青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(24)

2011-09-07 13:07:28 | アメリカン・ポップスearly60’s


Johnny Tillotson「Out Take」についての(収録58曲を短縮メドレーで聴いた)感想を。CD本体を購入し、曲全体を聴き、ブックレットの解説を読んでからでないと、詳しい話は出来ないでしょうが、いつになるか解りません。そこでとりあえずということで、思いついたことを述べて行きましょう。

インターネット上の解説文に記された“第一の収穫”として、「ポエトリー/Poetry In Motion」の初期テイクに関するコメントが成されています。「ジュディ、ジュディ/Judy、Judy、Judy」「ユー・キャン・ネバー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー/You Can Never Stop Me Loving You」「くべられない素晴らしさ/You’re Much Beyond Compare」「ポエトリー」の4曲については、(1)(2)として、録音日や録音スタジオの異なるバージョンが収録されているのです。

「ポエトリー」に関しては、ブーツ・ランドルフBoots Randolph(サックス)やフロイド・クレーマーFloyd Cramer(ピアノ)が参加してナッシュビルで行われたヒットシングル&アルバム収録バージョンに先駆け、ニューヨークのスタジオで録音された別バージョンが存在します。サックスは、ランドルフではなく、King Curtis、フロイド・クレーマーのピアノ伴奏は入っていません。ジョニーの唄声共々、全体としての溌剌さに欠けます。

一方、ナッシュビル録音テイクも、ヒット盤以外は、ランドルフのサックスが噛み合っていなかったりして、もう一つ物足りないのですが、最終的に発売された「ヒット・シングル盤」は、これまで何度も記したように、ほとんど奇跡とも言える完璧の出来。もし、ニューヨーク録音盤が、そのまま発売されていたなら、ここまでの大ヒットには結びつかなかったことでしょう。

大ヒットに結びつかなかったかも知れない、という事では、初期2大ヒットのもう1つの曲「ウイズアウト・ユー/Without You」についても(これは、DVDで発売された、最近のジョニー自身の“昔の想い出話の一人語り”の中でも触れられていますが)最初は、語り(Recitation)の部分が入っていなかったのです。録音の途中で(たぶん即興で)“メイビー・トゥモロー、、、、”以下の部分を追加したようです(ニール・セダカNeil Sedaka「悲しき慕情/Breaking Up Is Hard To Do」のハミング“ダンドゥヴィ・ドゥダン~”挿入に纏わる逸話と同じ)。こちらも、もし“レシテーション”なしのテイクのまま発売されていれば、大ヒットとは成らなかったと思う。もしかしたら、“2大ヒット曲”が、2つとも生まれていなかった可能性があるのです。

さらに、もう一つの大ヒット曲「涙ながらに/It Keeps Right On A-Hurting」も、ある意味、偶然の産物だったようなのです。

以前に発売されたCDのクレジットを見ると、(まるっきり異なる曲調の)「涙ながらに」と「素敵なガールハント/A Very Good Year For Girls」が、同一日の録音だった可能性があります(ベストセラーアルバムに収録された「涙ながらに」以外のC&Wナンバーは、後日の録音です)。以下は僕の推測ですが、、、、。

この日(1962年の1月某日)は、本来「素敵なガールハント」の録音が目的だったのではないでしょうか? 兵役の合間を縫ってのスタジオ録音の際、病床にある父親の事を思って作ったと言われる歌詞の原曲を、失恋歌に置き換えたC&Wナンバー「涙ながらに」を、“ついでに”披露、アーチ・ブレイアーArchie Bleyerがそれを絶賛した。そして急遽(「ティーン・ポップス」から「本格C&W」へと)路線変更の決定がなされた、という事なのかも知れません。(最初の路線に沿って)そのまま「素敵なガールハント」がリリースされていても、当時の勢いからすれば、それなりのヒットはしたと思います(その結果も知りたかったです)。でも、だとしたら、ただの「ティーン・ポップ・シンガー」のまま終わっていたことでしょう。

そうして、もう一つの偶然。

こと日本においては、ジョニーについて語られるとき、「本国と日本とで、最もヒット曲の組み合わせが違う歌手」というのが定説となっています。このように語られる大きなポイントは、“日本でのヒット曲も多数ある”という事実です。

もし、日本におけるヒット曲が無ければ、「本国と日本とで、最もヒット曲の組み合わせが違う歌手」とされる以前に、「日本では全くヒット曲が出なかった、伝説のポップシンガー」となってしまっていたはずです。

