自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

株式相場、外国為替相場は高級賭博場

2020年02月29日 09時54分11秒 | コラム

 世はコロナ一辺倒、さらにさまざまな思惑もあるのだろう、円高、株価暴落のニュースであふれている。さらに三月は学期末、学年の締めくくり、さらに大切な卒業を迎える最終学年でもある。そんな折、一国の総理大臣は、コロナ対策として全国の学校に休校を要請した。一国の最高責任者の要請なので、お上に弱い体質を持つこの国では、一斉にその要請に、心のうちでは意義があっても、おおむね応じる気配である。

 火の使用が人と動物の分岐点となったのだが、木、石(石炭)、水(石油)、空気(天然ガス)を利用し、この地球上で王者の地位を占めてるのが人類である。さらに見えない火(ウラン)を原子力という名のエネルギーを生み出し、核兵器は,広島、長崎で実験済みだし、核兵器使用へのアレルギーは全世界的に広まっている。それ故に、先進国といわれる、この地球でいい思いをしている国では、生物化学兵器なるものを研究し、その地位を維持しようとしている。おそらく今回のコロナ菌も、その保管状況に瑕疵があり漏れ出したものであろう。

 そのコレラ菌の問題が、何故の株式と関連が生じるのであろうか、、、。株式を生み出したのは、ある金のない青年で、この品物はみんなが喜んで買ってくれる自信はあるが、それを作るための資本は持っていない、資本にはならない小金を保持してる人は無数にいる、そういう人に配当を約束し集めることができたら、まとまった資本になるし、会社を興しその商品を生産し、利益を得ることができる、としてスタートさせたものである。資本とはもうけることのできるもとでのことで、商業資本がそのスタートである、ローマ帝国時代。キリスト教が国教となり、キリスト教徒はもうけることはいやしいこととして禁止されていた。それ故に、信教を捨てず亡国の民となりヨーロッパ各地に流浪したユダヤ人はその卑業といわれる商業活動で生きていく以外に生きるすべはなかった。シェクシピアの「ベニスの商人」で描かれているユダヤの商人への憎悪は、一般的人間の弱さを表しているのだろう。すべての人にもうける自由が保障されたのは市民革命後である。つまり経済的自由権(居住移転、職業選択。国籍離脱。財産権の不可侵)が保障されるようになってからである。まとまった金がなければもうけることはできない。商業資本から産業資本へそして現在では金融資本が全盛となってしまった。産業資本の頃までは人の心を持つ資本家は存在した。金融資本となると人の心をなくさないと生き残れない。もうけることに関してフロントランナーであったユダヤ系の資本家、欧米におけるロスチャイルド家、ロックフェラー家、個人的にはヒューマニズムを発揮する御曹司はいても、金融資本の原理は今の世で貫徹している。

 


皇国史観の克服は可能か、、、その②

2020年02月14日 09時19分44秒 | コラム

 九州王朝の分派が大和に侵入し、この地の豪族を征服、支配したか、連携して大和政権を樹立したのは何時の事なのだろうか、(天孫降臨の地、高千穂が宮崎県にありにあり、宮崎県沖から日本海流で容易に紀伊半島にたどり着く)そして分家の力をつけ、527年、磐井の乱で本国の九州王朝を支配下におさめ、東北と南九州の一部を除き国土統一を成し遂げたのだが、建国の日は六世紀の末というのが史実であろう。

 その大和政権で力をつけてきたのが、渡来系の蘇我氏である。大王の血筋が絶え、越の国から迎えたのが継体天皇、実権は蘇我氏にあり、飛鳥朝をスタートさせた聖徳太子は、父方も母方も蘇我氏の血を引き継いでいるし、蘇我馬子の娘と結婚し、皇位継承権を持つ山背大兄王を生んでいる。蘇我三代(馬子、蝦夷、入鹿、、本名はもっと素敵な名前だと思うのだが、、、)で、蘇我氏の血を引く天皇を殺したり聖徳太子の死後、その子を攻め滅ぼしたのも、蘇我王朝を開いたと考えた方が史実にあっていると思う。当然多くの反対者は存在したし、645年、大化の改新という、ク、デターによって蘇我氏本家は滅亡する。

