作られつつある朝鮮危機に対して以前のコラムを再録する。
以前に北東アジアの夜の光景を、人工衛星から写した写真を見たことがある。日本列島は全て光で浮き上がり、朝鮮半島の南半分は光であふれ、北半分は、平壌周辺にポツポツと光が見られるだけで、全てが漆黒で覆われている映像であった。繁栄する日韓、貧困の北朝鮮を象徴する映像には違いないが、生物学的立場で考えると、“日出でて作し、日入りて憩う”との慎ましい生活をしている北の民衆、夜行性人間が増加し、資源の無駄使いをしている、日韓の民衆と言えないこともないであろう。
金融資本の暴走で、100年来といわず、人類始まって以来の経済危機に陥ってる現在、人類とて地球生命体の一種、生物学的立場に立った生活のあり方を見直す必要がある。生産性の向上が人類に恵みを与えたことは事実であるが、そのために『奇蹟の惑星』を傷め続けてきた事実にも目を向けなければならない。
この地球上で、人類が他の生きものと共存して生き続けるためには、肉食動物が草食動物を捕獲するのは、自らの腹を満たすまで、との制約があるように、エゴを克服できる慎ましさを人類も身につけることが必要だ。
本題に戻って、慎ましさを通り越した苦難の生活を余儀なくされている北朝鮮の一般民衆、その政治体制に問題があるとしてもそれを改めるのは北朝鮮の民衆であって、他国がテロ支援国家とか悪の帝国だとか決めつけて、経済封鎖をしたり、経済制裁をすることは内政干渉である。そのような姿勢は、一般民衆の生活をさらに困難にするばかりでなく、いたずらにその問題のある政権を持続させることになる。金大中・ノムヒョン両政権が一貫して太陽政策を維持してきたのであるが、同胞を支援し、生活が向上すれば、かって韓国が、朴軍事独裁政権の圧政を覆し、民主化を実現したように、北朝鮮の民衆が自ら立ち上がって、独裁政治を改め南北の平和統一が実現できるとの確信があったからだと思う。ノムヒョン政権の経済失政(?)を衝いて、当初圧倒的支持の基、保守政権を取り戻した現韓国政権だが、南北間に冷たい風が吹きすさんでいる。
第二次大戦後の分断国家、ドイツ、ベトナムは対照的な統一を果たしたが、日本が関わりのある朝鮮と台湾問題を抱える中国は未だに分断のままである。その分断を秘かににんまりとしている連中がこの国にも一定の勢力を維持しているようだ。 東西冷戦の片棒を担がされたこの国の保守勢力は、朝鮮戦争で奇蹟の経済復興を遂げたとの認識があるし(朝鮮特需)、朝鮮戦争で戦前の経済水準に回復できたのは紛れもない事実である。
WBCの東京ラウンドに、日本のライバルとしての韓国チーム、3月1日に来日したのには意味がある。朝鮮の近代史における栄光の記念日としての、3・1独立運動が起きた日であるからだ。第一次世界大戦の講和会議であるベルサイユ会議で、14カ条の講和原則を提案したのがアメリカのウイルソン大統領である。バルカン半島の民族問題が、大戦の引き金になった事実から、その講和原則の一つに、“民族自決主義”を唱えていた。歴史に“もし”は禁物だが、この時のアメリカの提案に日本がいち早く賛同し(イラク開戦にいち早く賛同したのに・・・)、朝鮮や台湾の独立を承認し、他の植民地所有国に、植民地独立を促したならば、その後の世界の歴史は変わっていたことであろう。
朝鮮併合の大義名分、“ロシアの朝鮮領有を防ぐ”が大戦中のロシア革命によって失われたのだし、いち早く独立を承認してたら、信頼される隣国になれたのだが、その後は、旧来の帝国主義政策(英・仏型)を追求、満州事変を起こし領土拡大、朝鮮では皇民化政策を採用、どれほど隣国の民の魂を傷つけたことか、、、。やった方は忘れても、やられた方は決して忘れることはない。
