自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

夏の終わりに、、、

2018年08月31日 08時36分04秒 | コラム

 猛暑が続いた今年の夏、地球温暖化については以前から科学者が警鐘し続けていたのだが、それぞれの思惑もあって、まともな国際的合意も為されていない現状である。”のど元過ぎれば、、、”との格言があるが、都合の悪いことはなかったことにして、惰性の生活を人類はその滅亡まで続けるのであろうか、、、、。

 今年の猛暑はいろんなことを考える良い機会となった。エアコンを電気代節約のため使用しないで、熱中症で亡くなった方が少なからずいた件では心を痛めたが、家を建てた時、取り付けたエアコンは、ほとんど使用しないで過ごしてきたのだが、今年の夏は必要を感じ付けたのだが、長年使用しないとガスが変化して使用不能となるとか、二、三ヶ月に一度は1時間は運転しなくてはいけないと専門家から伺った。今年の夏はエアコンを新しく購入し、何度かは使用した夏であった。幸い20年ほど前に、離れを作った際にその屋根に太陽光発電を取り付けたので、電気代を心配することはなかったが、、、。私が太陽光発電に心が引かれたのは、あるテレビの願組で、らくだに発電のためのパネルを取り付けその電力で小型冷蔵庫、そこにワクチンを納めて子ども達に届けている様子を見た時である。是こそ科学。技術の人類への貢献と思えたし、その手助けをささやかながら担うと思ったからだ。

 2500年も前に、孔子は”君子は義にさとり、小人は利にさとる、”と述べているのだが、その警鐘が現在でも通じるのは、人間とは代わり映えのしない生き物なのだろう。2年後の東京オリンピック、それを何の疑問もなく取り決めた、JOCの中心人物、今年の猛暑で再考しようとは考えていないのだろうか、、、。先の東京オリンピックの開会式を10月10日と決め、その後永くこの日を記念して体育の日としたのは、正しい判断であった、古代ギリシャ人の叡智を、帝国主義全盛の時期に活かそうとして近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵はまさに義の人であった。本来開催地をギリシャに固定しても良かったのだろうが、世界各地で開催することによって、オリンピック精神をグローバリズム化することを願ったのだろうが、、、。オリンピック特需で利を得るものが生じるようになり、誘致合戦とかでは醜い金銭の動きもあったのだろう。

 2020年の東京オリンピック開催の条件は、10月に延期するか、莫大な借金をしても、この国の技術力を活かしてすべての競技場を全天候型の競技場にすることだ。マラソン、その他、競技場内で出来ない種目は、早朝、深夜にするしかない。一番好いのは、今経済危機で苦しむギリシャに替わって貰い、かかる費用すべてを日本で負担することだろう。その財源は、この国が世界平和に寄与するために、その反対の歩み、軍事基地建設、オスプレイ、イージス艦、イージスアショアに掛ける費用でまかなうことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


田園風景の移り変わり、、、

2018年08月23日 14時19分11秒 | コラム

 まもなく刈り取りが始まろうとしている田園、時折田畝の中に入って草取りをしている人、櫨の草刈りをやっている人を見かける時もあるが、たんぼ道を散歩していて人と出会うことが少なくなってきている。そんな時草刈り機で除草作業をしている人を見かけると何故かほっとする感じがする。かっての田園風景と言えば、各農家の勤勉性を競うごとく、田畝には雑草もなく、土手の草刈りもこまめに行われ、均一の美しさが保たれていた。子どもの頃から、親の厳しい労働を目の当たりにして育ち、小さいことから家の手伝いをして、働くことを厭わない優れた労動力も持ち主だった若者は、高度経済成長の担い手として、工業地帯に奪い取られてしまった。農作業の省力化として、耕耘機、が工場から提供されるとその支払いのため、父ちゃんの出稼ぎが始まった。それ故に”3ちゃん農業”、(じいちゃんばあちゃん母ちゃん)等と揶揄され、まもなく年を取ったじいちゃんばあちゃんは引退、母ちゃんだけとなって手が回らないので、田んぼでは手が回らず、下には雑草、稲が中間。上には伸びた稗、の状態で”三段農業”と揶揄され時代となった。

 耕作放棄地も散見するようになり、山間部の田畝は、ほとんど原野と化している、あっという間に灌木が生え、長年掛けての豊かな土壌、温暖湿潤のこの国の自然は農業(人の食を維持する産業)に向いているのだとつくづく感じる。今の田園の様は3通りに分かれている。百姓魂の持ち主なのだろう田畝には“頭を垂れた稲穂”、きれいに狩りとたれた櫨;除草剤を大量に使ったのだろう赤茶けた姿を見せている所、背丈ほどの雑草が伸び放題に繁茂しているところ、、、。

 この国の農業は、雑草との戦いと協調からなってきた。今ではあまり見なれなくなったが、農家のお祖母ちゃんで、90度に体を折って歩いてるだけでなく仕事をこなしていた人が多く見られた。つまり田畑での厳しい除草作業に長年従事していたが為の変形である。しかもすべて手作業で、田畝での除草作業では摘み取った雑草を、稲の根の下に押し込んで稲の生長に役立たせようとしたし、土手の草刈りでは、それぞれの家には、耕耘機やトラックターの無かった時代の大切な助っ人、牛馬、の餌として無駄なく活用された。

