アメリカン・ポップスの断片的な話題。
弘田三枝子さん関連です。
前回のブログには、ミコちゃんと、三人娘が出演した、1963年の紅白歌合戦のユーチュブ画像を紹介しました。
4人の中で、デビューはずっと早いのですが、最も年少なのが、弘田三枝子さん(それだけでも「和製ブレンダ・リー」です)。
現在の日本での知名度は、(「和製コニー・フランシス」の)中尾ミエさんかな? ジョニー・ティロットソンが最も感謝しなくてはならないのは、「キューティ・パイ」をカバー・ヒットしてくれた伊東ゆかりさん。で、僕のタイプは、園まりさん(4人の中で一番年上)。
実は、彼女がどんな曲を唄ってるのかについては、ほとんど知らないのです。知っているのは「夢は夜ひらく」のオリジナル・ヒット歌手であること(藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」盤以前に、園まりさん盤もかなりのヒットを記録しました)と、この紅白画像でも唄っている「女王蜂」ぐらいです。
他にどんな曲を歌っているのか、改めてチェックしてみました。なかなかいいですね。
英語歌唱の「テネシー・ワルツ」(たどたどしい、でも一生懸命な発音が、とても好感が持てる)
「グッバイ・ジョー」なんてのも見つけました。フランスの女性歌手アルマ・コーガンでヒットしましたね。で、ユーチュブでその「グッバイ・ジョー」をチェックし、ジャケットを何気なく見つめていたら、B面に「約束してねPromise Me」という曲名が、、、。
まさかとは思うけれど、もしかしたら、あのカール・ダブキンJr.の1962年のノン・ヒット曲で、知る人ぞ知る(知ってる人は日本では多分数人しかいないでしょうが)、あの「プロミス・ミー」ではないでしょうか? まあ、可能性は限りなく低いだろうけれど(オリジナルだって日本ではリリースされたことはないだろうし)、一応、チェックしました。なんと、日本のユーチュブに紹介されていました。
なんと、あのカール・ダブキンJr.の、正真正銘の「プロミス・ミー」の日本語カバー。
「約束してねPromise Me」 園まり 1963
「Promise Me」 Carl Dovkins Jr. 1962
カール・ダブキンJr.について。
1941年生まれ。今年の4月に、79歳で亡くなっています。
“ポップス黄金期=Golden-pops of America”の、いわゆる「一発屋」に近い歌手の一人。
59年の大ヒット(Billbordホット100の3位)「My Heart Is an Open Book」
で世に知られています。
ホット100ヒットは他に3曲あるので、厳密に言えば一発屋ではありません。「真の一発屋」(定義:ホット100の40位以内ランク曲をもつが、そのに100位以内の曲が一曲もない)は稀有な存在です。大方は「(約)三発屋」で、あの坂本九も「スキヤキ」のあと、「支那の夜」が54位にランクされています(日本のアーティストで真の一発屋は「ピンク・レディ」37位の一曲だけ)。
僕の大好きな、クリス・ジャンセン(1942~)も「真の一発屋」の一人。ジョンD・ラウダーミルク作の「Torture」20位(1962年)だけの、知る人ぞ知る「一発屋界の大スター」です。
ついでにクリス・ジャンセンの話をちょっと。
「Torture」のヒットの後も、数年間に亘り秀作を発表し続けたのだけれど、一曲も100位以内にチャートインできませんでした(後に100位以下の曲が1曲あり)。
ルックス、スタイル、声もまあまあだし、楽曲提供者も、ラウダーミルクのほか、ブライアント夫妻とか、ロイ・オービソンとか豪華。リッキー・ネルソンとエヴァリー・ブラザースとロイ・オービソンとジョニー・ティロットソンとブライアン・ハイランドを足して割ったような、ティーン・ポップスの申し子のような歌手ですが、逆に言えば、平均過ぎて、個性に欠けていたのかも知れません。
ということで、クリス・ジャンセンの僕の一押しノンヒット曲です。「カンバック・トゥ・ミー」
ロイ・オービソンとジョー・メルソンの作。後に日本でオービソン自身のシングルがリリースされ、そこそこのヒットをなしています。
ちなみに同じ63年、オービソン作の日本でのみの大ヒット曲は、ザ・ベルベッツ(高校の先生と生徒たちで結成した黒人ボーカルグループ)の「愛しのラナ」が有名。黒人音楽といえば、すぐにソウルとかブルースと結びつけるのが通常だけれど、それらとは無縁の、ひたすら能天気な“アメリカン・ポップス”です。
あと、邦題ですね。同時期の日本でのみのアメリカン・ティーン・ポップス・ヒット、ジョニー・シンバル
の「僕のマシュマロちゃん」もそうですが、原題の「ラナ」や「マシュマロ」のままだったら、日本でもヒットしてなかった、と思います。
「愛しのラナ」ザ・ベルベッツ
「僕のマシュマロちゃん」ジョニー・シンバル
同じ“僕のマシュマロちゃん”です。1964年1月25日付け(アメリカでビートルズが初登場した翌週)の日本の「9500万人のヒット・パレード」トップ10が紹介されています。ジョニー・ティロットソン「プリンセス・プリンセス」が3位、ベルベッツの「愛しのラナ」2位、ジョニー・シンバルは2曲チャート・イン。もちろんビートルズはまだ影も姿もありません。
話が逸れたので、カール・ダブキンJr.に戻ります。