対米英戦争はアジアの独立を促した、というのが独善的な田母神氏に代表される史観だが、対米英戦争の20年前に朝鮮の独立を承認してるのなら納得できる。その田母神氏がブルーリボンを付けて度々メディアに登場して持論を述べる機会を与えられてるのは気がかりだ。首相、外務大臣、官房長官、メディアに登場する民主党の若手の中にも、ブルーリボンを付けているものが目立つ。単純に拉致問題の解決を願う意思表示なのだろうが、日朝の複雑な歴史を客観的に検証しないといけないだろう。
日本の第二次大戦での降伏条件は、戦争で獲得した領土は元に返すということである。明治以降拡大した領土は、日清戦争での台湾、日露戦争での南樺太、帝国主義政策を推し進めての朝鮮、満州である。台湾は清のあとの中華民国、南樺太はロシアからソビエトへ、朝鮮は朝鮮へ、満州は中国へ戻すことになる。
対日降伏勧告(ポツダム宣言)が当時の日本政府に出されたのが、’45年7月26日、国民には本土決戦を吹聴しながら、秘かに和平工作をソビエトに依頼していたのだから、一週間以内に降伏を決めていれば、朝鮮が南北に分断されることもなかったし、ヤルタ密談(米ソ)によるソビエトの対日参戦もなかったし、それに伴う残留孤児の問題、北方領土問題もなかった。さらに、ヒロシマ・ナガサキもなかったのだが、優柔不断はこの国の為政者の遺伝子なのだろうか、、、。
北緯38度線は、日本軍の武装解除を38度線以北はソビエトが、南はアメリカが担当し、終了次第、両軍は撤退し、選挙が行われる取り決めを米ソでしていたのだが、冷戦の発動により、その約束が果たされなかったのが朝鮮の民衆にとって最大の不幸であった。35年間の日本の植民地支配を受けた朝鮮内の政治状況は不透明であった。3・1独立運動は日本の官憲により厳しく弾圧されたが、独立へのマグマは途絶えることがなかった。皇民化政策も徹底し、国内では大きな運動は押さえつけられてしまったが、白頭山で抗日ゲリラを続けてきた金日成は朝鮮民衆にとっては希望の星であった。スターリンによる、朝鮮族の中央アジアへの強制移動もあって、“水と魚”の関係にある、民衆と武装勢力が分断され、組織だった抗日運動は壊滅していた。抗日ではあったが、アメリカでロビー活動をしていた、李承晩はアメリカに引き立てられ、「北進統一」を目指す大韓民国大統領に就任する。 一方、北では、ソビエト軍大尉の肩書きを持つ“金日成”、抗日ゲリラの金日成とは別人ではとの疑念もあったが、彼を中心に、朝鮮民主主義共和国を宣言、便宜上の38度線が国境となってしまった。
第二次大戦後の、世界的な大事件といえば、’49年の中華人民共和国の成立であろう。東ヨーロッパ、アジアで、“東風が西風を圧する”状況になってきた。新興独立国にとっては、当時は社会主義が光を放っており、より無駄のない社会主義経済の方が国民生活の向上に効果的であるとの判断があったからだ。朝鮮半島の南北では、“南の解放”と“北進統一”との激しい鬩ぎ合いがあり、朝鮮戦争へと、朝鮮民族にとっての大悲劇をもたらすこととなった。何しろ原爆を除いて、大戦中に世界中で使用された爆弾を上回る量の爆弾が、狭い半島に投下されたといわれているのだから、、。南北どちらが先に攻撃したかは謎であったが、ソビエト解体後の外交文書によると、スターリンには、“抗日英雄の金日成”が南の民衆に大歓迎を受けるとの判断があったようだ。一方社会主義の広まりを防ぐ役割を果たす使命感を持つアメリカは、国連で北を侵略者と断定し、国連軍(主力は米軍)を派遣し南の体制の維持を図った。建国間もない中国は、義勇兵を派兵、“抗米援朝”のスローガンで北を支援、膠着状態から、休戦の機運も生まれ、3年にも及ぶ不毛の対立は収拾した。しかし、協定上は、南北は戦闘状況を終結していないし、国連軍と北の戦闘も終結していない。皮肉なことに休戦ラインの幅2kmが野鳥の楽園とか、人間の愚かさをあざ笑うような自然の回復力である。
