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青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

近況報告

2024-11-13 15:15:58 | 雑記 報告

 

100円ショップでフルーツポンチの缶詰買って食べようとしたら、(なんせ右手使えないものですから)中身を移し替えるのに失敗して、ジャンプして布団の上に着地してしまった。布団、フルーツポンチの汁でびしょ濡れです。

 

オムレツ(卵+ネギ+白菜+ベーコン)を作ろうとしたのだけれど、フライパンひっくり返すのを失敗して、ソケットのコードが絡まっているところに着地してしまった。拭き取るのが大変でした。災難続きです。

 

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“「日本は世界一へ、、、」 第一人者語るAI活用法”

という下劣なTV番組見ながら(チャンネル変えるの面倒なので)、「屋久島植物図鑑」の執筆を続けています。

 

しかし、皆(ことに専門家とかの頭の良い人)バカ丸出しで、恥ずかしくないんだろうか(太蔵が一番まともだ)。

 

AIはバカの象徴ですね。人類(殊に日本人)はどんどんバカになって、遅からぬ時代に(もしかすると我々が生きている間に)、まちがいなく滅びます(最初に日本人?)。

 

ごく僅かな人類が、地中深くとかに潜って生き延び、環境に適応してミミズみたいな姿になって(進化の過程で外観などは一気に変わる)、次世代の人類となります。

 

目出たし目出たし!

 

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週末は、兵庫県知事選、、、兵庫県ネイティブとしては、いろんな想いがありまして、、、。良かれ悪しかれ、斎藤さんは(当選も含めて)健闘するでしょうね。別にこの人を支持しているわけじゃないですよ。メデイアと大衆がいかにバカか、ということが、一連の流れの中に示されているように思えます。

 

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次回大作??

「ネコは幸せか?」

こうご期待!

 

・・・・・・・・・・・・

 

最近の食事です。

 

写真1

混ぜご飯。右手が使えないので、どんぶりの縁が汚れています。

 

写真2

トースト、バケット、卵、ベーコン、レタス、マヨネーズ、、、なかなか贅沢です(全て半額)。

 

写真3

看護婦さんによって包帯の巻き方に上手下手あり。

 

写真4

市役所から食料支給券10005枚出たので食料買い込みました。

レタス216円(これだけ他の倍ぐらいの大きさでした、ラッキー!)

ベーコン16252

インスタントコーヒー108円(めちゃ安い!)

食パン108

半額メロンバター324円(単品の買い物としては今月最高額!)

 

写真5

芋掘りに参加したので無料。お米はソーシャルオフィスからの支給。

 

写真6

麦茶172

10212

ネギ108

みかん10198

胡麻油108

 

写真7

片手で作った自家製チャーハン

 

写真8

少し贅沢(半額で112円)

 

写真9

着地失敗したオムレツの破片を入れたラーメン

 

 

 

 

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IQ

2024-11-12 14:47:27 | 雑記 報告

 

コニー・フランシス(1937.12.12~)とブレンダ・リー(1944.12.11~)。ビートルズ出現以前の、60’sアメリカン・ポップスは、男性歌手に関しては群雄割拠、エルヴィスを筆頭に数多くの歌手がヒット曲を連発し続けました。この期間(50年代末~60年代中期)Billboard Hot10010曲以上をチャートインした男性歌手は、優に20人を超します。一方、この期間に10曲以上をチャートインした女性歌手は、(コニーとブレンダ以外には)一人もいない(*60年代中期になってレスリー・ゴーア)。コニーとブレンダがほぼすべてを占めていて(エルヴィスを除く)すべての男性歌手を凌駕する50曲近くを擁しています。それ以外の女性歌手は、ほとんどが「一発屋」(せいぜいチャートイン数曲)です。コニーとブレンダの2人には数多の共通点があります。Hot100への初チャートヒットが1957年。最終チャートヒットが1969年(全盛期はともに65年頃まで)。○ス(歳を取ってから美人になった)でチビ(身長140㎝台)。誕生日も1日違い。等々。絵にかいたようなライバルです。僕は詳しいことは知らないのですが、相当にピリピリした一発触発の関係に置かれていたのではないかと想定されます(ちなみにJohnny Tillotsonは両者と仲良し)。2人がレコーディングした数100曲は、(ともにポップ・カントリーを主体としているのにも関わらず)ほとんど重ならない。その一方で、コニーが「謝るのは誰?Who’s Sorry Now」(1958Billboard Hot100 No.4)で大ブレークを果たせば、ブレンダは「私が謝るI’m Sorry」(1960Billboard Hot100 No.1)で応える。「みんな誰かのおバカさんEverybody’s Somebody’s Fool」 とコニーが歌えば(1960Billboard Hot100No.1) 、ブレンダは「一番バカなのは私(Am I Fool No.1」(1961Billboard Hot100 No.3)と応える。偶然ではあるのでしょうが、なかなかに興味深いです。

 Everybody’s Somebody’s Fool Connie Francis

 

 Fool No.1  Brenda Lee

 

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 日本人のIQとやらは、欧米諸国よりもずっと高いのだそうです。

109か国のランキングで5位だそうです。

もっとも、日本だけでなく、上位はほとんどが東アジア。

 1シンガポール

2香港

3台湾

4韓国

5日本

6中国

7スイス

8オランダ

9北朝鮮

10マカオ

 以下、50位あたりまでほとんどすべて欧米諸国

主な国

15ドイツ

16イギリス

26オーストラリア

27フランス

28アメリカ

 50位あたりから東南アジア諸国、中東、中南米。

 そして90位以下20か国は(唯一東チモールを除いて)すべてアフリカ諸国(89位以上には1か国も入っていない)。

 このリストと同時に、

IQテストが付されていました。

「あなたも自分のIQが分かります」

それでやってみました。

30問中、たぶん正解は5問(あとは質問の要旨自体が判らなかったのでパス)。

ということで、如何なる結果が出るか、興味深々でいたのですが、認定までの手続きの仕方が間違っていたようで、結局はわからずじまい。

いずれにせよ、ダントツ最下位なのは間違いないです(認定してほしかったのですけれど、(;´д`))。

 知能が低いことは、僕の誇りでもあります。

 頭がいい人ってのは凄いですね。羨ましいし、皮肉じゃなしに尊敬しています。

 でも、彼らが、どうしようもないバカであることも確かです。

(“闇に暮らす生命は光が闇であること”と軌を一にします)

 頭の良いバカが、やがて人類を滅ぼすのでしょう。

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 民主主義。

選挙。

法律。

人権。 

プライバシー。

自由、、、、、。

 

頭のいい人。お金持ち。自分さえ良ければ良い人々、、、、。

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 TV見ていて思うのですけれど、

画面に映った人々の顔を隠すじゃないですか。

気持ち悪いったらありゃしません。

隠したり、隠さなかったり、、、あまりに勝手ですね。

僕が勝手に顔隠されたりしたら、激怒します。

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 これまでに何度も繰り返し提案しているのですが、

漱石「夢十夜」(ことに第6夜)

鴎外「かのように」

この2つの短編小説を読んで欲しい。

前者は、最高の芸術作品でもあり、なおかつ非常に読みやすい。小学生でも理解できるし、楽しく読むことができます。でも、示唆されている問題は、とてつもなく重く大きなものがある。

後者は、文学としては出来損ない。理屈ばかり並べていて、僕もまるっきり意味が分からない。作品としては最低だと思うのですが、でも、この中に、人類の社会に対する最も重要な問題提起が為されています。

 「かのように」成り立っているのが、まやかしの民主主義なのです。

 

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 「中国蝴蝶野外観察図鑑」

「屋久島の植物‐大和と琉球と大陸の狭間で」

につづく超大作、

「ネコは幸せか?」

近日執筆予定(芥川賞狙い!!)。

 

 

 

 

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現状報告

2024-11-10 08:25:35 | 雑記 報告

読者のゆみさんからコメントが来ていました。コメントは滅多にないので、あるとすごく嬉しいです。

 >こんにちは。私の不躾な質問に詳しく教えて頂きありがとうございます。色々な事情があり様々な試行錯誤や援助を受けての今なんですね。でも他人でありながら娘と呼べる人がいたり(注①)、元カノの御父様からの援助(注②)などやはり先生のお人柄(注③)や今まで続けてやって来られた研究の成果(注④)があってこそですね。先生のブログを読んでいると所持金100円でもその生活に悲惨さがない(注⑤)のはやはりお人柄でしょうか。私も前向きに頑張ろうと思います。ブログ更新すこし早まり嬉しいです(注⑥)。御身体に気をつけて(注⑦)頑張って下さい。応援しています。

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 なんかくすぐったいですね(笑)。実際は、褒めて貰えるようなとこは何にもないので。

 ⓵「三世」のことですね。

チエコ・コンデンスミルク

ジュンA.コンデンスミルクの孫?ということになっています。

もう少し詳しくいうと、ジョージ・ハミルトン世とジョン D.ラウダーミルクを足して2で割った名前(婿殿の名前がジョージなのも何かの縁かも知れない)。

ジョージ・ハミルトン1937-2014)は1956年にデビュー曲「バラとベイビールース」(ラウダーミルク作詞作曲)が大ヒット(Billboard Hot1006位)、一般的には1963年のポップス~C&Wのクロスオーバー大ヒット曲「アビリーン」(同じくラウダーミルク作詞作曲、Billboard hot10015/C&W1位)が有名。以降はC&W歌手として数多くのヒット曲を放っています。