周知の通り、「ポエトリー」や「ウイズアウト・ユー」が本国でヒットしていた61年頃までは、ケイデンスの曲は契約の関係で日本では発売されなかったのです。そのため、“伝説の歌手”となりかけていたところだったのですが、62年になって、「日本キングレコード」が発売権を得ました。本国では、ちょうど最もブレイクしていた最中でもあります。本来なら“目出度し目出度し”と言うところなのでしょうが、間が悪いというか、その後1年間に放たれたリアルタイムでの“大ヒットナンバー” (「涙ながらに」「夢の枕を/Send Me The Pillow You Dream On」「どうにも出来ない/I Can’t Help It」「涙でいっぱい/Out Of My Mind」)が、全て日本では受入られることの難しい、地味なカントリーバラード。

それまでのジョニーのヒット曲は、発売さえすれば日本でもヒット確実、と言われていたのに、発売が叶わなかった。やっと待望の発売権利獲得、となった瞬間に、路線変更です。間が悪いとしか言いようがありません。といって、(路線変更後の曲も)せっかく本国でヒットしているのですから、日本でもリリースしないわけには行きません。そしてその結果は、予測されるごとく“惨敗”です。

地味なC&Wバラードが4曲続いたあと、63年夏にリリースされた5曲目も、似たような曲調の(幾らかはポップス風味が感じられますが、日本では受けいれられそうもない)「ユー・キャン・ネバー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」(だいたい「イット・キープス・ライト・オン・ア・ハーテイング」とか、「センド・ミー・ザ・ピロウ・ザット・ユー・ドリーム・オン」とか、「アイ・キャント・ヘルプ・イット・イフ・アイム・スティル・イン・ラブ・ウィズ・ユー」とか言った、長ったらしいタイトルの曲が、こと日本に於いては「キューティー・パイ/Cutie Pie」「プリンセス・プリンセス/Princess、 Princess」の分りやすいタイトルの曲に適うわけがありません)。

しかし本国では、これも大ヒットします。そのまま発売したいところですが、どうせ日本ではヒットしないことは目に見えています。せっかく次の新譜も本国でヒットしているのだから、もう一曲様子を見てこれもリリースしておこうと、(半ば日本でのヒットは諦めて)そのままだらだらと本国でのヒット曲をリアルタイムでリリースし続けるか、出すと日本でのヒットも確実な、「ポエトリー」以下の旧譜の発売に切り替えるか、2者択一、さぞかし迷ったことでしょうが、ここで後者の選択を決断したのです。

打って出た旧譜は、「ポエトリー」でも「ウイズアウト・ユー」でも「こんなに愛して/Why Do I Love You So」でもなく、日本人好みの曲調の“B面曲”「キューティー・パイ」。この上もない的確な決断だったと思われます。もし、あと一曲様子を見てから、と言う事で、そのまま「ユー・キャン~」を先にリリースしていれば、永久に日本でのブレイクのチャンスは巡って来なかったことでしょう。と言うのは、本国での「ユー・キャン~」リリース直後、「MGM」へ移籍が決定したからです。「移籍」が決まった後となれば、あえて“勝負を賭ける”ことも思いつかなかったでしょう。ただ一度きりの“最後のチャンス”を、ものにしたわけです。

半年後の「ビートルズ旋風」。その後に仕掛けたならば、いくら「日本人好みのケイデンスCadence旧譜」といったところで、リスナー自体の“好み”が変わってしまっていたことでしょうから、時代遅れになってしまっているはずです。移籍先のMGMからも本国ではしばらくの間はヒット曲が続いていたのですが、どれも日本では受けいれられることが難しい曲ばかり(「恋のウルトラC」のヒットも、「涙くんさよなら」の企画も、「キューティ・パイ」ヒット以降の日本でのブレイクがあってこそ成されたもので、“日本ではヒット曲の無い伝説のポップ歌手”のままでいたなら、それらも日の目を見なかったことと思われます)。

ということで、本国でのブレイクも、日本でのブレイクも、紙一重の差で掴んだチャンス、と言う事が出来そうなのです。

でも、こうも考えるのですね。もし、62年に「涙ながらに」の路線変更&ブレイクがなく、その後もずーっとティーンアイドルのままでいたなら、今以上に「ティーンアイドル・ナンバーワン歌手」として評価の対象になっていたかも知れませんし、あるいは、何らかの理由で、初期のヒット曲群のみで(「涙ながらに」以下のC&Wスタイルのヒット曲群無くして)キャリアを終えていたなら、それこそ“伝説の初期ロックシンガー”の一人として、後年、バディ・ホリーBuddy Hollyやエディ・コクランEdward Cochranらと並び称される存在になっていた可能性もあります。