 自然が生み出した生産物は、すべて自然に帰るし、循環経済こそ永続性があるものだ。人が己の生活を高めようとして、古くは農業畜産に力を入れたのだが、やがて商業にさらに鉱工業にシフトしていく中で、この奇跡の惑星地球を痛め続けている。川が創る平地、三角州、河岸段丘、扇状地は、豊かな実りをもたらしたし。人の生活水準も高めてくれた。やがてより多くの生産のために、工場で生産された肥料が使用されるようになると、農産物の生産高が上がると同時に、副作用としての問題も生じてくる。この国の代表的な肥料会社の、新日本窒素水俣での問題は、水俣病の副作用でどれほどの不幸を生じたことか、、、。さらにこの国にとっての最大の課題であった、”雑草との戦い”を解決する安易は方法として、除草剤が使用され続けている。民族の独立のために、宗主国のフランスとの戦い、さらに干渉してきたアメリカとの厳しい独立のための戦い(ベトナム戦争)。ジャングルを味方にゲリラ戦を続けるベトナムを屈服させるべく、アメリカが取った作戦がジャングルの抹消であった。添えの協力して巨大企業に成長したのが、モンサントである、

 除草剤へと生産をシフトしたのだが、いち早く受け容れたのが残念ながら、アメリカの意向に何一つ逆らえないこの国である。3通りに分かれているこの国の田園風景が、除草剤使用や、放棄地にならないよう願っている。


記念日と祈念日

2018年08月16日 09時52分54秒 | コラム

 昨日の8月15日、戦没者追悼の式典が挙行されたが、天皇、はご臨席、そしてお言葉、主催者の代表総理大臣は差し障りのない挨拶でごまかし、加害責任には触れないと批判するメディアもあったが、大手メディアのほぼ全部が、”終戦記念日”として8月15日を捉えている。

 言葉を厳密にそして正確に使うならば、8月15日は大日本帝国にとっての敗戦記念日、昨日は、73回目の敗戦記念日である。そして、1946年11月3日、日本国憲法公布、翌年の5月3日の施行こそ終戦祈念日で、二度と戦争をしないために、新しい日本国憲法第二章第9条で、戦争の放棄、陸空海軍の不保持、その他の戦力の不保持、交戦権の否認という絶対的平和主義の立場に立つことを誓った日である。

 大日本帝国憲法下で好い思いをしていた人にとって、敗戦は受け入りがたいのは理解できる。一億総懺悔が、ごく少ない牢獄内に囚われていた人(治安維持法違反)を除いては、受けいられてしまった。それだけ、この国の民衆がマインドコントロールされていた証なのだが、十分な民主化が実現されたなら、占領軍は撤退することになっていたのに、名を変えたアメリカ軍が、この国に駐在しているのは、まだ十分に民主化されてない証なのかもしれない。

 南米のコスタリカ(豊かな海岸)に先取りされた、軍隊のない世界に向けて、その絶対的根拠である、日本国憲法の前文と第9条を失わないことが、人類に対する日本国民の責めと言えるだろう、、、。


それぞれの8月15日

2018年08月15日 09時25分40秒 | コラム

 73年前の8月15日、私は。小学校(当時は国民学校)1年生、仙台郊外の疎開地で迎えたのだが、その年の7月10日に、仙台空襲、残された子ども達の命を最優先に母は疎開を決断したようだ。父は陸軍司政官として昭和17年シンガポールに赴任、当時南進政策を採用した日本軍が東南アジアに戦争継続の資源を求め軍隊を派遣、英、仏、オランダ、アメリカの植民地だった地域を占領、当時逓信省(元郵政省)の役人だった父は軍事郵便事業に携わり、今で言ったら過労死とでも言うのだろう、当地で戦病死、12歳を頭に6人の子どもを託された母は人には言えぬ厳しい戦後があったと思う。世間の同情に母は”ちっとも苦労とは思わなかった”が口癖だったが、私自身、今でも母に感謝していることは自分の生育の中で、瞬時も世を恨んだり、父がいてくれたらと思うことがなかったことである。その母も20年前、90歳で亡くなったのだが、遺品を整理している中で母の詠んだ、”残されし、六たりの子らは 育ち行く 御霊に告げむ 靖国の森”との歌が出てきた。戦後民主主義教育の一期生として育った私としては、最後の一句を、”その日来たれば”と訂正させてもらった。

 サイパン陥落後、東条内閣は崩壊、戦闘能力が壊滅しているのは、この国の為政者は理解していたのに、かけ声だけは勇ましく、”一億火の玉、本土決戦、神風の襲来”で8月15日まで多くの悲劇を国民のみならず、周辺国にも与え続けた。サイパンからは連日b29が来襲、日本の主要都市は無差別爆撃を受け続けた。10万余が犠牲となったと言われる、東京大空襲はよく知られているが、その無差別殺戮を指揮した、ル、メイ将軍に旭日大勲章を授与した事実はほとんど知られていないのがこの国の現実である。中立条約を結んでいた当時のソビエトに仲介の労を執ってもらおうとしたが、対ドイツ戦で協調したアメリカとの密約(ヤルタ会談)で応じてもらえず、提示された降伏条件(ポツダム宣言)が日本国政府に出されたのが、7月26日、直ちに受託していれば、朝鮮の分断はなかったし、ヒロシマ、ソビエトの対日参戦、それに基づく北方領土問題もないし、ナガサキも残留孤児問題も生じることはなかった。