ジョン・Dラウダーミルク(1934-2016)は、1957年エディ・コクラン(1938-1960)の「バルコニーに座って」(Billboard Hot100の 18位)を作詞作曲(自身の歌唱盤も同時期のBillboard Hot100の 38位)。「バラと~」「アビリーン」「バルコニー~」のほか、「Waterloo(ストンウオール・ジャクソン19594」「The Language of Love(ラウダーミルク自身196133位)」「サッド・ムービー(スー・トンプソン19616/ザ・レノン・シスターズ196156位)」「エボニー・アイズ(ジ・エバリー・ブラザース19618位)」「夢のボート(コニー・フランシス196114 位)」「ノーマン(スー・トンプソン19623位)」「Torture(クリス・ジャンセン196220位)」「トーク・バック・トレンブリン・リップス(アーネスト・アシュワース1963101/ジョニー・ティロットソン19647位」「恋はすばやく(ガス・バッカス1964101位=日本では1位)」「エブリシング・オーライ(ザ・ニュー・ビーツ1964年16位)」「タバコ・ロード(ザ・ナッシュビル・ティーンズ196414位)」「可愛い小鳥(マリアンヌ・フェイスフル196532位)」「ペーパー・タイガー(スー・トンプソン196523位)」「アイ・ワナ・リブ(グレン・キャンベル196836位)」「ゼン・ユー・キャン・テル・ミー・グッバイ(ザ・カシノズ19676/エディ・アーノルド196884/ニール・マッコイ1968107位)」「インデアン・リザベーション(ドン・ファードン196820/ポール・リビア&ザ・レイダース1971年1位)」等々(以上主なHot100チャート曲のみ、他にC&Wヒット多数)。

 ⓶まもなく92才になるんですよ。いろいろ事情があって、今は一人暮らし。僕が最も尊敬している方です。19899月~12月の大学留学時、中国重慶からほとんど毎日のように友子さんに(着信払いで)かけていた電話代が、膨大な金額になっています(-_-;)。それ(友子さんと半々でお父上に返済していくことになっています)と数年前に購入して頂いたパソコン代を少しづつ返済。今月は3500円を振り込んでおきました。

 ⓷対外的、客観的に見れば、人柄最悪なのではないでしょうか?人望のなさは半端じゃないです。原因は自分でもわからないのですが、ほかに類を見ないほどの究極の嫌われ者です。

 ⓸成果も何も、まともな論文とか作品とかはないのですね。発表したものも全く無視されています。ひたすら落ち込んでいます。なんとか、ひとつでも対外的に認められる作品を残しておきたいと、必至で藻掻いているのです。

 ⓹いや、悲惨です。とんでもなく悲惨だと広言しているのだけれど、なぜか悲惨さが伝わりません。人望の無さが成せる業なのじゃないでしょうか。

 ⓺収入に繋がる可能性のある仕事(とりあえずは屋久島植物図鑑)を最優先しなくちゃならずブログなんて書いている余裕はないのですが(自分の忘備のために書いている)、一人でも読者がいるとなれば止めるわけにはいきません。

 ⓻体調ですね。後期高齢者ともなると、ガタガタで当然です。なんだか順繰りにどこかが悪くなっているみたいで、、、それが治まると、まったく別のところがおかしくなる。瀕死の状態が続いているのですが、誰も信じてくれません(なぜかとても健康そうに見えるので)。今年は正月から先月あたりまで、次から次へと様々な部分で体調が悪化し、断末魔の状態に繰り返し襲われ続けていました。でもなぜかひと月ほど前から突然すべての疾患が消え去って、、、こんなに調子が良くなったのは何年ぶりのことでしょうか? と喜んでいたら、その矢先、バイト中の不注意で指の切断、という大怪我。体調云々とは別次元の窮地に陥っている次第です(一応手術は成功して、明後日抜糸予定)。

 

 

 

 

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「トランプさんとアメリカ」の続き

2024-11-09 08:31:34 | 雑記 報告

三世(Chieko CONDENSEMILK Ⅲ)から、以下のいきさつをブログに書いてください、と頼まれました(*どうやらアパートを追い出されたor腹が立ったので出て行った、らしい)。

 以下、三世の憤慨。

 ヤフー知恵袋に質問してみました。

>住んでいるアパートのゴミ出し場に出す日(夜出し大丈夫なので細かくいえば数時間)を一回間違えてしまい、エントランスにゴミの写真とともに警告文を貼り出されました。 私のゴミの写真を晒しものにされて良い気持ちではありませんでしたが、これは普通のこととして受け止めなければいけないのでしょうか?

 回答1

>受け止めるべきと思います。別に部屋番号とか名前を晒されたわけじゃないのでしょう?

 回答2

>うちのマンションも結構厳しいですよ。ゴミを出す所が個室なので日を間違えても怒られませんが、有料の物(布団など)を出すと皆に晒されて警告シール貼られます。夏だけはゴキが出るので怒られますが・・・。しかし、それをやらないと秩序が保たれないので 私的には良いかなと思います。

 回答3

>はい、そうです。今度からは間違えないよう、気をつけてくださいね。

 もう車も売って二度と日本に戻らないべきか考えはじめました。

 以下、僕(Jun A. CONDENCEMILK)の返信

 アハハ!

と笑うしかないですね。

 コロナの時、大谷(当時エンゼルス)のアベマTVをよく見ていたのですが、ホームランを打つと外野の観客席が映ります。

誰一人マスクなんかしていません。

でも、ごくごくたまに(千人に一人ぐらい)マスクの人が映る。

日本人ですね。

これを見て、TVの前の日本人は、「やっぱり我々日本人は、マナーが良くて民度が高い」と、心の中で自慢しているわけです。

トンデモないですね。

俯瞰的に捉えれば、世の中をメチャクチャにしてしまっているのです。

そのことに気が付いていない。

 (この話は前にしたっけ?)

以前モニカと一緒にレストランに昼飯を食いにいった。

小七(赤ちゃん)がトイレ(大)をもよおした。

モニカはやおら小七のお尻を剥いで、テーブルの隣にあったゴミ場に直接うんちを、、、

さすがに、オイオイ、と注意しかけたら、

だから日本人は駄目なんだよなぁ~。ゴミもウンチも、どうせ同じところに行くんだから、問題ないんよ!

 

一理あると思うのです。

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 大統領選の感想追記

 

激戦州激戦州と姦しかったですね、でも激戦州の結果が言うほど勝敗に左右したとは思えない(ほぼぶっちぎりだった)。Pennsylvania州の結果で全てが決まると、どの局も判で押したように叫び続けていたのですが、結果は、仮にトランプが Pennsylvaniaを落とした(マイナス19人)としても、得票数はトランプが上回っていましたね。

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 同時通訳(日本人2人)の発音聞いていたら、2人ともペンシルバニアと言っていた。現地の人(アメリカ人)もペンシルバニアと発音していました。専門家とかの指示に従って、わざわざペンシルべニアとべを強調して発音していたのは、日本のメディアの人(および大衆)だけみたいですね。律儀なこと、お疲れさんです。

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 ペンシルバニア州と言っても、フィラデルフィアと五大湖側では様々な状況が全く異なると思います(ニューヨーク州も同様ですね)。日本でいえば、兵庫県(阪神播磨側と丹波丹後淡路)というところでしょうか。ちなみに、フィラデルフィアを上手に英語発音できればネイティブ並みの語学力、と言われます。フィラデルフィアの日本語表記は、ずっとこのままなのかな?

 ボストン‐ニューヨーク‐フィラデルフィア‐ボルチモア‐首都ワシントンは、“メガロポリス”の代表ですね。実は僕はこの地域(北米東海岸北部)には行ったことがない。ちなみに中国でも北京には(飛行機の乗り換え以外には)行ったことないです。パリにもローマにもロンドンにも行ったことがありません。だからどうした、と言われても困りますが、、、。富士山をはじめ「日本百名山」にはほとんど登っていない(意識的に避けている)。深田久弥氏が雑誌に「日本百名山」を連載していた当時、リアルタイムでそのほとんどすべてを読んでいた人は、僕以外にどれくらいいるのでしょうね(御本人にも会いに行ったし、、、それぐらい日本百名山フリークなんですよ)。

 このアメリカの歴史の起源を担い、世界の文化・経済の中心地でもある大都市圏は、アメリカ全土から見れば東北の端にあるわけなのですが(というか少なくとも僕はそう認識しているわけですが)、それは僕が日本人だからであるわけですね。好き好まざると、世界地図は日本が中心に示されている。太平洋を挟んで旧大陸と新大陸が左右に対になっているわけです。ニューヨークは右上端、ロンドンは左上端に位置している。

 アメリカ(殊に東海岸)からヨーロッパに移動するときのシチュエーションを思い浮かべると、西海岸‐太平洋‐アジア‐中東を経由した、大変な長道中を描いてしまうわけです。でも、実際はそんなことないのですね。大西洋の北側を、ひょいと一跨ぎなのです。ボストンとリスボン(ポルトガル)の距離は、東京とシンガポールやデリー(インド)の距離とさほど変わらない。しかし、そのことを実感として捉えることのできる機会には、我々は置かれていません。

 追加しておくと、僕はこれまでずっと、ヨーロッパ⇔アメリカの交流を思い浮かべた際、東北(ヨーロッパ)から西南(アメリカ)に向かって、急角度で南下(北上)するように思い込んでいました。でも実際は、ほぼ東西に水平移動なんですね。ヨーロッパからの玄関口ボストンは、リスボンやローマとほぼ同緯度です。ロサンゼルスを玄関口として捉えざるを得ない日本人の感覚からすれば、ピンと来なくても仕方がないのです。

 

 

 

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米大統領選~メディアの劣化に想う

2024-11-08 16:33:17 | 雑記 報告

 

大統領選挙の速報を見つつリアルタイムで書いたブログ記事が、なかなかアップされないのであや子さんに尋ねたところ、原稿が届いていないと。それでチェックし直したら、間違えて三世のほうに記事を送っていました。以下、遅ればせながら。

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 朝からずっとTV(米大統領選)に張り付いています。

コマーシャルの度にチャンネル変えて(笑)。

指が痛い(というより包帯の巻き方が下手)ということもあるのですが、全然仕事にならない(ここ数日ほとんど進んでいません)。

 僕は選挙制度に反対なのですが、それは日本のシステムに限ってであって、国外に関しては必ずしもその限りではありません。それはともかく、今回のは「一大イベント」として楽しんでいるのです。

 最初からずっと違和感を持ち続けていました。

「史上類を見ない予測不能な歴史的大接戦」「どちらが勝つにしろ最後の一票が左右するほどの未曽有の大接戦」と、どの局も一様に、これでもかと叫び続けてきた。

 違和感満載です。

僕は、トランプ圧勝に終わるんじゃないか、と漠然と予測していたのですが、それはともかく、メディアが「史上未曽有の大接戦」と、まだ開票も始まらない、いや投票開始前から、これでもか、というほど強調して言い続けていた根拠は、どこにあるのでしょうか?