 天智、天武朝で律令政治(天皇主権)が確立し、聖武天皇の時、最盛期を迎える。様々な問題も生じ、桓武帝の平安遷都から100年間律令政治の立て直しを図るが実権は、大化の改新時の第一の功労者、中臣鎌足の子孫、藤原氏に移っていく。鎌足の息子、不比等がその基礎固めをするのだが、娘を聖武天皇の后にしたやり方は蘇我氏と共通するが、蘇我氏の興亡を知る不比等は、藤原氏の権力維持のためには、あくまでも黒子に徹し、トップには立たない、実利はしっかり戴き、責任は回避する術を生み出した天才的な策略家と言えるであろう。現在も続くこの国の無責任体制のルーツはこの辺にあるのかもしれない、、、、。その路線を踏襲した藤原北家の系統が、平安中期の約200年間、摂関政治という名の支配を維持した。中央での出世をあきらめ地方政権をめざし土着した藤原一族の分派が、奥州藤原三代である。当時天皇は藤原氏の操り人形で、子どものときだけ天皇の位につき、成人すると退位させられる。成人しても判断力のない場合(血族結婚の弊害)は関白職にすべて委ねることとなる。そんな中央の政府にに反旗を翻し、”王侯いずくんぞ種あらんや、、、”の気概で関八州を支配し、自ら新たな天皇と称したのが平将門である。馳せ参じた農民を、農繁期に自国に帰したすきを突かれて、藤原秀郷に討たれのであるが、今でも地元では自分たち農民のために戦ってくれた守護神として守り続けられている。(神田明神)

 摂関政治の欠点は、藤原氏の血を引く皇位継承者が絶えてしまうことにある。平安最後の約100間は藤原氏と血縁のない天皇が位につき、過去の律令政治を目指すのだが、荘園を整理し公地を回復しようとしても取り巻きの藤原氏に反対されてしまう、白河天皇は藤原氏の影響から逃れるため、自ら退位し、天皇の地位を息子に譲り、院政を開始する。平安400年間、地方では土地を開墾し獲得して自営、農民となった者たちが、自らの土地を守るために(一所懸命)、武士団を結成着実に力をつけていく。そういう武士団のまとめ役として、平氏、源氏が並び立つ。保元、平冶の乱に勝利し、藤原氏の摂関政治を踏襲して、実権を握ったのがが平清盛である。平安末期の約20年間、”平氏に非ずんば、人に非ず”の政治が続くが、地方武士たちは源氏の血筋を引く頼朝を中心に、関東に地方政権を樹立する。

  鎌倉。室町、江戸の3幕府政治の約700年間は武家政治であるが、形式的には天皇から、武家としての最高の位、征夷大将軍に任じられ政治を任されるという形式をとる。もともと征夷大将軍というのは、大和政権がその領地を東北に広めるために、蝦夷地を攻める責任者に命じられたのが坂上田村麻呂であって、貴族の最高の位が、太政大臣、武家の最高位が征夷大将軍として定着したものである。

 鎌倉から南北朝統一までの200年間は公武の対立期である。武家勢力に対して、旧勢力の天皇、貴族がたのとの権力闘争が見られた時期である。京都側の鎌倉幕府(北条氏の執権政治)に不満な武士に期待しての、北条氏追討のもくろみは失敗に終わる(承久の乱)が、元の襲来による、執権政治を支える幕府と御家人との破局は鎌倉幕府滅亡につながる。ほんの2年間天皇親政の政治(後醍醐天皇)が見られるが、実権は源氏の血筋を引く鎌倉幕府の有力な御家人であった足利氏に移る。足利尊氏の政治ブレーンは、征夷大将軍を受け開幕るなら、天皇は必要だし、木や石で作ればとまで提案したそうだが、尊氏は頼朝を踏襲した。

 天皇家が最困窮したのが戦国時代である。戦国武将は、将軍をサポートし勢力の拡大を図ろうとするし。実権のない将軍にその役を命じることで存在を許されている天皇家にしてみれば当然であろう。信長の跡を継ぎ、全国統一を果たした秀吉は、聚楽第に天皇を迎え、かってこの国を統一した方の子孫であることを周知させ、その天皇からすべてを任された(太閣)という形式をとり、その地位を保証した。続く江戸幕府も天皇は将軍をさづける地位を保証されたが。禁中並びに公家諸法度で、隅々まで幕府の干渉を受けた。困った人には手をさしのべるのがこの国の一般民衆の性質であったようで、京都の商人で経済援助をした人、地方でも献金をして、色紙などをもらい、家宝として持ち続けた人もいたが、明治の初期には、「天皇はんも偉い出世しなはった、この町にいなはったときはずいぶん苦労したはりましたけど、、、家には天皇はんの借金証文がたんとあったんどす、いまさら取立てもできまへんけど、、」と話す老舗の主人もいたようで、一般民衆からは好意的にみられていた。

