自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

真の豊かさとは、、、

2019年11月27日 10時50分18秒 | コラム

 山間を流れる小さな川に沿って、東西約3キロの小さな集落がある。そのほぼ中間に廃校となった元小学校跡地がある。時々その地まで散歩に出かけるのだが、4月には満開の桜が見物できるが、人影はない。その跡地の前に元商店らしい建物があり、今は自販機が設置されているだけだが、たぶん子供たちの学用品を販売していたのであろう。元店主らしい人と話す機会があったが、自分たちが通ってて頃は全校生で170人は在籍していたそうだ。今その集落の小学生は、3,4人とか、、、。日曜日に散歩で出向いても子供に出会うことがないのが納得できた。少子高齢化が進み、増えるのは廃屋のみとか、、、。

 真の豊かさとはないかを問い直さなくてはならない。170人の子供を小学校へ通わせていた頃と現在の3、4人とではどちらが豊かと言えるのだろうか、、、。確かに物質的には貧しかったかもしれない、それ故に物の豊かさを目指して、高度経済成長政策にもろ手を挙げて賛同し、優れた労働力(子供のころから親の厳しい労働を見て育ち、手伝うことに疑問も持たぬ、あたりまえのこととして働く)の持ち主だった農山村の若年労働力は工業地帯の支えとなったし、今は近郊にマイホームを持ち、定年退職の年になっているのだと思う。その年代の人と散歩の途中で話す機会があったが、自分の息子が安定した生活ができてないと嘆いていたが、その原因を適切に、小泉政権の”働き方改革”と指摘しておられたが、”働き方改革”というと働くものにとってプラスになる改革だと思ってしまうが、それ故に高い支持率を維持していたし、あっさり身を引いたのは真実が現れない前の変わり身の早さと言えるだろう。

 社会の木鐸たるマスメディアは、正確に言葉を使わないければいけない。”働き方改革”の真実は、資本の論理による、”働かせ方改革”に他ならない。”弱肉強食”というと誰でも理解できるし、文明国ではそんなことが起きてはいけないと思うのだが、”新自由主義”というと素晴らしいことと多くの人が期待してしまうし、夢から覚めたときは、人類滅亡となるかもしれない。