 それ以前に、

ブッシュ子とゴア、

トランプとヒラリー、

バイデンとトランプ、、、

いずれも、滅茶苦茶に、それこそ未曽有の接戦激戦(総投票獲得数と選挙人獲得数が逆転とか、数え直しとか)だったじゃないですか。今回、いくら接戦になったとしても「歴史上未曽有の」とかは言えないはずです。なのに(しかも投票さえ始まっていない段階で)なぜそこまで「未曽有の、これまで経験したことのない、予測不能の大接戦」とアナウンスする必要があるのでしょうか。せめて「4度連続の(予測不能の)大接戦になる可能性がある」ぐらいでよかったのではないでしょうか?

 メデイアが作り出した空気(史上未曽有の予測不能の大接戦)。結果はズッコケともいえる、ぶっちぎりトランプだったわけです(僕も、もっと早く予想広言しときゃ良かった、笑)。

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 どの局も「激戦州」一択で、最初から最後まで報道し続けていたけれど、なんか余り関係なかった(ほかの州と似たようなもの)のじゃあないでしょうか?

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 Pennsylvania

これまで馴染みだった日本読みペンシルバニアから、ペンシルベニアに変更されたわけで、MCやコメンターの人たちも、露骨に「ベ」と強調して発音しています。なんだかなぁ~。あんまり良い気分しませんね。デリケートな発音を、いちいち日本語で一つに決めつけること

ないじゃないかと。

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 各局MC、あほ丸出しですね。まるで「音声発音ロボット」です。専門家とやらはもっと酷い。教科書を読んでるだけです。デーブと太蔵が一番マシ。

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 ハリス陣営

テーラー・スイフト

ジェニファー・ロペス

ハリソン・フォード

スティービー・ワンダー

民主主義の教科書

 

トランプ陣営

ハルク・ホーガン

イーロン・マスク

何でもありの支離滅裂

 

 

 

 

 

 
 
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大谷、トランプ、etc、、、

2024-11-05 20:48:22 | 雑記 報告

大雨で水道が止まり、テレビが映らなくなってしまった。水道はすぐに回復したのですが、テレビはなかなか元に戻らず、夕方になって回復しました。

 早速ロサンゼルスのドジャース優勝パレードを見ました。そのニュースに対して、「大谷も山本も、ちょっとしか映っていない、これじゃまるで放送事故!」といったような発言多数。

 うんざりですね。これ(大谷に特に焦点が当たっていないこと)が正常なのです。大谷と山本のドジャースではなくて、ドジャースの大谷、山本です。あまりにも当たり前です。でも当たり前であるということが分かっていない。

 「日本人は素晴らしい!」 と広言したくなる気持ちはわかるし、悪い事ではありません。僕も日本人ですから、嬉しくて浮かれてしまうことは同じです。でも、「大谷のドジャース」という図式を当然と捉え、それ一択で現象に対して(そして他を排除して)いく姿勢には、大きな懸念を感じざるを得ない。

 大袈裟と言われるかも知れないけれど、その姿勢を肯定し続けることが、戦争に繋がっていくのですね。メデイアと大衆が、(無意識のうちに)戦争を誘発しているのです。

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 一応日本シリーズも見ました。ベイスターズの下剋上、個人的には爽快な思いです。けれど(僕以外の多くの人も感じていることでしょうが)納得しがたい思いがあります。日本のポストシリーズは、大リーグのそれとは、本質的な部分で全く異なるからです。

 大リーグのポストシリーズは、公平を期すために採られた必然的な体制、日本シリーズは、、、、単に(外枠だけの)大リーグへの追従と、無理矢理でっち挙げられた空気の形成。

 大リーグは、なんといっても球団数が多い(30)。そして各リーグが、3つの地区に分かれている。それぞれの地域の優勝球団が争うとした場合、それだけで6チームとなります。日本は1地区だから優勝球団は2チーム。

 それだけではありません。大リーグの場合、それぞれの地区の優勝球団の勝率は、大きく異なってきます。場合によっては(というよりもたいていの場合)勝率がうんと低いチームが地区優勝したりする。別地域での2位や3位球団が、他の地域の優勝球団の勝率を上回っていたリします。今年で言えば、ナ・リーグ西球団のパドレスとかダイアモンドバックスとかが相当します。同じリーグで別地区の優勝球団より勝率が高いのに、決戦には進出出来ない、という理不尽をなくすために(かなり大きなハンディを付けたうえで)採られた救済処置なのです。30球団中12球団、優勝球団が6つ、救済出場が6つ。(一部の地区優勝球団を除いては)勝率の高い球団ばかりです。

 日本の場合は、何の根拠もありません。両リーグの優勝球団以外にも、勝率に関係なく、自動的に各リーグ2位と3位が出場できる。時には勝率5割に満たない球団が出場権を得て「日本一」になってしまったりします。何のために長いシーズンを戦ってきて、リーグ優勝を勝ち取ったのか、意味がなくなってしまう。12球団中6球団。優勝球団が2つ。救済出場が4つ。勝率がいくら低くても、2球団に一つは出場権を得ます。

きちんとした意味があって行われるワールドシリーズと、単に金儲けへの画策とそれに導かれた空気に便乗して行われる日本シリーズ。

 もっとも、日本だって、選手や関係者は頑張っているのです。ある意味、大リーグに対して見劣りはしない。それは認めます。

 問題は、ファンを取り巻く世間的構造ですね。整然と旗を振りながら一斉に同じコールを大合唱。見ていると情けなくなってきます。北朝鮮の人民となんら変わらない、飼い慣わされた羊の群れ。

 *日本シリーズに正当な意味を持たせるならば、、、、。

まず、中国、東南アジア各国、オーストラリアなどの各地区を合わせた優勝球団を選出、そのチームが韓国、台湾の優勝チーム、およびセパの2‐3位チームと戦って日本シリーズへの出場権を得る。そこでの勝者はアジア・オセアニアリーグのチャンピョンです。それに加えて、中南米・ヨーロッパリーグのチャンピョンが、大リーグのポストシリーズに参加する。

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 国民民主党、なんか好きになれんですね。いかにも寄らば大樹の陰、某宗教党と何ら変わらない。目前の(すなわち個人の)利益だけしか考えていない。ちなみに僕の政治理念は共産党とほぼ同じなのですが、支持してはいません(その理由を説明するのは非常に難しい)。

 僕は、もとより選挙制度自体を拒否しているわけで、“まやかし”に加担するわけにはいかない。選挙制度は、“自己保身”“責任逃れ”“強いもの勝ち”を正当づける“からくり” を基盤とした「民主主義」の構造の象徴です。公平を謳いながら、現実的には少数意見を排除していくシステムです。それがわかっていて、深く考えることなく、皆従っている。

 以前、某編集者がこんなことを言っていました。

>良い独裁者がいれば世界は変わるかも知れない。

僕もそう思います。ただし絶対条件がある。そしてその条件は決して満たされることはないでしょう。「良い独裁者」が成り立つためには「良い大衆」の存在が必須です。しかし、「良い大衆」は存在し得ない(個人は存在するとしても)。「大衆」は、将来全体を俯瞰することは出来ず、眼前の自分(たち)の権利、リスク排除しか考えていない。大衆が存在する限り、 (結果的に)独裁者は独裁者たりえなく、大衆の召使でしかなくなってしまうのです。

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 僕は、トランプの政治理念には反対の立場なのですが、でも何故か惹かれるところがあります。彼に再登場してほしいですね。

 (基本的に)中絶反対です(レイプそのほかの場合も含め)。理由は死刑反対と同じ。ただしあってもいい、とも思っています。個人の判断レベルで。それを正しいとしてではなく、間違った行為(ある意味において人殺しですから)であることを認識した前提(悪を承知で行うこと、罪を受け入れること)で、あっても良い。死刑制度には反対だけれど、仇討ちには必ずしも反対はしません。個人の権利を、社会の権利に置き換えるのは、同意しかねません。

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 国連から、(日本の夫婦同姓強要や女性天皇否定など女性軽視社会に対しての)勧告が成されていますね。しかし、メディアも国民も、無視を決め込んでいるようです。何らかの意思があっての無視なら良い(僕でいえば上記の中絶に対する意見と相反するところもあるわけだし)と思うのですが、(空気に従った)消極的無視。政府レベルの問題ではなく、メディアと大衆の問題です。中東とか北朝鮮とかの風習をバカにしきっている日本人が、世界からは同じ目で見られている、ということに気づいていない。

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 ベッツの災難(ヤンキースファンによるグローブ略奪未遂)、何度見ても、呆れるを通り越して感動すら覚えるほどの衝撃です。人間、空気の中では、いや空気さえも突き抜けてしまって、有り得ない行動をとります(あの2人も後になってみれば自分が何をしたか覚えてもいないのだと思う)。それを思えば、闇バイト強盗も、世界の紛争戦争も、さもありなん、という気がしてきます。

 日本は安全で「平和」な国、世界の貧民国における暴動や略奪の日常とは対極にある、素晴らしい国。

 それは、ネガティブな要素を排除して、強者、すなわち裕福な民だけで成り立っているから可能になっているのですね。けれども、リスクを100%排除することは不可能です(生命自体を否定してしまうことになる)。必然的に、ネガティブな要素は混在します。そして、気が付かぬうちに、社会全体の中に浸透してくる。闇バイト問題は、その象徴です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「権利の主張とリスクの排除」から、「権利の放棄とリスクの受け入れ」へ。

