自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

22年前の雑感

2022年02月13日 11時41分27秒 | ニュ-ス

 顧みると、私の学校教育とのかかわりは、1945年4月、当時の国民学校へ入学、最初の鮮烈な思い出が、前夜から楽しみにしていた遠足の日、皇帝に集合、学校長から”空襲がないといいのですが、、、”との挨拶の直後、サイレンが鳴り響き、直ちに中止となった出来事です。当時の私はいっぱしの小国民、軍艦マーチのの後の大本営発表のラジオの聞き耳を立て、大戦果に小躍りし、台所の母(すでにいわゆる戦争未亡人になっていた)に報告したりしていたものです。その時、母がどんな気持ちでわが子の報告を聞いたのかは今は確かめるすべはないのだが、、、。

 間もなく”思いがけない敗戦”、当時の大人たちは生きるのが精いっぱい、精神的には心身虚脱状況だったのでしょう。そんな大人たちを眺めながら、”あんな人間がいるから戦争に負けたんだ、、、”なんて悔しがったり、物こころ付かない児童までを少国民に仕立てる”教育”の怖さを感じます。物心がついてないことも幸いして、”古い上着のサヨナラ”はすぐにできたようで、戦後の民主主義教育の洗礼を受けた六・三制の一期生として、素直にその教えを身につけられたと思います。

 当時の先生方色いる試行錯誤をしながらも。”教え子を再び戦場に送るな”のスローガンン共鳴し一人一人大切にしようとする民主主義教育を模索しておられた様に思われます。自己決定権を行使する機会の多さが、その社会の自由の尺度になると思うのだが、自分の中学時代を考えてみても、今の中学生とは比較できない”自由”があったように思う。

  中1の時バレー部に入部したのだが、同学年のM君と退陣パスを連続199回まで出来るようにしようと決めて練習をやり、5月の連休中の練習日にその目標に到達。そのまま”ヤッター”のかけ声で近くの海に泳ぎに行った。今になって考えてみても、その泳ぎに行ったことははっきり記憶しているのに、顧問の先生や先輩は何をしていたのか記憶にない。もう一例をあげると、夏の大会で、選手になっていないものは、自校の応援に出かける。学校での引率もない。弁当を用意し、29円を家の人から貰い、6キロ離れた隣町まで汽車(片道料金、10円)で応援に出向く。声をからして応援、それぞれ思い思いに帰宅するのだが、その際に一大決心を迫られる時がある。汽車で帰るかアイスキャンデイー2本にして、6キロ歩くか、一本5円のキャンデイ、二本の魅力に負けて、夕方暗くなってくたくたになって帰宅したのだが、あの時のキャンデイの味は今でも覚えているし、暗闇の中を、歩けど歩けどなかなか見えてこない家路、そこ心細さも一緒に甦ってくる。当時を管理不十分、野放しとみるか、自由闊達の時とみるか意見が分かれるところだろうが。自己決定権を行使する多くに機会があったということは間違いのない事実であり、そんな時代を送れたことをうれしく思う。

 縁あって己の仕事を教育に求め、私が中学校の教師になった頃は、古い上着が力を持ち始め、戦後民主主義に記念塔たる日本国憲法と教育基本法は形はあれど、その心は失われつつある状況でした。その二つの法を守ると宣誓して教師となり、その心取り戻そうとささやかな努力は続けました。つまり、己の良心に基づき憲法と教育基本法にのみ拘束された教育活動に徹してきたつもりだし、教師になりたてのころの気持ちは持ち続けてきたとの自負心は持っている、

 アジアの民衆に敗れた戦争だったのか、アメリカの物療に敗れての戦争だったのかの総括も不十分なまま、都合の悪いことは忘れてしまうという性質をいかんなく発揮して、ひたすら豊かになることを追い求めた戦後50数年間だったのかもしれない。其の付けがあらゆる面で奔出し、この国の将来を担うべき若者に期待が持てなくなったのか、教育改革が大きく叫ばれ責任取りようもない教育基本法にその責任を負わせようとしている。

 人を創るのが教育、物を造るのが経済、人の成長と経済の成長の数式は同じではないはずだし、その混同をしかと排除しなくてはならない。”少しの努力で大きな成果”を目指すのが経済、”無限の努力で小さな成果”を期するのが教育であるという原理を確認し、経済の論理が教育に持ち込まれないようにするのが大切である。

  教育の仕事の魅力は何と言っても限りがないということである。これで良しとする限界がないからやりがいもあるし謙虚にもなれる。それ故にこの教育の仕事に携わるにあたっては、強制や管理は無意味であり、むしろ弊害が多すぎる。任意性、主体性が、この限りない仕事に挑戦するための実用絶対の条件である。私自身、4週間の教育実習があつて、”仕事が楽しみなら、、、、”と言える仕事を発見できたのだが、それまで気ままな学生生活を続けていた自分その4週間は、前の晩、教材研究や教具作りで午前2時、3時近くなっても、朝方はパッチリ目覚め、授業だけでなく、昼休みのレク、放課後の部活、下校路での語らい、生徒とのかかわりの中で、至福の時間を過ごすことが出来た。その至福の時間の延長上に私の30数年のわたる教師生活があったというと、ちょっと、きれいごと過ぎるが、その中で得た確信は、私自身の教育の過ちは、かかわる生徒がほどなく是正してくれる。組織、集団、まして国家による教育の過ちは、50年、100年にわたっての禍根を残すことになるものだ。


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