 旧皇室典範は、大日本帝国憲法とセットで、天皇を神に祭り上げるものとなった明時代の法であるのだが、戦後新たに定められた皇室典範は旧法の何ら変わりない内容を持っているし、今回の天皇代替わりに基づく様々な行事は、その皇室典範に基づき行われたが、大嘗祭における総理大臣の、”天皇陛下万歳”の三唱に違和感を覚えたのは私だけであろうか、、、。 


皇国史観の克服は可能か、、、

2020年02月13日 10時23分24秒 | コラム

 この国の歴史年表が縦であらわされるのは、西暦593年、聖徳太子が摂政の位についた年、飛鳥時代からである。それまでは、弥生時代は紀元前2~3世紀、大和時代(古墳時代)4世紀半ば過ぎとして、年表上では斜線で表現される。記録の残る歴史時代は飛鳥時代からで、それ以前は考古学の時代となる。考古学によって史実が解明されれば、歴史時代もそれに伴い遡るのである。我が国の古代史の解明には、中国、朝鮮、日本の東アジアのの興亡の歴史と捉えて観ていかないと真実は見えてこないであろう、、。古代天皇家の内紛、壬申の乱で勝利した天武天皇の時編集された古事記、さらにその天武朝の正当性を強調する日本書紀にの記述を全面的に正史とみなしては皇国史観にたどり着くこととなる。邪馬台(壱)国も大和にあり、初代天皇と言われている神武天皇の墳墓も、、、との大和一元史観では行き着くところ日本は”天皇を中心とする神の国”になってしまうのである。出雲王国もあったはずだし、九州王朝も吉備王朝、さらに越王朝も存在したとの多元史観でこの国を見ていく必要がある。    

 飛鳥、奈良、平安の約600年間は、政治の中心は近畿地方にあり、実権は、天皇(律令政治)、貴族(摂関政治)、そして天皇が取り戻す(院政)と移り変わったのは史実である。それに先立つ古墳時代は我が国が多くの小国家の分立から、地域王国の成立、大和朝廷による国土統一の歴史であるし、その歴史的解明には、近畿地方に残る古墳の学術的調査が欠かせない。その多くは、明治以降、日本書紀の記述に基づいて特定されたものであるが、被埋葬者に敬意を表しつつ、発掘し、最新のDNA鑑定も加味すれば、古代史の謎はすべて解明されるであろう。宮内庁の管理下にある天皇陵にその許可が出ないの、天皇家のルーツが大陸、ないしは朝鮮半島になるの恐れているのかもしれない、、、。現上皇が、2001年自らの誕生日に、”ゆかり発言”をして、桓武天皇には百済王、武寧の血が流れていると言い切っているのだから、自国の成り立ちの解明には天皇陵の発掘は欠かせない、    ヨーロッパ諸国が王政の頃、スペイン、イギリス、フランス等の王室は血縁でつながっていたし、ノルマン人のイギリス征服後、イギリス王がたびたび領土確保のために大陸に武力行使したのと同じことが、朝鮮半島に出兵し高句麗と戦ったり、663年、白村江での唐、新羅の連合軍に完敗するまで続けられたと考えた方が史実にあっていると思う。皇国史観では、”三韓征伐”となってしまうのだが、、、。神宮皇后はお産で実家に里帰りしたのが史実であろう、、、。つづく    


2,11は紀元節、建国の日ではない、、、。

2020年02月11日 10時07分57秒 | コラム

2,11に寄せて、以前のブログを再録する、

 政令で建国を記念する日と定めても、史実に合わないことに納得はできないが、休みが一日増えるからとの理由で歓迎する人が多いのが現実であろう。封建社会の江戸幕府を倒したのは、ヨーロッパの市民革命とは異なり、薩長を中心とする下級武士が主体であった。それ故に、主君の主君にあたる幕府に代わる政権、つまり明治政府の正当性を権威付けるために、天皇を利用した。1868年の王政復。’73年の紀元節、’80年の君が代制定、’89年の大日本帝国憲法制定、’90年の教育勅語でその完成を見る。この国の歴史を振り返ってみよう。