 「平和」「正義」「未来」に本気で取り組むならば、人類は今、方向の転換を求められているのではないかと思います。

 

 

 

 

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科学・医学

2024-11-01 08:02:08 | 雑記 報告

昨日、大けがをして、救急車で病院に運ばれ、数時間に亘る手術が無事成功し、なんとか窮地を脱しました。痛みこらえてパソコンに向かっています。

 今日はワールド・シリーズの中継を見届けた後、一日中ドジャース優勝のTVニュースをはしごしています。

 一応、水を差すことを言っておくと、大谷、山本、日本上げは、うんざりではあるのですが、それはそれで(日本シリーズの話題ともども)横に置いておくことにして、(我ながら、なんてまあミーハーなのかと、呆れかえりつつ)素直に喜びに浸っている次第です。

 スポーツ・ニュースはしごの合間に、(普段はバカにして見ない)、ドラマ番組を見ました。

テレビ朝日「ザ・トラベル・ナース」

 べたなストーリー、べたな役者(笑い)、、、でも、ついつい最後まで見てしまった。

 現代社会に横たわる、問題の本質を突いています。

半日前まで病院で治療を受けていたこともあって、様々な意味で、思い当たるところ満載です(昨日の救急スタッフにはとても感謝していますが)。

 科学とは何か、医学・医療とは何か。科学(医学)に対する警告。科学的であることと、俯瞰的に物事を見渡すことは、両立するのか、、、。

 

「屋久島の植物~大和と琉球と大陸の狭間で」は、第三巻120124頁「シライトソウ」「ツクバネソウ」を執筆中。薬の効能(5時間置き)が切れて、猛烈に痛いです。この後、今日3度目の抗生剤と痛み止め服用(5時間おき)。

 

 

 

 

 

 

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被害者と加害者、平和と戦争、正義と悪、光と闇、、、、

2024-10-29 07:51:19 | 雑記 報告

 

夜、NHK「映像の世紀/敗戦国としてのドイツ」を見ました。

 選挙とか大谷君とかどうでもいい(個人的には毎朝ワールド・シリーズに釘付けなのですが、(-_-;))ので、こっち見てください(再放送あると思うので)。

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察④(+Johnny Tillotsonの新曲紹介)

2024-10-22 14:35:30 | 雑記 報告

 

昨夜、こんなことがありました。

新飯塚駅近くのスーパーで、買い物をし、駅前からバスに乗って自宅に帰ります。所持金は1000円札2枚、バス代が210円、半額弁当2個を買って350円。

2枚の1000円札は、旧札と新札1枚づつ。このスーパーでは新札と新500円玉が使えない。同様に新札と新500円玉ではバスにも乗れない。

そこで、旧1000円札でレジ精算し、お釣りの650円の旧500円玉でバスに乗る、、、つもりでした。レジには「新札と新500円玉は使えません」と大きく張り紙がしてあるものですから、当然お釣りは旧500円玉で出てくるものと思っていたのです。

なんと、お釣りは新500円玉。それは困ります。受け取るわけにはいかないので、すぐにアピールを行いました。

>新500円玉は使えないので、旧500円玉でお釣りをください。

耳を疑う返答が。

>両替は出来ません。新500円玉は機械から勝手に出てきたので、私の知るところではない。

そ、そんな、、、。

>それは困ります。バスに乗れないです。

 

レジのおばさん曰く。

>それは私たちには関係ない、バス会社にクレームつけてください。

 

バスの出発時刻は迫っています。仕方がありません。この500円玉で新たに小さな買い物をして100円玉でお釣りをもらうしかない。

 

再度信じがたい対応。

>新500円玉は使えない。

 

頭が真っ白になってしまいました。そんな馬鹿な。新札、新硬貨は使えない、というので、旧札で精算を行った、すると新硬貨でお釣りが来た。使えないので旧硬貨でお釣りくださいと言ったら、それは出来ないと。仕方がないので新たに買い物をして100円玉でお釣りを貰おうとしたら、新硬貨だから使えないと。嘘みたいな話じゃないですか、、、。

 

じつは、これまで何度も同じようなシチュエイションに遭遇しています。中国ではよくあることなのです。「中国人のどうしようもない民度の低さを現している」と日本人の中国人に対する嘲笑の例になっています。それが、今日本でも行われているわけです。

 

でも、日中の同様の例には、徹底的な違いがあります。中国での例に対しては、日本人からも中国人からも、諦め・呆れというか、しょうがないなあ、もう、中国人はでたらめなんだから、運が悪かったと思って気を取り直して!という反応。

 

今回の例では、周囲の反応がちょっと違った。旧500円玉でお釣りを貰えないとなると、手持ちのお金は新500円玉と新1000円札だけです。バスに乗れません。そう簡単に引き下がるわけにはいかない。

 

僕。

>旧500円玉なり100円玉なりレジにあるでしょう?そちらでお釣りをください。

 

レジのおばさん。

>規則だからできません。

 

というわけで引き下がらずに交渉を続けていました。

 

すると、近くにいた赤ちゃん連れの若い男性客が口を挟んできた。

>この老いぼれジジイ、いい加減にクレームをつけるのはやめろ!新硬貨は使えない、と書いてあるじゃないか、文句があるならバス会社に言え。営業妨害で警察に通報するぞ。

 

僕としては、望むべくことです。でもバスに乗れなくなってしまいます。レジのおばさんに、どうか旧500円玉でお釣りをくださいと、頭を下げ、おばさんは「今回だけ特別に」と旧500円玉を渡してくれました。

 

次に来た時に、店長氏に会って、新旧500円玉の理不尽を訴えようと考えています。どう考えても店側がおかしいと思うので、話し合えばわかるはずです。現在のシステム上、仕方がないのかも知れないし、将来改めてくれればいいのです。

 

僕がどうしても許せないのは、件の若い男性の態度です。こいつは許しがたい。保身、責任逃れ、リスク排除、、、こんなのが薄っぺらな正義感を振り回して「正論」を垂れ流しているので、世の中が滅茶苦茶になっていく。

 

全速力でバス停に向かい、間一髪バスに間に合いました。近畿大学前で下車、バス代は210円、旧500円玉(+10円玉)を両替機に入れ、300円のお釣り、、、と思っていたら、出てこない。

 

バスの運転手氏曰く、

>機械の調子が悪いみたいで、硬貨が底に落っこちてしまったようです。残念ながら取り出すことができません。お釣りが必要なら、明日、(終点の)事務所まで取りに来てください。あるいは連絡先か銀行口座を書いて頂ければ後日送るか振り込むかします、と、悪びれた風もなく宣います。

僕。

>それは困る。300円がなければ(新1000円札しか残らないので)次にバスに乗ることができません。運転室に予備の小銭は用意していないのですか?

運転手。

>そんなお金は用意していない。

僕としてはお釣りを受け取らないわけにはいかないので、粘るしかありません。

結局(運転手が事務所と連絡を取って)乗客の中で終点まで行く人から300円を僕が受け取り、終点でその乗客にバス会社が300円を渡す、という方法を選りました。

その方に深くお礼を言って、何とか窮地は免れたのだけれど、その方も他の乗客も、いい迷惑です。僕は、とんでもないクレーム・ジジイと、白い目で見られていること必至です。

 

どう考えても理不尽でしかありません。被害にあったほうが、泣き寝入りをせずに強く対応すると、カスハラとかいう、わけのわからない「強者救済」システムで、「悪者」になってしまいかねない。

僕は(たぶん僕以外の多くの人も)気が弱いので、「泣き寝入り」を受け入れるしかありません。

 

                                                                     

「強者」というのは何も特別な人達ではありません。「集団性自己中」に基づく「健全な市民」です。正当であるか否かにかかわらず、「強者」に逆らう(「強者」の既得権を侵害する)と「悪」とみなされる。それが日本の民主主義の正体です。

弱い立場の人間は泣き寝入りするしかありません。それが出来ない人は「犯罪者」になってしまう。

 

犯罪者に対して、ただ裁いて罰を与えればいい、というだけで良いのでしょうか。その背景を探る事こそ大事な事ではないのでしょうか。犯罪が起こるごとに、犯罪者(悪)は裁かれ、裏で無邪気にせせら笑いをしている、善良で健全な正義の皮を被った、醜悪極まりない「大衆」がいるのです。

 

むろん、犯罪、ことに暴力は、理屈抜きに、絶対にあってはならないことです。それを為した時点で、正しくても負けです。

 

でも、(何度でも言います)それ(「どんな理由があっても人が人を殺してはならない」という大前提)って、「死刑制度」と矛盾するように思うのですけれど。

 

・・・・・・・・・・・・

一昨日の夜は、NHKのTV番組を見ていました。西田敏行の番組(2人の母親)には、うかつにも涙が出てきた。良い番組でした。尤も、志村けんにしろ、西田敏行にしろ、メデイアこぞって没後過剰美化するような風潮には、首をかしげたいという思いがありますが。

 

一方、同じ老人でも、(世間が気に入らないとなれば)一方的に扱き下ろす風潮。ハリー(張本さん)とか、二階、森、麻生とか。醜いとしか思えません。若いことが正義、善。年寄りは悪。どれだけ酷い差別を行っているのかということを、自分たちは気が付いていない。

 

ジャニー喜多川の番組も見ました。彼の行ってきた行為にはこれっぽっちも弁護の余地はありません。しかしこの問題を俯瞰すると、とても恐ろしいことに気が付きます。ジャニー氏やメリー氏の問題ではないのです。それを取り巻くメディアや大衆の醜さが浮き上がってくる。元テレビ局重鎮現某大学客員教授氏に至っては、吐き気を催します。

 

このストーリーの中には、日本の社会の、資本主義の、民主主義の、全ての暗部が凝縮されて詰まっているような気がします。

 

