幼稚園より上の教育機関を学校というのだが,同じ年代の人間が切磋琢磨し,それぞれの個性を見つけ出し育てていく機関である。園児、学童、生徒、学生が互いに学び合う場であり,それぞれの場での先生と言われる存在は,あくまでも脇役であって主役は彼らである。なぜ学び合うのことが必要なのは、“力が正義”の世を“正義が力”である世にするための人類的使命を果たすのは教育以外にないと言うことであるからだ。今までも様々な力を用いた世直し、革命がが起きたが,未だに”正義が力t”となっているとは言えない。互いに学び合う場でこそ,互いに違いも分かるしその違いを理解し合っての平等意識が生まれる。
か* 感動のない学校生活は,不毛である。行事にとって生徒は活きるものだし,学校行事は感動の場であるべきだ。卒園式、卒業式はフィナーレであり,新たなステップに当たる入園式、入学式は感動のスタートとなるべきだ。主人公を取り違えて,主催者側の思惑を満足させるべきものではない。行事はややもすると前年踏襲が無難であるが,主人公が主役でない行事には感動などあるはずはない。
き* 共同、共感こそ互いの人格を高め合う機会となる。
く* 苦心、苦労 仲間のために汗を流し,労をいとわないことが,互いの信頼関係を醸成することとなる。
け* 継続こそ力、習慣は第二に天性、やんちゃな生徒の校則破りが、あれる生徒、あれる学校の出発点になるのだが、本来校則とは基本的生活習慣を身につけるだけでよいはずだ。そのための様々な決まりがあるのは当然だが、たとえば、中学校では学年プラス1時間の家庭学習が必要だという決まりがあるとき,それを素直に受け止めて,何とか学年プラス1時間を確保しようと努力しているうちに、いやだった”勉強”がいやでもなくなる”学習”となり、さらに続けているうちに,学ぶ楽しさが出てきて”学問”となってくるものだ。
こ* 好奇心、向上心を持ち合わせた人同士でないと,互いの切磋琢磨は不可能である。
板東の大学と言われた,足利学校では,木の枝に自分の知りたいこと学びたいことを書き留め、それについて学んだ人と話し合って知識を広めあったと言われている。こんな姿勢こそ,学校の原点である。中国の文革時代、同じ働く仲間から,この人間だったら,大学に進んで学問しても,その学んだ成果を自分のものにするだけでなく多くの人に役立つ学びをしてくれるとの推挙がないと,大学に進学できなかったとのことだが、この国で”東大解体”を叫んで安田講堂攻防戦で敗北した学生の提訴した問題の解決に繋がる一大実験だったのだと思う。