逆に、初期ヒット曲群が無く、いきなり「涙ながらに」からスタートしていたなら、「若手ナンバーワンC&Wシンガー」としての地位を(それまでの“ティーンアイドル”というレッテルに邪魔されることなく)確立し、その後の方向性や評価も大きく異なっていたかも知れません。

そして、「キューテイ・パイ」発売の決断時期を逃し、日本での評価が「伝説のポップ歌手」となっていたなら、、、、。

まあ、それぞれに興味があるので、そうなっていてもそれはそれなりに面白そう、という思いもあるのですが。

断片的感想を続けます。「ユー・キャン~」も、別種テイク(ポップチェーンとしては、こちらのほうが上出来と僕は思うのですが)が収録されています。このテイクは、以前からユーチュブ上にも(「ジュディ、ジュディ」の別種テイクと共に)紹介されてきて、今日に至るまで削除されずにいるのですが、なんらかの理由があるものと思われます。

逆に「プリーズ・ヘルプ・ミー・アイム・フォーリング/Please Help Me I’m Fooling」は、公式?には初CD化。しかし日本発売盤の「涙ながらに」復刻盤などには、以前からボーナストラックとして収録されていて、やはり契約上の何らかの理由があるものと思われます。

「こんなに愛して」も、ユーチュブ上には別種テイクが紹介されていますが、なぜか今回の「アウトテイク集」には含まれていません。どうなっているのでしょうか?

僕個人的に、最も大きな収穫は、「涙でいっぱい」の別テイク2つの収録です。「涙でいっぱい」は、ある意味、謎の曲です。この曲がリリースされた63年春というのは、人気の絶頂に会った頃、それにしては、リリース数が著しく少ない。もちろんこの時期に前後しての兵役があったことも関わっているのでしょうが、63年春と言えば、すでに除隊後のはず。「涙でいっぱい」に関しては、親友ブライアン・ハイランドBrian Hylandのために書き下ろしたという記述もあり(真否のほどは不明、彼が録音している形跡はありません)、また、ジョニー・シンバルJohnny Cymbalのリアルタイムでのカヴァーもあります。

自身での作詞作曲、編曲もシンプルで、伴奏もシンプル(この当時の一連のC&Wバラードで生かされている、アニタ・カー・シンガースThe Anita Kerr SingersやジョーダネアースThe Jordanairesによるハーモニーもなし)、そしてモノラル録音、、、、いわば、予算をかけずに製作した1枚、と言う事が出来ます。

それにしては、かなりのヒットを記録している。ビートルズ襲来直前の、新しい波が押し寄せつつある時代に、こんな単調な曲が、ポップ24位/アダルト11位の位置に付けているのは、大健闘といって良いでしょう(言いかえれば人気の絶頂にあったからこそなのでしょうが)。

一連のヒット曲のうち、この曲だけが、後年に至るまで、どのアルバムにも収録されていなかった、と言うのも謎です。

その別テイクが2つ、納められています。ストリングス付きの「テイク3」と、軽快なベースの音がフィチャーされた「テイク2」。おそらく「テイク1」がヒットシングルバージョンで、こちらはピアノ伴奏付きです。低予算製作ゆえ、どれか一つを、ということで、ピアノ伴奏を選択となったのかも知れません。シンプルなピアノ伴奏は、この曲(ジョニーのヒット曲の中では、僕の最も好きな曲のひとつなのです)の素朴な魅力に、よくマッチしている、と思うのですが、軽快で澄んだベース音が強調された「テイク2」も最高! こちらをヒットシングルバージョンに選んでもよかったのに、という思いもあります。僕にとっては、このバージョンを聴くことが出来たのが、最大の収穫です。

ブレイクの最中のシングル盤(A面)録音が、他の人気ティーンアイドルに比べて際立って少ない(ケイデンス時代の6年間にA面新曲は10曲=58年1曲、59年2曲、60年2曲、61年2曲、62年1曲、63年2曲)のは、兵役、ケイデンスのポリシー、といった理由も考えられますが、もうひとつ関連が考えられるのは、この時期に大学を卒業し、のみならず博士号Bachelor's Degree(Journalism and Communications)を取得していることです。“ティーンアイドル”でいる、そのさ中(1959年?)にですから、これは相当に大変なことだったのではないかと思うのです。



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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第93回)

2011-09-07 12:59:15 | サパ ベトナム 

サパ 04.Aug.2011(下)