物事の本質は関係なく、あるいは敢えてスルーし、空気、正論、正義で結論が形付けられてゆく。繰り返し言うけれど、ジャニー喜多川やメリー喜多川が、どれだけ悪行を働いたか、という問題ではないのです。彼らを取り巻く、目に見えない「巨悪」の存在(それは、メディア、大衆、、、に収斂される)に目を向ける必要があると思います。

 

初代ジャニーズの故中谷氏の姉上の訴えを、(ジャニー喜多川の排除が決定した後も)「中傷」と決め続けてせせら笑う企業側。

ロスアンゼルス在住の幼いころからジャニー姉弟の親友という老婦人の心境、、、、。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨夜は、「中内功と堤清二」を見ました。僕は、2人とも好きですね。

中内氏は(そのキャラクター自体は?の部分もあるのですが)神戸っ子(僕の父が始めた会社のすぐ近くに生まれた)なので、どこか身近に感じます。

堤清二(作家・辻井喬)氏は尊敬しています。

「(企業やメディアが)“大衆の欲望に応える”までは良かったけれど、“大衆の欲望を煽り立てた”のは間違いだった」と呟いた。重い言葉です。

 

・・・・・・・・・・・・・

選挙が近づきました。

僕は選挙には行きません。

選挙制度は、エセ民主主義の壮大なるカラクリです

 

選挙に行く、ということは そのからくりに同調する、ということにほかなりません。行かない(制度の否定)ということで、積極的な意思表示を選択します。

(具体的なことは改めて)

 

・・・・・・・・・・・・・

ナンシーからメールが来ました。

ジョニーの新曲リリースの紹介。

ここのところ、次から次へアップされています。ほとんどは(新曲というよりも)旧録音の未発表曲。これまで存在が知られていなかった、お蔵入り?の曲も含まれています。

でも今回の“My Baby’s Gone”の存在は知っていました。

以前、何人かのC&W歌手を集めたオムニバス版に、ジョニーのこの曲が入っていた。でもそのオムニバスアルバムの入手は困難、ユーチュブ上にもアップされることがなかったので、(何らかの間違い表示の可能性を含めて)永久に聴くチャンスはないだろう、と諦めていたのです。

Johnny Tillotson

「(My) Baby’s Gone」

*僕は長い間ルービン・ブラザースの「My Baby’s Gone」だと思っていたのですが、それとは別の同名異曲のようですね(“My”はタイトルには無いが歌詞にはついている) 。

 

ルービンのは僕が大好きな曲なので、それのジョニー盤が聴きたかったのだけれど、これはこれで素敵です。ちなみにルービン・ブラザース(ジョンD.ラウダーミルクの従弟)は、「涙ながらに」「You Can Never Stop Me Loving You」「Talk Back Trembling Lips」

(ヒットしなかったけれどジョニーが作った)「No Love At All」など多くカバーしていて、チャーリー・ルービンとは一緒に歌を作っていたりします。したがって、My Baby’s Goneをジョニーがカバーしていても不思議ではないのですが、違いましたね。それとも、2つとも録音していたりして、、、、。

 

Glen Campbell盤が秀逸ですが、Elvisの同名曲、Conway Twittyの同名曲などは、みなそれぞれ違う曲見たいです。

 

ついでに最近ユーチュブにアップされた、ジョニーの新曲(!?)をの中から、僕が特に気に入った幾つかの曲を紹介しておきます。

「Burning」

(1983年)

「You‘re A Beautiful Place To Be」

「Crying」(1983年)のB面

「Out Of My Mind」

1963年の自作ヒット曲のセルフカバー。僕の一押しです。

 

 

 

 

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Cover songs 50‐60's by Samoan‐singer Pinati Williams

2024-10-19 08:41:27 | アメリカン・ポップスearly60’s

 

アメリカン・ポップス関係の記事が大量に溜まっています。ことに、僕のライフワークの一つでもある、「涙ながらに」のカバー・リストの制作(ついでに「夢の枕を」とセットで)。その過程で、これまでよく知らなかった様々なジャンルのアーティストに接する機会ができました。ここ最近は、女性歌手に熱を入れているのだけれど、どこから紹介していこうか、なかなか踏ん切りがつかない。東南アジア(ことにインドネシア)やオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)編も企画していて、その中でも一押しの、サモアの男性歌手ピナテ・ウイリアムスのオールデイズ・カバー曲集をまず紹介していくことにします。どの曲も最高!です。映像も実に素晴らしい。文句なしのお薦めなので、ぜひ聴いてください。

 

Love Letters In The Sand by Pat Boone (Cover) (youtube.com)

Love Letters In The Sand

1957 Pat Boone(1934-) Hot100 No.1/R&B No.12

1986 Tom T. Hall(1936-2021) C&W No.79

Written by J. Fred Coots, Nick Kenny, Charles Kenny(1931)

 

All I Have To Offer You Is Me by Charlie Pride (Cover) (youtube.com)

All I Have To Offer You Is Me

1969 Charly Pride(1934-2020) C&W No.1/Hot100 No.91

Written by Dallas Frazier & A.L. Owens

 

Diana by Paul Anka (Cover) (youtube.com)

Diana

1957 Paul Anka(1941-) Hot100 No.1/R&B No.8

1965 Bobby Rydel(1942-2022) Hot.100 No.98/Adult No.23

Written by Paul Anka

 

 

Green Green Grass Of Home (Cover) (youtube.com)

Green Green Grass Of Home

1965 Porter Wagoner(1927-2007) C&W No.4

1967 Tom Jonse(1940-) Hot100 No.11/Adult No.12

1968 Skitch Henderson(1918-2005) Adult No.30

Written by Claude Putman Jr.

 

 

I Fall To Pieces by Patsy Cline (Cover) (youtube.com)

I Fall To Pieces

1961 Patsy Cline(1932-1963) Hot100 No.12/C&W No.1/Adult No.6

1970 Diana Trask(1940-) C&W No.37

1977 Mary K. Miller(1957-) C&W No.89

1981 Patsy Cline C&W No.61, 1982 C&W No.54(with Jim Reeves)

1994 Aaron Neville(1941-) & Trisha Yearwood(1964-) C&W No.72

Written by Hank Cochran & Harlen Howard

 

 

It Keeps Right On The Hurting (Cover) by Johnny Tillotson (youtube.com)

It Keeps Right On A Hurting

1962 Johnny Tillotson(1938-) Hot100 No.3/C&W No.4/R&B No.6

1965 Margaret Whiting(1924-2011) Adult No.28

1988 Billy Joe Royal(1942‐2015) C&W No.17

Written by Johnny Tillotson

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察④

2024-10-18 21:01:34 | 「現代ビジネス」オリジナル記事

 

・闇バイト(別に礼賛しているわ、意味を掘り下げて考える)

以前ミャンマーで奥地(カ地の人たちの主要産業は大麻の栽培それは良くない、ということで、日本を始めとした先進国のボランティアが、別の合法的な仕事を立ち上げて斡旋している、けれどなかなか応じてくれない。

彼ら自身は、別段悪いことをしている、という意識などないのですね。誇りをもって必死で頑張って仕事をしている、褒められはしても、後ろ指を刺される道理など、微塵もないわけです。

日本に於けるタバコ産業にも当て嵌ります。煙草農家は誇りを持って仕事をしていた。それがいつの間にか悪者にされかねない風向き。さぞかし戸惑っていることでしょう。同情を禁じえません。

善悪の基準など、ころころと変わります。今現在善とされていることだって、光の当て方次第で、いつ悪のほうに転換するのか、誰もわからない。

以下は極論なのですが。

これも東南アジア(確かタイ)で、ある日本人からこんな要旨の発言を聞いたことがあります。いわゆる闇バイトの海外在住元締めの一人なんでしょうね。彼曰く、

>自分たちは、ある意味、社会への挑戦のつもりでやっている、と。

とんでもないですね。「盗人猛々しい」とは正にこのことなんでしょうが、「盗人にも三分の理」という言葉もあります。全く無視してしまうことも、どうかと思います。

現在の社会(ことに資本主義社会、なかんずく日本の民主主義社会)の構造、考え方(社会に対する意識の持ち方)は、むろん自分たちは気が付いていない(そんなことは微塵も思ってはいない)だろうけれど、本質的に「反社会」と変わらない。

善悪の絶対的な評価は、集団(自分たち)にとって、よし(必要)とされているか否かで決まります。

光の当て方次第では、世の中の大方の文明・文化は、依存症へ誘発と言ってもよい、詐欺的行為の上に成り立っている。 

ファッション、グルメ、音楽、アニメ、、、芸術など最たるもので、落書き同然の代物に、いかにも尤もぶった専門家とやらの御神託で、何百万、何千万円、何億円もの値が付く。怪しげな宗教団体の壺と、どこが違うのか。

世の中の価値観は、「かのように」に基づく土台、空中回廊の上に成り立っているのに過ぎないのです。

集団(自分たち)にとって、利益をもたらすものが「善」「正義」であり、それに携わることが「まともな仕事」と認識される。光の当て方次第では、集団的(ほぼ日本国民同意の上での)詐欺に加担しているのに他ならないとしても。

その究極が、戦争(対立)で齎された経済の循環。それによってホクホクになっているのは、何も某国や某某国の独裁者たちでも、西側社会の指導者たちや大富豪たちだけでなく、戦争反対!平和を!と叫んでいる一般庶民なのです。

彼ら(すなわち私たちですね)が基盤的な部分で戦争に加担していることによって、まわりまわって豊穣がもたらされる(それを「平和」と呼んでいる)。フィルターがその過程を見えなくすることによって、「悪」に加担しつつ、反対を叫んでいる「正義」「善」が形成される。

金持ちなんて、あくどいことを遂行する能力のある人(あくどいということに気が付かないという能力がある人)にしかなれんのです。

その流れに乗るのが強者であり、資本主義社会、民主主義社会であり、富の偏在が成される。それらの(目に見えない暴力で成る)社会をぶち壊してやろうと、目に見えた暴力を仕掛けるのが、(やくざとはまた別の新参の)「反社会」勢力なのかも知れません。