朝鮮の南北分断に、道義的に深い責任を負うべき日本は、最低でも統一への動きを阻害すべきではない。ところが戦後一貫として、アメリカ追従をとり続けた歴代保守政権は、分断を固定化する政策を採り続けたといっても過言ではない。休戦成立後の半島の状況は、北の方がどちらかというと、中ソの支援もあって順調に国力を回復しつつあった。国民の意志を一点に集中すると、対外的には大きな力となる。明治維新後の難局に当たって、明治の元勲とをいわれる政治家は、天皇を最大限に活用した。即位時の15才の幼帝は、’89年には、大日本帝国の統治者となり、死後は神となり、明治神宮に祭られた。公教育で国体の徹底を図り、敗戦後の皇居前広場での、土下座して天皇に許しを請う公民、疑念を持つ人は、治安維持法違反で獄中にあった。そんな戦前のこの国と、今の北朝鮮の現状とだぶって見えるのは私だけなのだろうか。“抗日英雄の金日成”で北朝鮮の民衆の力を一点に集めることに成功したのが、朝鮮労働党と軍部であり、これまた教育によって徹底したのである。国家主義教育の為せる技である。メディアは、隠し撮りや脱北者の証言を利用して、現北朝鮮の政治の状況を批判するのなら、戦前の日本のあり方にも同じ目線であたるべきである。
休戦成立後も、東西の代理戦争は続行され、互いの体制の優位を競い合う状況は続いた。李政権下の韓国は、彼の反共主義、反日政策で、統一を主張するだけで容共と見なされていた。休戦後は前にも述べたように、北の国造りが順調で、『地上の楽園』とまで喧伝されていた。在日(強制移住や流民として)を余儀なくされた人たちの中でも、朝鮮総連、民団に分裂対立に合うことになる。日本国内で厳しい差別を受けていた人の中には、北の国造りに協力するために、国交のない北朝鮮へ、赤十字の仲介で日本を離れた人も多くいた(帰還事業)。革新政党の中にも北の国造りを賞賛し、帰国を勧めたりしたが、政治的にラジカルな在日を体よく追っ払ってしまおうとする保守政権のねらいもあった。
流れが変わったのは、李政権の独裁に対する学生たちの反乱、李大統領の亡命、民主的選挙で一気に統一への動きが出た韓国であるが、ク・デターで政権を獲得した、日本の士官学校へも在籍した、朴氏からである。アメリカの後押しもあり、それまでの反日を改め、日本の経済支援で国を豊かにする政策を採用した。’65年に日韓基本条約で国交を開き、植民地時代の保障を、有償無償の経済援助、技術援助で肩代わりさせ、『漢江の奇跡』と言われる経済成長に成功した。キーセン観光の屈辱に耐えながら、、、。最大の後ろ盾だった中国での文化大革命、支援を得られなくなった北は、先軍政策を維持するために、権力の世襲を決めるが、経済的には行き詰まりを見せることになる。そんな焦りの中から、南への工作活動、その延長沿いに、敵国(南を唯一の合法政権と見なし、経済支援を続ける)日本に対する拉致事件も起きたのだろう。
小泉訪朝により、日朝国交樹立が期待されていたのであるが、正式文書を取り交わす前の決めごとを、一方的に破ったのが日本である。拉致を一部勢力の勇み足として認め、謝罪したようであるが、約束違反(一時帰国者を戻さない)を建てに頑なな態度を取る北に対して、経済制裁を開始、それまで民間で細々と続けられていた交流まで断ち、万景号の寄港まで禁じてしまった。海産物の輸入は、漁民の収入を保障したろうし、日本では不要になった中古自転車を満載して北に戻る船は民間交流としてほほえましかったのであるが、日本が発動した経済制裁で苦しむのは一般民衆であって、問題ある政権に対しては、反日キャンペーンでさらなる体制の引き締めの口実を提供することになっている。
国交樹立が最初である。そして、植民地時代の保障は、政府間ではなく、民間の支援活動に任せるべきである。小泉訪朝では、一兆円を示唆したらしいが、実際の被害を受けた一般民衆に渡らないといけない。賠償に関わる汚職、日韓汚職も摘発はされなかったが,ODAによる支援についても常に利権が絡んでいる。日朝間ではそんなことはあってはならない。国民の負担する税金は、全て一般民衆の生活支援に使われるべきである。