 戦前のこの国では、菊と桜が二大タブーであった。天皇と軍に対する批判はもちろん、まともな研究、考察さえ問題視されたし、触れてはいけない領域であった。神聖にして犯すべからずの天皇と、その統帥権の下にある軍には一切口出しできないのが戦前のわが国であった。「近代天皇制」は日露戦争後構築されたが、その権威は2600年に及ぶ皇統の血という架空の教義に基づいていた、そのカリスマ性は、戦前は当然、戦後も、そして現在でも多くの日本人の中に大きな影響を与えている。架空の権威に基づき独裁政権を維持している某国を揶揄し、その危険性を針小棒大に宣伝し続けるマスコミ、1945年8月16日、皇居前広場で土下座して天皇に謝る人の群れ、「玉音放送」で左程混乱もなく自民族の占領を甘んじて受け容れた歴史を持つ自国のことは忘れてしまったのであろうか、、、。戦前の教義。皇国史観の克服なしには、この国の民主主義は形骸化するだけである。

 皇国史観のルーツは、江戸時代の鎖国政策による情報操作、情報遮断のドグマに求めてよいだろう。それまでのわが国の学問というと、儒教の解釈として幕府の正学なった朱子学、実践を重んじる陽明学、古典からじかに学ぼうとする古学、庶民にわかりやすく伝えようとする心学、吉宗の洋書輸入の許可以降の蘭学、仏教伝来以降のさまざまな宗派による解釈が中心であった。そんな中で、儒教は中国、仏教はインド、蘭学はヨーロッパの教え、日本の本来の教えは何か求めようとした、契沖、賀茂真淵、本居宣長等は万葉集、古事記の研究からつかもうとした。国学の始まりである。そして対外的なものを除去した中で残るのは、神道と天皇制であるとのイデオロギーを確立したのが平田篤胤であリ、水戸学に引き継がれ、幕末の討幕勢力を結集させる尊王攘夷運動となった。鎖国をやめての開国方針は時代の流れであり、フランスと結んだ幕府とイギリスと通じた討幕勢力の薩摩、長州との争いは、インド、アフリカにおける英仏抗争でのイギリス勝利の流れをくみ、イギリスと結んだ討幕派の勝利となる。新しく権力をつかんだ薩長は、自らの権力維持のため、尊王思想を最大限に利用した。江戸海幕以来、実質的首都だった江戸を東京と改め、天皇を京都から移し、その時天皇はすり替えられたとの伝説もあるのだが、天皇の権威を高めることにより自らの幕府に代わる政権の正当性を主張した。古代天皇制確立時の歴史書、日本書紀の記述を根拠に、日本の国は神武天皇以来天皇がこの国を治めたいたのだから、そえまでの武家政権に代わり、天皇親政の政治が実施されるとの「王政復古」の大号令が発せられた。そして、天皇が神の前で誓いを立てるという形で、政治の基本方針、五箇条が発布された。

 辛酉の年に大変革が起きる(この辛酉説そのものが古代中国の思想なのだが)601年が、その辛酉の年にあたり、それより1260年前の正月(旧暦では2月11日)に、初代天皇の神武天皇が即位したとの仮説のもとに、明治の絶対王政的天皇制が構築された。薩長独裁に不満を持つ勢力の自由民権運動も、議会開設の詔を勝ち取ったが、大日本帝国憲法(君主権>議会)の下で藩閥政治が継続する。民権重視の思想も、それを支援する勢力も、いわゆる大正デモクラシーと言われる中で育っていったが、世界恐慌の波に飲み込まれ、ひ弱な体質の日本の資本主義はファシズムへと大きく舵取りをする。財閥と軍部が組み、政党政治を、5,15事件、2,26事件で葬り、中国への侵略、1940年には、皇紀2600年祭を大々的に挙行し、天皇の下大アジア統一を目指した「大東亜共栄圏」の実現をめざし対米英戦争を発動した。