先年のフィリッピンの某ルフィが漏らした「殺したのが拙かった」という呟き、これが本音でしょうね。少々の目に見える暴力に頼っても、目に見えない社会全体の強大な暴力(ほぼ正義の同義語)に立ち向かい、力が支配する社会を揺るがしていこう、と。

繰り返しますが、泥棒達の自己中意見を正当化するつもりはありません。その前提で、今社会を揺るがしている闇バイト問題を、表面的価値観だけで解釈するのではなく、無意識的集団性自己中社会(日本に於ける平和や正義)に対する警告として受け取る姿勢も、必要なのではないかと思うのです。

中国やロシアの、独裁権力による思想・風俗などの統制、それはあってはならないことでしょう。でも一面、わかる気がします。

民主主義の大義名分の下、歪な価値観が、当たり前のごとく「平和」「正義」「自由」として 位置づけられていることのほうが、僕はもっと怖いです。

文明・科学が、本当に人類に幸を齎しているのか、今一度考えて欲しいと思うのです。

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察③

2024-10-18 14:31:29 | 雑記 報告

 

・ノーベル平和賞と人類の決断~文明(例えば車・エアコンなど)との決別

 

日本被団協(被爆者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。

僕はこれまで、繰り返し次のように述べてきた。

>「平和」「戦争をやめよう」と叫ぶ、それが間違っている、ということではなく、そこで終われば思考停止に等しい。

>誰だって平和を望んでいる。戦争などしたくない。なのに、現実は、全く逆の方向に進み続けている。ひたすら叫ぶのではなく、その原因はどこにあるのか、ということを真摯に追及していくことこそ必要なのではないか。

今回受賞の日本被団協の人々の訴えも、「平和を」「戦争反対」です。けれども、具体的に「核の全面否定」を訴えているわけです。そこを評価したい。正しくは「核兵器の全面否定」なのですが、それは「核・原発の全面否定」にも繋がっていきます。

核・原発そのものを全面否定するということは、現実問題として、人類の (いわゆる平和、自由)の活動スタイルの否定にも繋がってきます。それでも全面否定する。考えてみれば、非常に勇気のいることです。彼らに対するノーベル平和賞の授与は、今後の人類・地球の行く末を決定づける鍵となり得るのかも知れません。

「原発」に代表される文明の利器は、確かに便利です。人類の発展・繁栄の基礎を担っています。人々の楽しく、平和で豊かな暮らしに結び付きます。しかし、「繁栄」は絶対的な肯定事項なのでしょうか?

生物の進化の歴史を鑑みれば、「繁栄」は「滅亡」の序章でもあるのです。「文明」の齎す恵みは、同時に凶器・劇薬ともなりえる。

「核兵器」のように目に見える凶器(瞬間的大量虐殺)ではないとしても、俯瞰的に見渡したなら、「車」や「エアコン」といった文明の利器も、(例えば気候変動の元をなす)漸進的な大量破壊兵器と言っても過言ではないのです。 

文明は、人類の生活に彩りを添えます。しかし、文明ありき、ではない。人類は今、文明・科学に魂を売り渡し、滅亡への道に向かいつつあります。

「核の否定」から更に一歩踏み込んで「文明との決別」に向かう時が来ているのではないでしょうか。

ちなみに今年のノーベル賞は、他分野(物理学、医学など)に目を向けると、概ねAI関連が受賞していますね。今後もその傾向は続くのでしょう。

僕は、AI(科学)の発展が人類を滅ぼす、と確信しています。

 

 

 

 

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近所の蝶2024.10.16

2024-10-16 20:59:58 | 雑記 報告

 

今年は意識的に蝶の撮影をしないでいるのだけれど、さっきWi-Fi電波を拾いに外に出かけたら、アパートのそば(大学駐車場の脇)の草むらにタテハモドキがいたので撮影しておきました。近所(福岡県飯塚市)の蝶、52種目ですね。タテハモドキが九州北部まで分布を伸ばしていることは知っていたのですが、これまで出会うことがなかった。新鮮な個体(越冬型)が同じ場所に2頭いました。屋久島のアオタテハモドキと言い、揃って北上しているようです。

驚いたことが一つ。この場所の植生環境が、昨年、一昨年とガラリと変わっている。これほどまでに極端に変わるとは驚きでしかありません。草刈りの時期や回数(春にシルビアシジミの件で言及した公団住宅中庭はともかく今年は近所の草刈りがなぜか少ない)に関係するのかもしれませんが、、、。草刈りをしようがしまいが、最終的には同じような環境(それは必ずしも極相に向かわない)に落ち着くのではないかと。

植生は一変したけれど、蝶のメンツはあまり変わっていませんね。さっき出会ったのは、タテハモドキのほか、クロマダラソテツシジミ、ウラナミシジミ、ヤマトシジミ、ツバメシジミ、ツマグロヒョウモン、チャバネセセリ、キチョウ、アゲハチョウと、いつものメンツです。セイタカアワダチソウに群がるはずのキタテハを見かけなかったのは偶然でしょうか?

イチモンジセセリをチェックしようと、蚊に刺されながら小一時間粘ったのですが、チャバネセセリばかりでした。

大事なことに気が付いた。ベニシジミがいない。一昨年(昨年も)の10月中旬は、ここはベニシジミだらけだったのですが、一頭も見かけません。そういえば、今日のこの場所だけでなく、今年の夏以降は、ベニシジミにほとんど出会っていない(屋久島では南下定着しているのに)。これはどういうことでしょうか? まあ、(自然のシステムは複雑ゆえ)一年や二年で衰栄の判断を下すわけにはいかないのだけれど、気になる現象ではあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察②

2024-10-16 20:52:12 | 雑記 報告

 

前回の①はカテゴリーが「Johnny Tillotson」「アメリカン・ポップス」となっていますが、それはあくまで題材で、本質的・潜在的な部分では以下に記す各コメントと共通している、ということをご了解ください。

やらなきゃいけないことが山ほどあって(今はともかく「屋久島の植物」の完成一択)、ブログ*など書いてる暇はないのだけれど、書き出したからには一応完結しておきます(⑧まで続く予定、どれも数日前に書き始めたテーマなので、少々タイムラグが生じますが)。

*三世から、ジョージが日本語読めないので、英語でブログを書いてくれ、という、無茶振り。そんなの無理に決まってるのだけれど、、、、概ね自動翻訳機に頼って、ジョージ専用の英語版も書いているという、、、、我ながら情けなくなってきます。

・ドジャースWヘルナンデスと逆差別としての人種問題

ドジャース、宿敵パドレスを撃破してリーグマッチに進出。勝った山本も負けたダルビッシュも圧巻の出来でした。感動しました。それにしてもWヘルナンデスは勝負強い!

そのWヘルナンデスの活躍に際してのヤフーニュース。

 

S1さんの投稿

>我が家ではキケを白ヘル、テオを黒ヘルと呼んでいるが、今日は決勝の白と黒になった。

それに対するヤフコメ民たちのコメント

>サラッと何も考えずにこのコメントが出来るのが怖い。

>SDGSのこの時代にかなりマズイコメント…。

>めちゃくちゃ人種差別的な御家族ですね。失礼極まりないし、こういう事を書き込んでマズいと思わない感覚が分からない。

>コメ主、早く削除した方がいいですよ 絶対に家の中だけで、お子さんがいるなら今すぐ止めて、お子さんのために。

>>失礼な家族。

 

僕の投稿

>コメント入れている皆さんに、、、、あなたたちの思考回路(ひたすら責任逃れ、リスク回避)こそ、陰険な人種差別に繋がると思うのですけれど。

配慮は必要です。円滑に人間関係を進めていく上においては、(相手が嫌がるだろう表現を封印することは)あっても良いと思います。でもそれは、あくまで2次的な、潤滑油としての存在なのです。

それ(やみくもに封印すること)が主体となってしまえば、本末転倒、逆(本質的な)差別に連なる、単なる自己保身、責任逃れでしかないのではないでしょうか?

健全な市民たちの(集団性自己中的)コメントが、僕には恐ろしく感じるのです。

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①ー2

2024-10-14 08:11:01 | アメリカン・ポップスearly60’s

日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①のつづき

 

60年代後半以降のポップ音楽は、誰もが“金太郎飴”のように、「主張」「反抗」「改革」、そして「愛」「平和」「平等」の合唱です。繰り返して言うけれど、それが本当の改革に繋がるとは僕には思えない。1000の叫びよりも、1の実行のほうが尊いと信じています。

全面否定される(というか頭からバカにされる)ことは承知しています。敢えて言います。「ロック」も「フォーク」も「ブルース」や「ソウル」も、“いかにも”感はたっぷりでも、言葉に“重み(深み、真実味)”がない。僕は、(改革に繋がりうる)真の言葉の重みは、それと気付くことの少ない、ごくありきたりの表現の中に見つけることが出来る、と思っているのです。

誰かがそのような前提で、別の視点から「60年代アメリカンポップス」を俯瞰してくれれば、と思うのですが、(ごくマニアックなものは別として)そのような視点からの言及は、上記の内田樹氏の文章以外に出会ったことがありません。残念でなりません(だから今「涙くんさよならの謎」の物語りを書いているのです)。

60年中期以降に成された「新時代への転換」を主導したのは、主張・反抗・反体制の「ロック」「R&B」「フォーク」を主体とした音楽(及びその周辺)カルチャーに関わる人々であることは確かでしょう。

しかし、その転換期には、「C&W」およびそれに基づく当時の「ポップス」も、別の次元から(ポジティブであるかネガティブであるかはともかく、そして非常に複雑な形で)大きく関わったはず、ということは先に書きました。

