自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

3.11とは、、、

2014年03月11日 12時19分28秒 | コラム

 東日本大震災という言葉が定着していて、人為の及ばない自然災害として納得させられているのだが、インターネット上では”人工地震”説が流布され、それなりの説得力を示している。確かに3年前、この国の地震学者は、東南海地震の発生の確率を高い割合で示し、三陸沖の地震はさほど問題にさていなかった。今まで学んだ地震のメカニズムとは異なる事象に自信を失ってしまったのかもしれないが、世界各地で今まで実施された地下核実験はすべて察知してきた事実から、地震学者の名誉にかけて、3年前の大地震のメカニズムを解明してほしいものだ。

 ”大震災”故の福島原発事故も定着しているのだが、原発事故は、”原子力の平和利用”の技術を実験室で十二分に検証し、プルサーマル技術を確立し、原発の廃棄物を無害にするまでは実用化すべきではなかった。それまでは原爆も原発も悪魔の科学による双子の兄弟、使用はもちろん、作ることもやめるべきである。

 人間が作ったものは、人間が役に立つように使うべきで、人に役に立たないものは処分しなければならない。杉並の主婦からスタートした原水爆反対は、世界的、人類的運動に高められたのに、分裂して、年中行事になってしまった事実を反省しなければならない。毎週金曜日に国会周辺から生じた反原発の運動も、同じ道をたどらないように、セクト主義を排し、人類的課題にまで高めていかなければならない。


3月10日、、、。

2014年03月10日 07時43分02秒 | コラム

 戦争を体験した世代が失せつつある現在、何やら勇ましい掛け声が主流となり、人類にとって最大の教訓となるべき戦争の惨禍から学び取らない政治家が幅を利かしている現状は何とかしなければならないと思う。1945年、私は小学校(当時の名称は国民学校)1年生であった。ラジオで伝えられる大本営発表の大戦果に聞き耳を立て、その勝ち戦の成果を台所の母に伝えるいっぱしの少国民であった。初めての楽しみにしていた遠足、校庭に集合、学校長から空襲がないといいのですがの発言の直後、サイレンが鳴りただちに遠足は中止、避難したことを鮮明に記憶している。3月10日の東京大空襲のことは記憶にないが、当時住んでいた仙台が7月10日に空襲があり、命が大事と疎開を経験した。

 公共放送のNHKの会長、新たに任命された経営委員の言動が注目されているが、アメリカの対日戦争における一般市民の大虐殺(3.10,8.6,8.9等)は批判されるべきではあるが、この国が戦争中に犯したもろもろの罪悪を否定するための方便に使うなどはとんでもないことだ。悪がきが叱責されて、”俺だけじゃない”と抗弁するのと何ら変わりない、、、。

 幼かった故、少国民教育の影響から抜け出ることは容易であり、戦後”民主主義教育”の第1期生として初等中等教育を受けられたことは幸いであった。当時の先生たちは模索中であり、少なくとも生徒を管理する姿勢は見せなかった。生徒の立場としての私たちは、自己決定の機会を多く持つことができた。”道徳教育”の時間などはなかったが、ボスの存在はあっても、いじめ等は皆無であったと思う。

 流れが変わったのが、”冷戦”である。本来は国連軍の占領下にあった我が国は、実質アメリカの占領下にあり、アメリカの思惑に左右され、レッドパージと公職追放解除がセットで実施され、戦前の力を持っていた人物勢力が、次々と政財界に復帰した。公職追放解除された人たちにとっては、アメリカさま様であり、アメリカの意図を先取りすることによってこの国の支配を任される構図が出来上がったしまった。