 戦後の一時期、我こそは正朝南朝(後醍醐天皇)の血筋を引く天皇であると主張した熊沢天皇なるものも現れ話題となったが、日本の占領統治にあたって天皇制を温存したほうが有利と判断したアメリカの判断によって、第一次世界大戦後、日本が参考にしてきた政治体制、帝政ドイツの皇帝は退位し共和制になったように、本来は廃止されるべきであった天皇制は象徴天皇制として残ることとなった。国権の機能は一切保持せず、内閣の助言と承認のもと行う国事行為のみに限られることとなったのだが、戦前以来の宮内庁の機能には手を付けることにならなかった。戦前は神であり、戦後人間宣言をして本来の人間に戻ったのであるが、依然として囚われの身であることには変わりがない。二代にわたって民間から妃を迎え、国民と共に歩む象徴天皇制を模索しているのだが、Y染色体、万世一系、皇国2600年有余との皇国史観の影響下にある保守というより反動政治家、その代弁者としての御用学者、さらに生活権も関わる宮内庁によって、開かれた皇室は、未だに閉ざされたままであるし、いつ何時、再び雲の上に祭り上げられないとも限らないのである。すべての人間解放を目指す上では、天皇もその後継者も人間的自由は保障されるべきであるし(辞める自由を含めて)。象徴天皇制も歴史の中に残るべきであろう。続  


”三つ子の魂百まで、、”

2020年02月07日 09時12分10秒 | コラム

 諺とか格言とかいうものは長年の人の生活から生まれた生活の知恵と言えるのではないだろうか、、、。自然界は適者生存、弱肉強食の世界であり続けたし、約500万年と言われている人間社会でもその原理は通用し、今もって”MIGHT IS RIGHT”の世が続いている。それを”RIGHT IS MIGHT”にしようとする人の営みが人類の歴史であり、そのことに至る唯一の道が”教育”である。家庭教育、学校教育、社会教育。自己教育がその役割を担っている。昨今ではそれ以前の胎児教育の大切さも指摘されているが、、、、。

 時の権力が、その教育を自らのコントロール下に置きたいのは当然で、学校教育、社会教育(メディアが中心)の支配に成功すれば、どんな悪政でも継続し続けることが出来る。小泉政権、現在の安倍政権が長期政権を維持しているのはこのことと関連がある。その間一時的だが、民主党中心の政権ができたが、松下政経塾出のPHP(繁栄を通しての平和と繁栄)では古くは、ローマンパックス、現在のアメリカンアックスの考えと一緒だし、人類の歩む方向とは言えなかった。新PHP(前後のPを入れ替え)、つまり平和を通しての繁栄と幸福だと人類の歩む方向に合致すると思うが、、、。

 ”あなたによく似た子供を産んで川という字に寝てみたい”という都都逸があるが、胎児教育の大切さを言ってるのだろう、、、。乳幼児にどんな育て方をされたかの重要性を示しているのが、タイトルの言葉だろう。ふと思い出したことがある。私が冬期休暇で実家に帰省していた時のことである、姉が子供を連れてよく遊びに来ていたが、私は炬燵で本を読んでたのだが、その周りをよちよち歩きの姪っ子が、キャンディを口にし、その包み紙をポイ捨てした。その時私は炬燵から出て、その包み紙を拾わせ、台所にあったゴミ箱に入れて、その頭を:”いい子いい子”と言って撫でてやった。再度炬燵で本を読み続けたのだが、キャンディを口にし、その包み紙を、部屋の中をよちよち歩きをしていた姪っ子に渡したところ、先ほどのゴミ箱に投げ入れ私のところに戻って、頭をさしだしてきた。”いい子いい子”と頭を撫でてやったのだが、すごく嬉しそうな顔ををしていたのを数十年たったいまでも覚えている。

 後日談だが、是もずっと前に姉から聞いた話だが、前に遊んだおもちゃをきちんと片づけをしてからでないと、次の遊びに向かなかったそうだ。さらなる後日談があって、ひとり息子と結婚し、その結婚生活での間のトラブルが机上、室内の整理整頓だったのこと。彼の散らかし(姪の判断)と彼の慣習との問題だったようだ、、。彼に会った時。姪っ子の幼児の時の話をしたのだが、”よくわかりました”との答えをしてれた。