当時のポップカルチャー(大衆文化)の代表でもあった「アメリカンポップス」と、その一方の生みの親でもある「カントリー音楽」の関係には、極めて複雑な背景があるようです。以下はその一例。

Billboardのヒットチャート上では、1950年代中期に社会現象となるほどの爆発的な人気を博したエルヴィス・プレスリー、更に50年代末にかけてのリッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースら若いポップシンガー達のメジャーヒット曲は、C&Wのチャートでもグロスオーバーして大ヒットするのが当たり前でした。

しかし、60年代に入ると、50年代後半の蜜月関係から一転して、両ジャンルに跨るクロスオーバーヒットが、ピタリとなくなってしまいます。60年代の中期に至るまで、両陣営は、互いのヒット曲を全く受け入れない(Popチャートのほうには、ごくまれにC&Wの大ヒット曲がランクされはしたが、C&Wチャートには、カントリー調のPopヒットは、ほぼ全く登場しなかった)鎖国状況が続きました。黒人歌手と白人歌手のヒット曲が入り乱れて登場していたR&Bチャートとは対照的に、C&Wチャートは(いくらカントリー要素が強い曲であっても)ポップ歌手の曲を断じて受け入れはしなかったのです。

不思議なことに、その全く同じ時期(ビートルズがアメリカに来襲、ボブ・ディランやモータウン勢が台頭するまでの数年間)、アメリカの一般大衆に最も受け入れられていたのが「ポップ・カントリー」です(「ナッシュビル・サウンド」もほぼ同義語、当時は、主にポップ歌手によるカントリー調の楽曲に対して呼ばれていたように思いますが、現在では「ポップ・カントリー」も「ナッシュビル・サウンド」もC&W界の歌手による楽曲に対してのみ使われているようです)。

カントリー要素がごく強い曲だけでなく、一般のヒット曲も、程度の差はあれカントリー的な要素を持ち合わせていました。

アメリカ文化の象徴ともいえるポップ音楽の世界は、カントリー系のポップヒットが大多数を占めていたのです。

にも拘わらず(だからこそ?)、ポップ界とカントリー界の交流遮断、これを一体どのように解釈すればいいのでしょうか? ことに「ポップカントリー」が興隆の極みにあった62年は、極めて僅かな例外を除き、両陣営の曲がクロスオーバーしてそれぞれのヒットチャート上位に現れることはなかったのです(唯一の例外がジョニー・ティロットソンの「涙ながらにIt Keeps Right On A Hurting」と「夢の枕をSend Me The Pillow That You Dream On」)。

カントリー界からすれば「親(カントリー)離れした手に負えない子供(ポップカントリー)の出現」あるいは「軒を貸して母屋を取られる」というところでしょうか。新時代到来の直前に、別の形での「大人と子供の家族内対立」があったわけです。

1962年は、ジョニー・ティロットソンが「涙ながらに」で(60年の「ポエトリー」に続く)2度目のブレイクを成した年でもあるとともに、“ポップス黄金期”の主役たちが、最も光り輝いていた年でもあります。同時に、イギリスのビートルズやアメリカのビーチ・ボーイズらの、新時代のアイドルたちがブレイクの兆しを見せ、ボブ・ディランを旗手とした、“メッセージ”を込めた新たな歌の担い手たち”も、虎視眈々と台頭の機会を狙っていたのです。

そして、「天地変異」が起こりました。ビートルズのアメリカ来襲。ある意味成熟の極みに達し、膨らみに膨らんだ「the Golden Age of American Pops」は、その頂点で、一気に破壊したのです。

ところで、ジョニー・ティロットソンをはじめとした“旧時代”のティーンアイドルたちは、ビートルズの出現によって、すべからく“駆逐”されてしまった、というのが定説となっています。それは事実なのでしょうか? 答えは「そうである」、と同時に「そうではない」。二つの相反する、別次元の“事実”が存在するのです。すなわち「天地変動により崩壊した」「崩壊とともに天地異変が起こった」(鶏と卵の関係)。

ビートルズの出現を境に、旧時代のティーン・アイドルたちが駆逐されてしまったのは、紛いもなき事実です。「狭間の世代24人衆」の、ビートルズ登場の1964年を挟んだ前後数年の、ビルボード・トップ10ランクイン曲数の推移を見ていきましょう。

年度、トップ10曲数(アダルトのみのトップ10曲を加えた数)、Johnny Tillotsonのトップ10曲数(同)。*原著では表で表示。

1962年 37(49) 1(3)

1963年 21(37) 1(2)
1964年 11(24) 1(3)

1965年 03(14) 0(1)
1966年 03(04) 0(0)
1967年 02(02) 0(0)

一目了然ですね。64年以降のビートルズ達の登場と共に一気に消えてしまった、というのは、間違いのない事実ではあるようです。

でも、それとは違う見方も出来ます。ジョニー・ティロットソンたちティーン・アイドルの衰退と、ビートルズ以下ブリティッシュ勢の台頭は、それぞれ個別に起こった現象であると。時代の要求が、旧勢力を廃し、新勢力を求めていた、、、たまたま、そこにビートルズたちが出現した、そうは考えられないでしょうか。

もし、この時(64年春)にビートルズが登場していなくても、それに代わる“誰か”(おそらく今では無名のアーティスト)が、その役目を担っていたはずです。

次章で紹介する“狭間の時代のシンガー24人衆”についての表を、改めて眺めて下さい。連続ヒット期間が10年近くに亘る2人の女性歌手コニー・フランシスとブレンダ・リーを除けば、大半の歌手の“賞味期限”は、5~6年というところです。

ということは、初ヒットが早ければ早いほど、ヒット・チャートからの退場も早い。少なからぬ歌手が、ビートルズ登場より、かなり前からヒット・チャートから姿を消したり、勢力が衰えたりしているわけです。

逆に、登場が遅い歌手はより遅くまで、すなわちビートルズ登場後も1~2年間は、ヒット曲をチャートに送りこんでいる傾向があります。ついでに言えば、早めに退場した歌手には、もう一回復活の機会が与えられている傾向もあります(復活というよりも一発ヒット、本当に復活したと言えるのは、ポール・アンカとニール・セダカの2人だけ)。 

ビートルズの登場と、自らの退場が、見事に完全に重なるのは、ディオン。50年代の末から60年代前半にかけての5年間余、Top10ヒットを連発、それが64年1月の「ドリップ・ドロップ」をもって、突如途切れます。以降(メッセージソングでの突発的一時復活があるとはいえ)、Hot100からも、ほとんど姿を消してしまうのです。

彼の場合は、ティストがビートルズと重なるので、そのために見事にとって代わられてしまった、ということもあるのでしょうが、実際のところは別の理由があったようです(薬物中毒のためとも言われています、、、ちなみに2000年代に入って最も溌剌と活動を続けているのが、彼ディオンです)。

「フォーゲット・ヒム」で打ち止めのボビー・ライデルや、「ロデイ・ロー b/w ホッカ・トッカ」が最後のビッグヒットとなったチャビー・チェッカー、「フールス・ラッシュ・イン」「フォー・ユー」「ザ・ベリー・ソート・オブ・ユー」の “ロッキン・スタンダード”3部作で最後の踏ん張りを見せたリック・ネルソンも、それに近いといえるかも知れません。もっともリッキーの場合は、7年半も連続ヒットを続けてきたわけですから、この辺りでの退場は、仕方が無いことなのだと思います(さすがに彼は、ヒットパレード界の第一線から退場後も、メジャーヒットの「シー・ビロングス・トゥー・ミー」「ガーデン・パーティー」をはじめ、時折C&Wチャートなどに顔を出しています)。

ビートルズ登場よりも少し前に、勢いが衰えていたのは、ニール・セダカ、ジミー・クラントン、ボビー・ヴィー、ボビー・ダーリンといった面々です。二人の“ボビー”は、早めに退場した分、後(66年)に一次的復活(ヴィーは「すてきなカムバック」など、ダーリンは「イフ・アイ・ウァー・ア・カーペンター」など)、もう一人の“ボビー”、ライデルは、より遅くまでメジャーヒット(「フォーゲット・ヒム」)を放っていたため、復活の機会は無し、という図式です。

ジョニー・ティロットソンは、ビートルズ登場の後も、丸2年間頑張りました。ポップスのトップ10に関しては、ディオンやライデルと同様、64年年頭の一曲(「トーク・バック・トレンブリング・リップス」)が最後となり、ビートルズと見事に入れ替わるのですが、その後もポップスのトップ40ヒットや、アダルトのベスト5に入るヒットを何曲も続けます(コニー・フランシスやブレンダ・リーも似た形跡)。

リッキー以外の57年デビー組、エヴァリー・ブラザース、フランキー・アヴァロン、ポール・アンカ(彼とニール・セダカは、70年代に入って大復活を遂げます)といった面々は、ビートルズの登場よりずっと前、62年後半~63年初頭にはヒットパレード界から姿を消しています。
逆に、56年に初ヒットを放つも、その後丸4年間ヒット曲が無かったロイ・オービソンや、61年初ヒット組の、ジーン・ピットニー、デル・シャノンらは、出足が遅れた分と、ビートルズやストーンズと何らかの縁があったということも関与してか、ビートルズ登場後の64年-65年にもTop10ヒットを持ち、その後も何年か、チャートヒットを続けていました。

さらに62年初ヒット組の、ボビー・ヴィントン、ヴィック・ダナ、トミー・ロー、ルー・クリスティーらになると、チャートヒットはより遅くまで続きます(もっとも後2者は、60年初ヒットのブライアン・ハイランド共々、ヒット曲が連続せず、1年前後おきに、断続します)。ヴィントンは、24人衆のなかで例外中の例外で、断続してもすぐ復活し、60年代のみならず、70年代を通して、第一線で活躍し続けます。

