「クラスター」について一言
世界で唯一屋久島の山頂岩壁にのみ生え*、他のどの地域にも姉妹種さえ知られていない究極の屋久島固有種・ヤクシマリンドウは、現時点で成されている系統分類上は、中国大陸西南部高地や熱帯アジア島嶼高山に計40種近くが分布する「Monopoidae-section」というリンドウ科リンドウ属の一グループの、そのまた一小群である「Verticillatae-series」に所属しています。「七葉竜胆」「六葉竜胆」「五葉竜胆」「四葉竜胆」などとともにその「series」に記載されている6つの種の一つが、「ヤクシマリンドウ」(中国名は「台湾竜胆」*)とされています。
*台湾最高峰玉山の頂上岩壁にヤクシマリンドウそのものが生えている(よって中国名は「台湾竜胆」)ことになっていますが、標本も存在せず、100年近い間真偽は確かめようともされていません。比較的最近に「台湾のカレンダー」で紹介された生態写真が1枚あって、それを見るにヤクシマリンドウと寸分変わらず、単に(分布することになってるのだからいいだろうということで)他の写真を転用したのか、それとも実際に「全く同じもの」が両地に生えているのか、、、前者の可能性が高いと考えていますが、台湾と屋久島の山の深い繋がりを考えると、後者の可能性も否定しきれません。
「台湾産」に於ける問題はともかく、この(ヤクシマリンドウを七葉竜胆と同じseriesに置く)処置が正しいかどうかについては、ここでは触れません。もとより、今すぐにこの(リンドウ関係の)記事を書こうとしているわけではなく、記事本体は、もう少し内容を煮詰めて、出来れば来週あたりからブログにアップしていこうと思っているのです。なので、今回の記事は、「余禄」です。
中国西南部(雲南北部-四川西部-チベット東部など)の標高4000mを超す高山岩礫地に生えるのが「Gentiana arethusae七葉竜胆(変種以下の処遇については省略、日本名仮称:ナナツバリンドウ)です。
この種(あるいは地域個体群?)は、ヤクシマリンドウはもとより、他の同seriesの各種(地域個体群?)にも見当たらない、著しい特徴を持っています。
それは、(四方に花茎が展開する)株の中央に、ちょっと見では別の植物と思ってしまうような(僕もずっとそう思っていた)、それ以前に余りに小さくて余程注意していなくては目にも留まらない、初期ロゼットのクラスターを生じるのです。
この後の「リンドウ」の話題の本記事では、写真を交えながら、そのロゼット・クラスターの意味について考えていくつもりで、今せっせと書き進めているところなのですが、なんか気になって仕方がないことがある。
「クラスター」という言葉。僕ら、生物の分類や、生態観察などに関わっている人間には、ごく身近な、使用する頻度がごく高い言葉です。でも、一般用語として使われることは余りない(のだと思う)。それが、今回の「コロナ騒動」で、「新型日本語」として突然現れ、一気にメジャー・ブレイクしたわけです。
それはそれで良いのです。新しい「日本語」が増えるのは、悪い事ではない。けれど、そのことによって、本来の(というか、それも含む広い範囲の言葉の持つ)意味が薄れ、忘れ去られていく、という懸念があります。
今、日本で「クラスター」というと、即コロナに結び付けられると思います。ということで、肩身の狭い思いをしつつ、「申し訳ない、コロナとは無関係です(-_-;)」と、言い訳を添えながら使わねばならない状況になっています(「コロナ」という言葉自体もそうである、と言う事を以前記しましたね)。
ずっと以前にも、似たような想いを懐いたことがありました。新日本語としての「アダルト」。むろん、生体とか大人の意味で、僕の場合だったら前者は生物との関りでごく日常的に使っていたし、後者はアメリカン・ポップスの“Adult Contemporary”でおなじみです。それがある時点を境に、突然限定された意味の日本語として固定された(最近はやや元に戻りつつあるような気がしますが)。
戸惑ってしまいますね。
日本語として新しく出現した言葉が、一つの意味だけに特化限定され、それがスタンダードになる、という流れは好きじゃありません。
あと、インターネットの世界に於ける「アプリ」(アプリケーション)の概念。これがさっぱり分からない。実態として僕の頭の中に入ってこない。たぶん永久に分からないと思います(他のインターネット用語共々)。でもまあ、これは(言葉の問題ではなく)僕の頭が悪い、と言う事なのでしょうけれど。
もとより、外国語がカタカナ導入された時点で「全く新しい日本語」であるわけですから、意味が限定されていても仕方がないのかも知れません(それでも本来の意味や広い捉え方を排除しては欲しくない)。
あと、わざわざ「ロゼット・クラスター」と言わなくても、「根生葉集団」と言えば良いのですね。でも「集団」はイメージがちょっと違う、「集まり」の方が微妙に近いような気がする。
いずれにしても、英語の出来ない僕としては、深いところでは判断しようがありません。(同じく全然ダメな)中国語になると、もっと判断しようがないのですけれど、その僕でも違和感を覚えるのがこれ↓です。
10数年前ごろから若者が頻発使用し始めた「オーマイゴット!」(たぶん英語圏の人達より遥かに多く口をついて出ている)。あなたたちに神なんていないでしょ、という突っ込みを入れたくなるのですが、僕の懸念する問題はそこではない。
中国には「アイヤー!」という素晴らしい表現があります。それを喋る人が「オーマイゴット」に置き換わって、いなくなっちゃいましたね。残念です。
以上は外国語起源なので、それほど気には障らないのですが、日本語の場合は、微妙な部分で違和感を感じまくる「新型言語」が、少なからずあります。
先日のブログでも「決して正しい使い方ではない」と指摘した「大丈夫です」。余りの頻発に、イライラしてきます。穿った見方をすれば、「責任逃れ文化」の象徴、と言えなくもないです。それは確かに穿った見方であることには違いないでしょうし、それはそれで「一つの意味」として使われているわけで、否定はしません。
でも、それだけが正しい使い方、みたいに解釈されていく(例えば「世代」の概念が限定使用されているような)流れには、危惧を感じています。
今の(日本)社会は、「新たな」という事例が、「多様性」ではなく「限定性」をもってよしとする、という方向に進んでいるように思えてなりません。