1 午後2時、渡渉地点から滝壷へ引き返します。手前の岩上には外国人の親子がいたのでパス。



2 しめしめ、さっきのバーベキュー地点には誰もいません。黒いアゲハの姿も幾つか見えます。雨が降ってきたけれど、たぶんすぐに止むでしょう。



3~9 カラスアゲハ(クジャクアゲハ)とオオベニモンアゲハと、もう一種、オオベニモンアゲハではないジャコウアゲハの仲間がいます。尾状突起がなく、ジャコウアゲハ類に特有の腹部の赤色が、肌色っぽい明るいピンクです。台湾のアケボノアゲハなどと同様、Atropaneura属に分類されていますが、(尾状突起がないというだけで)基本的には(狭義の)ジャコウアゲハ属Byasaとなんら変わりはありません。たしか「ハゲタカアゲハ」という和名が付いていた様な、、、。















10 一応“ハゲタカアゲハ”と呼んでおきましょう(そういえばそんな雰囲気がしないでも有りませんが、ちょっと可愛そう)。翅の黒色と、腹部の肌色に近い淡ピンクは、写真での再現が難しい。



11 対照的に、オオベニモンアゲハの赤と白は、分かりやすい色と言えます。



12 真ん中にカラスアゲハ(クジャクアゲハ)を挟んで、手前にオオベニモンアゲハ、奥にハゲタカアゲハ。ハゲタカアゲハは、腹部が見えなければ、クロアゲハと見紛えてしまいそうです。



13~14 そのクロアゲハとの2ショット。無尾型クロアゲハの後翅後角の淡赤色と、ハゲタカアゲハ腹部のピンクは、微妙に良く似ていると思いませんか? 日本のクロアゲハ(クロアゲハはシロオビアゲハの一群です)が、オナガアゲハ(ナガサキアゲハの一群)とともに、ジャコウアゲハに擬態(正確には擬態ではなく相互並行進化だと僕は考えています)しているように、大陸のクロアゲハは、無尾性ジャコウアゲハ類と相互関連を持っているようです。





15 ここで、フラッシュメモリが満杯に。傘をさして、自参したノートパソコン(この自体への対応のため、どんな山の中でも持ち歩いている)に繋いで、画像を移動します。所要時間20分、その間、様々なメンバーが現れては去っていく。焦る気持ちを抑え、辛抱強く待つしかありません。それよりも焦ったのは、この前後になって、地元の少年少女たちが、次々と岩の上に押しかけ、泳ぎ始めたこと。彼らが近寄るのを静止するのに、必死です。ついには禁じ手のお金での交渉。とっさに10万ドン(日本円40円ほど)札を一人に渡します。その効用はてきめんで、少し離れた場所で泳いでくれたのです。撮影再開後はこのメンバー。



16~17 オオベニモンアゲハ(ジャコウアゲハ族)、アオスジアゲハ、チロンタイマイ、シロスソビキアゲハ(以上アオスジアゲハ族)、それにマダラチョウ科の一種。





18~19 すぐ隣にはアゲハチョウ族の一団。クロアゲハやカラスアゲハ(クジャクアゲハ)にルリモンアゲハが加わります。残念ながらボロボロの翅の個体です。





20~21 ルリモンアゲハもカラスアゲハ(クジャクアゲハ)も、鮮やかな青色の後翅表面の班紋は、静止すると前翅を下に下ろしてしまうためにすぐに見えなくなってしまします。見えるのは、飛翔時か、静止の瞬間の一瞬だけ。かなり辛い写真ですが、一応2ショットとして紹介しました。





22~23 黒いアゲハの集団に、アオスジアゲハ族2種が加わりました。中央にクロアゲハを挟んで、左にチロンタイマイ(日本にもいるミカドアゲハの仲間)、右にアオスジアゲハ。





24 こんな所で、うつ伏せになって撮影しています。背後の子供たちの動きが、気が気で成りません。



25~26 カラスアゲハ(クジャクアゲハ)とチロンタイマイ。似た写真を数日前に似も撮ったような気がするのですが、、、、。





27 左端のルリオビアゲハがボロい個体でなければ、良い写真になるのですが。



28~30 アオスジアゲハも落ち着かない蝶です。







31~32 個人的には、こんな写真が好きなのだけれど。





33 アゲハチョウの仲間は、吸水と共に、水の放出(すなわちオシッコ)もします。体温の調節という意味合いもあるようです。数枚写した中に、2枚にションベンがはっきりと写っていました。チロンタイマイは特にオシッコが好きなようです(たまたまこの個体に置いて特に頻繁だっただけでしょうが)。



34~36 ボロのルリモンアゲハですが、見る角度によっては、結構ましな姿に写ります。







37 今回のサパの蝶の、最終撮影カット。





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