自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

過ちを繰り返さないのは誰、、、

2010年08月06日 21時29分03秒 | コラム
 65年前に広島上空で爆発した原子爆弾は、数知れない不幸を、ただこの地に生きていたという人々に与えたし、65年後の今も与え続けている。今年の平和式典には、国連事務総長が始めて出席し核廃絶への意欲を示すメッセージを発したし、在日アメリカ大使がこれまた初の出席となった。オバマ大統領が核廃絶への意欲を示し、ノーベル平和賞まで受賞したが、具体的な行動が伴わない意思表示では、核廃絶を願う人類にとって、幻想に過ぎないと思う。

 私ごとになるが、もしかしたら65年前の8月6日は、私たち家族の命日になってたかもしれない。その3年前、東南アジアに侵略した日本軍は、たちまち、イギリス、フランス、オランダの支配していた地域を占領した。旧逓信省の役人だった父は、占領地と本土との軍事郵便開設の先発隊として、陸軍に召集され、陸軍司政官としてシンガポールに赴任した。外地赴任は2年とのことだったので、その任期を終えて帰国すれば、留守家族は仙台に住んでいたし、次の赴任地は広島勤務が決まっていたそうだ。帰国予定が、1944年3月、しかし、その一年前に、遺骨だけが戻ってきた。遺族となった母と6人の子供たちは、仙台で敗戦を迎えた。

 父が元気で帰国していたら、灰となったかも知れない私にも、ヒロシマは他人事ではない。原爆を開発した科学者は、人類に使用すべきではない、50年間は草木一本生えないであろうし、警告で止めるべきだと主張したのだが、国益(アメリカの若者の犠牲を少なくする)を重視するアメリカ大統領トルーマンのGOサインで、ヒロシマのみならずナガサキで悪魔の兵器が炸裂した。

 ポツダム宣言受託の勧告は7月26日に当時の日本国政府に提示された。米ソの密談で、ドイツ降伏の3ヶ月後(8月8日)のソビエトの対日参戦が準備されていた。何故、7月中に、遅くとも8月6日前に無条件降伏を決断しなかったのか。心ならずも犠牲となった20万以上の声を上げることの出来ない人々の声を聞く耳を持つ人の数を増やしていく記念日にしなくてはならない。人の善意は期待したいが、1928年の不戦条約が厳守されれば、20世紀前半で戦争のない地球が実現したはずだし、体制の違いを超えて、反ファシズム戦争に勝利した米ソの兵士達の握手“エルベの誓い”が両国の多数となれば、不毛の“東西冷戦”など発動することはなかったはずだ、

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