「My Heart Is an Open Book」のあとも、「Lucky Devil」がヒット(25位)し、更にもう2曲、59年から60年にかけて60位台のチャート・ヒットがあります。その後も15枚ほどリリースを続けますが、一つもチャート・インはしていません。「プロミス・ミー」もそのうちの一曲で、通算10枚目のシングルです。
この曲が(ごく一部の人たちに)注目されている理由は、「ゴールデン・エイジ・オブ・アメリカン・ポップス」を代表するソングライター、バリー・マン(1939~)の作品だからです。
歌手としては、ダブキンJr.と同様、「Who Put The Bomp」(61年7位)の、ほぼ一発ヒットだけ
(チャート・ヒットは計4曲)。
(↑この曲と「愛しのラナ」や「僕のマシュマロちゃん」を聴き比べると、アメリカと日本でヒットする曲の傾向が全く違うことがわかりますね)
しかし、ソング・ライターとしては、超有名です。日本にも「バリー・マン・フリーク」がいるみたいで、以前ネットに「バリー・マンの共作者リスト」みたいなのが紹介されていました。
もちろん、のちの奥さんのシンシア・ワイルとの共作が大半ですが、それ以外にも、結構いろんな人と共作しています(「フ-・プット・ザ・ボンブ」も、本来はキャロル・キングのパートナーであるジェリー・ゴーフィンとの共作)。
そのリストの中に、カール・ダブキンJr.に提供した「プロミス・ミー」がありました。
>「皆さんよく知ってる人の名前がクレジットされていますね、この頃はいろんなパターンを模索していたのでしょう」といったコメントが付されていました。
ジョニー・ティロットソンとの共作です。いかにも、ティロットソンが作りそうな曲調です(笑)。
ジョニー・ティロットソンは、大抵の場合、「ポップ・カントリー・シンガー兼ソング・ライター」として紹介されています。でも、「ポップ・カントリー歌手」と位置付けるのは、烏滸がましいですね。「カントリー・ポップ」歌手です。
「ソング・ライター」は、もっと烏滸がましい。いろんな記事に「ソング・ライターとしての才能も豊か」として紹介されていますが、誤解です。
大した才能はないと思います。「自分でも(才能ないことを自覚しているので?)たまにしか作らない」みたいなことを言っています。
でも、本国での「涙ながらに」や「ウイズ・アウトユー」、日本での「キューティ・パイ」や「プリンセス・プリンセス」が自作なのですね。主要大ヒット曲が自作なので、いかにも「ソング・ライターとしての才能が豊か」と、勘違いされているのです(僕はファンだからこそ厳しい、笑)。
ケイデンス在籍中の58年~63年には、一人で作詞作曲してました。MGMに移ってからは、奥さんのルシルや、プロデューサーで親友のポール・タンネンとのコンビ(当時の米ポップ曲は、詞・曲がはっきりと分担されずに行われているパターンが多かったようです)。
そのケイデンス時代の62年に、珍しくコンビで作ったのが、この「プロミス・ミー」です(同じ62年の作品には、有名ソング・ライター・コンビ、ドク・ポーマス&モート・シューマンと3人で作った「ジュディ・ ジュディ・ジュディ」があります)。
話を、園まり「プロミス・ミー」に戻します。
先に紹介した、1963年大晦日紅白歌合戦の映像に登場する、弘田三枝子、伊東ゆかり、中尾ミエ(弘田三枝子が「和製ブレンダ・リー」なら、中尾ミエは「和製コニー・フランシス」というところでしょうか)の場合は、当然のことながら「ポップス黄金期」のカバー曲が数多く歌っているわけですが、意外なことに、園まりにも結構多くの「アメリカン・ポップス」カバーがあることが判明したわけです。
でも、それは1963年末までですね。64年(ビートルズ米初チャート1964年1月18日)以降は様相が一変しました。
東京オリンピックの前年の末、ケネディが殺されたのが63年の11月。世の中の、様々な文化が一気に変わった。そのひとつが、63年まで片っ端と言って良いほどごく普通に為されていた、アメリカン・ポップス・ヒット曲の、日本人歌手たちによる、日本語カバーが、64年以降、パタッと無くなったこと。
要因の一つには、ビートルズら、ブリティッシュ・インベーションをきっかけとした、文化に対する大衆の嗜好や価値観の変換、ということもあるでしょうし、本人(アメリカの歌手)たちが日本語で歌いだした、ということもあるでしょう。ほかにも色々と要因は考えられます(ここでは割愛)。
ジョニー・ティロットソンの曲の日本人歌手によるカバーは、63年夏、ギリギリで滑り込んだわけです。
「キューティ・パイ」は、いろんな歌手が取り上げています。内田裕也とか、後年の前川清とか(新妻聖子盤が秀逸です)。
次の63年秋の「ジュディ・ジュディ・ジュディ」も、木の実ナナの秀逸カバーがあります(後年の太地真央盤も秀逸)。
でも、その次の64年初頭の「プリンセス・プリンセス」からは(日本では64年中期のヒット「ポエトリー」も含めて、、、ただ、「ポエトリー」は今回意外なカバーを見つけたので、紹介しておきます)、日本人歌手によるカバーがパタッと消えてしまう(その代わり、本人が日本語で歌いだした、笑)。
「キューティパイ」 ゴールデンハーフ
「ポエトリー」 ザ・ピーナッツ
「ジュディ、ジュディ、ジュディ」 木の実ナナ
機会があれば、改めて詳しくコメントします。
*僕は日本の洋楽に全く興味ないのだけれど、頑張って(笑)、あえて書いてみました。たぶんこっちのほうが読者の方々の興味を引くと思うので、、、。
*アメリカン・ポップス関係の記事は、書き終えたまま「お蔵入り」してしまうパターンがほとんどです。特にチェックなどせずに、エイヤっと、アップしておきます。