政府にに反旗を翻し、”王侯いずくんぞ種あらんや、、、”の気概で関八州を支配し、自ら新たな天皇と称したのが平将門である。馳せ参じた農民を、農繁期に自国に帰したすきを突かれて、藤原秀郷に討たれのであるが、今でも地元では自分たち農民のために戦ってくれた守護神として守り続けられている。(神田明神)
摂関政治の欠点は、藤原氏の血を引く皇位継承者が絶えてしまうことにある。平安最後の約100間は藤原氏と血縁のない天皇が位につき、過去の律令政治を目指すのだが、荘園を整理し公地を回復しようとしても取り巻きの藤原氏に反対されてしまう、白河天皇は藤原氏の影響から逃れるため、自ら退位し、天皇の地位を息子に譲り、院政を開始する。平安400年間、地方では土地を開墾し獲得して自営、農民となった者たちが、自らの土地を守るために(一所懸命)、武士団を結成着実に力をつけていく。そういう武士団のまとめ役として、平氏、源氏が並び立つ。保元、平冶の乱に勝利し、藤原氏の摂関政治を踏襲して、実権を握ったのがが平清盛である。平安末期の約20年間、”平氏に非ずんば、人に非ず”の政治が続くが、地方武士たちは源氏の血筋を引く頼朝を中心に、関東に地方政権を樹立する。
鎌倉。室町、江戸の3幕府政治の約700年間は武家政治であるが、形式的には天皇から、武家としての最高の位、征夷大将軍に任じられ政治を任されるという形式をとる。もともと征夷大将軍というのは、大和政権がその領地を東北に広めるために、蝦夷地を攻める責任者に命じられたのが坂上田村麻呂であって、貴族の最高の位が、太政大臣、武家の最高位が征夷大将軍として定着したものである。
鎌倉から南北朝統一までの200年間は公武の対立期である。武家勢力に対して、旧勢力の天皇、貴族がたのとの権力闘争が見られた時期である。京都側の鎌倉幕府(北条氏の執権政治)に不満な武士に期待しての、北条氏追討のもくろみは失敗に終わる(承久の乱)が、元の襲来による、執権政治を支える幕府と御家人との破局は鎌倉幕府滅亡につながる。ほんの2年間天皇親政の政治(後醍醐天皇)が見られるが、実権は源氏の血筋を引く鎌倉幕府の有力な御家人であった足利氏に移る。足利尊氏の政治ブレーンは、征夷大将軍を受け開幕るなら、天皇は必要だし、木や石で作ればとまで提案したそうだが、尊氏は頼朝を踏襲した。
天皇家が最困窮したのが戦国時代である。戦国武将は、将軍をサポートし勢力の拡大を図ろうとするし。実権のない将軍にその役を命じることで存在を許されている天皇家にしてみれば当然であろう。信長の跡を継ぎ、全国統一を果たした秀吉は、聚楽第に天皇を迎え、かってこの国を統一した方の子孫であることを周知させ、その天皇からすべてを任された(太閣)という形式をとり、その地位を保証した。続く江戸幕府も天皇は将軍をさづける地位を保証されたが。禁中並びに公家諸法度で、隅々まで幕府の干渉を受けた。困った人には手をさしのべるのがこの国の一般民衆の性質であったようで、京都の商人で経済援助をした人、地方でも献金をして、色紙などをもらい、家宝として持ち続けた人もいたが、明治の初期には、「天皇はんも偉い出世しなはった、この町にいなはったときはずいぶん苦労したはりましたけど、、、家には天皇はんの借金証文がたんとあったんどす、いまさら取立てもできまへんけど、、」と話す老舗の主人もいたようで、一般民衆からは好意的にみられていた。
旧皇室典範は、大日本帝国憲法とセットで、天皇を神に祭り上げるものとなった明時代の法であるのだが、戦後新たに定められた皇室典範は旧法の何ら変わりない内容を持っているし、今回の天皇代替わりに基づく様々な行事は、その皇室典範に基づき行われたが、大嘗祭における総理大臣の、”天皇陛下万歳”の三唱に違和感を覚えたのは私だけであろうか、、、。