いずれにしろ、彼らの退場は、ビートルズの登場と、直接の関係があるわけではないのです。引き金となった要因~大衆が新しい波を求めていた~は同じだとしても。片方は、それに乗って登場し、片方は、それに流されて退場したというわけです。周囲の状況とは関係なく、自らが息切れしてしまった、ということもあるでしょうし、結婚によって、“アイドル”としての存在意義が薄れてしまった、ということも関係しているかも知れません。 狭間の歌手たちの衰退と、ビートルズらの台頭が、たまたま見事に一致した、それだけです。むろん、時代の要求によって、そうなったのには違いないのですけれど。

次の表(*原著では2種の表で表示)は「狭間の世代24人衆」の、デビー(初ヒット)からの連続ヒット(一年以内の間にHot100チャートインを継続)の期間です。

初ヒット(Billboard Hot100)から最終連続ヒットまでの年数。最も短いのがLesley Goreで4年3カ月19曲、以下Frankie Avaronの4年7カ月24曲、Jimmy Clantonの4年8カ月11曲、Vic Danaの4年9カ月13曲、Freddy Chanonの5年1カ月20曲(7年2カ月22曲)、De Shannonの5年2カ月16曲、The Everly Brothersの5年7カ月34曲(7年8カ月36曲)、Bobby Rydelの5年8カ月30曲、Bobby Veeの5年9カ月29曲(8年8カ月37曲)、Gene Pitneyの6年21曲(8年24曲)、Dionの6年1カ月28曲、Chubby Checkerの6年1カ月31曲(7年3カ月32曲)、Paul Ancaの6年6カ月34曲、Bobby Darinの6年8カ月33曲(10年8カ月40曲)、Roy Orbisonの6年8カ月28曲、Neil Sedakaの7年3カ月20曲、Johnny Tillotsonの7年3カ月26曲、Rick Nelsonの7年6カ月50曲、Bobby Vintonの8年1カ月36曲(15年46曲)、Brenda Leeの9年50曲(11年51曲)、Connie Francisの9年5カ月55曲。

*()内は連続ヒットの基準をやや緩やかにした場合の集計。Brian Hyland、Tommy Roe、Lou Christieはヒット曲が断続するので除外。

その因果関係はともかく、「旧世代」と「新世代」が見事に入れ替わっているのは、事実なわけです。ビートルズがアメリカ上陸を果たした64年初めに巨大な波が押し寄せ、その2年後の66年前後には、ほぼ完璧に入れ替わってしまったことになります。

ジョニー・ティロットソンに関して言えば、ビートルズの初チャート週に最後のTop10から陥落、しかしその後も丸2年間、激動する新世代音楽に混って第一線に踏みとどまったのですが、力尽きて65年最終週を最後にBillboard Hot100チャートに別れを告げます。

面白いいことに、直後の66年初頭から、それまでリリースは繰り返していてもヒットに結びつかないでいた、年齢の上では同世代(あるいはむしろ上の世代)の将来の大物歌手たちや、あるいは、なぜかその期間(60年代前半)だけヒット曲が途切れ低迷していた以前からの大物アーティストたちが、一気に台頭あるいは復活してきたのです。

それは、単に歌手や楽曲が入れ替わったというだけではなく、様々な仕組みや現象も一転してしまいました。例えば、、、66年以降になって、それまでの数年間(ちょうどティロットソンの活躍期間に当たる60~65年)ほとんど記録されることのなかった公認ミリオンセラー曲が、次々と出現したこと。

ヒット曲のHot100へのチャート期間が、大幅に伸びたこと(ジョニー・ティロットソン自身は、どちらかと言えば、チャート期間が長いほうだった)。

カントリー界の鎖国(ポップカントリーの勘当?)が解け、カントリー系ポップシンガーの曲が、C&Wチャートも多く現れるようになったこと(以上3点は、新たな現象ではなく、60年以前の状況に戻った)。

60年代前半までは、一曲につき2分30秒前後(1分半~3分)が常識だった曲の長さが、大幅に増えて4分前後の曲も珍しくなくなってきたこと(その嚆矢は66年暮れのビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレイション」)。

曲にプロモーションビデオがセッティングされたこと(ついでに言えば、日本でジャケットが総カラーになったのは64年前後、ただし欧米では50年代末からカラージャケットになっていた)。

その転期には、必ずしも全く新しく成された事例だけではなく、ちょうどジョニー・ティロットソンたちが活躍していた60年代前半を挟んだ“特別な期間”(すなわち「ポップス黄金期」)だけを例外期間として、以前の状況が改めて復活したものも含まれています。

ジョニー・ティロットソンの第一線での活動期間は、その“特別な期間”に、見事にすっぽりと収まってしまいます。まるで意識的に彼(をはじめとする“狭間の世代”の面々)を仲間外れにしているような(笑)。

ポップ音楽とアメリカ文化(政治・経済・宗教も)は、川崎氏の指摘のように、密接に係っています。そのことを踏まえて、源流としてのロックやジャズやR&Bとポップ音楽との関係については、多くの人々が、様々な問題提起を行い、関係を考察し、歴史を堀り起こす作業を行っています。

しかし「ポップス黄金期」(とその母体を成すと言えるカントリーミュージック)は、現在のポップ音楽の源流に直接つながらない無関係な(あるいは厄介な、目障りな)存在と見做され、存在自体がスルーされてしまっているように思えてしまう。

「American pops of Golden age」は、アメリカ文化の一完成形であるとともに、歴史の波に洗い流されてしまった幻の楼閣です。あるいは、現代ポップスに、源流とは異なる方向から流れ込む「幻の巨大な湖」と言って良いでしょう。当時の主役でありながら、現代に連なるポップ音楽の流れから見れば、それとは無縁の“特別な空間”に咲き誇った仇花なのかも知れません。

だとしても、「新時代のカルチャー」がスタートした時にそこにあった背景は、その時点での完成形としての文化「特別な空間=ポップス黄金時代」です。評価や好き嫌いは別として、それに対する認識をきちんと行わなっておかないことには先に進めないのではないかと思うのです。

でも、(僕の知る限り、唯一当時のポップスとカントリー音楽の関係について多くの的確な評論を著わし続けてきた高山宏之氏を除き)誰一人として、正面から取り組もうとはしない。そして、有無を言わせず「旧時代のポップ音楽」を無視する(または蔑む)ことで、結果として60年代中期以降の(現代に繋がる)「新時代ポップ音楽」(及びそのルーツとされるロックやジャズやR&B)の正統性をより強調しているように思えてなりません。

ある意味、ジョニー・ティロットソンは「特別な時代」の象徴的存在です。なぜ、Johnny Tillotson的なものが排除され、非Johnny Tillotson的なものが評価されるようになったのか?無視・軽蔑・排除の対象となったJohnny Tillotson的なものとは何か?

ジョニー・ティロットソンで、すぐに思い浮かぶフレーズは、

まず、「ビートルズらに駆逐された旧世代の代表」。

ポジティブには、「ポップスとカントリーを結びつけたティーン・アイドル歌手」

日本に於いては、「日本とアメリカでヒット曲が全く異なる」。

オールデイズにある程度詳しい人なら、この三つのどれかを答えるでしょう。

さらに細かく彼特有の現象を示すと(マニアック過ぎて誰も知らないでしょうが、笑)「コンスタントヒットメーカー、デビュー以来7年余23枚のシングル盤が全てBillboard Hot100にチャートインし、3曲続けてランクポジションが下降したことが一度もない」「リリースしたシングル盤の曲調が、毎回ガラリと異なる」「24人衆+1組中、女性2人と後発のボビー・ヴィントンを除いては、他ジャンル(Adult- componteraly,C&W, R&B)とのクロスオーバーヒットが際立って多い」。

それらの現象(後3つはともかくとして)は、「旧世代音楽」と「新世代音楽」の関係、ひいては現代アメリカのカルチャーや人々の思想の形成を考える上に於いて、意外に大きなカギを握っているのではないかと思うのです。ジョニー・ティロットソンの(それが微々たるものだとはしても)功績と航跡を探ることで、何かが見えてくるのではないかと。

ジョニー・ティロットソンは、ビートルズの曲を、一曲も取り上げていません(メンバーの作った曲だけでなく、レコーディングした全ての曲を)。同時代のメジャー歌手としては、異例中の異例でしょう(ちなみにエルヴィスとは数十曲が重なる)。偶然ではないと思います。67年、自作の「Long Hear Commitiiビートルズなんて怖くない=仮邦題」に見て取れるように、彼なりの意地や反発があったのかも知れません。

僕は、思想的にはリベラルな、いわば左寄りの(それも相当過激な)立場にあると自認しています。しかし、いわゆる左寄りの文化人の多くに対しては、かなりの違和感を持っています。素直に信用できない、というか、言っていることと、実際の行動が違うのではないかという想いがあります。あるいは、いかにも高尚なかっこいい言葉や行動の中に、どうしようもない薄っぺらさを感じてしまう。僕は自分で思っているようなリベラルな人間ではないのでしょうか? ほかの人々より感受性が劣っているのでしょうか? それとも、よほど頭が悪いのでしょうか?

馬鹿にされることを承知で言います。僕は「環境破壊」に反対するために、生涯車を運転しませんでした。世界人類の平等な平和を願うために、自らの家庭を築くことを放棄してきました。路傍で物乞いする人々には、仮に自分が100円しか持っていないときでも、応えてきました。「そんなのまるで意味がない、単なる自己満足」と言われても構わない。実践が可能なことを実践しているだけです。

でも、「愛」や「平和」を、まるでファッションのように捉え、自分では少数派で革新的な思考の人間と思い込み、実のところは大衆迎合の多数派にほかならない、リベラルを(無自覚に)装った口先だけの平和・平等主義者よりはマシだと思っています。

もう一度、川崎氏と内田氏のsymmetricな文章を、ピックアップしておきます(◆:川崎、■:内田)。70年代以降の主流ポップス(ロックやソウルなど)に対する礼賛と、それらに対する疑問視(違和感)の対比です。

1970年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。

■1977年を最後に私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵声を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。

 ◆「必要なときにはいつでも立ち上がり自らの意思を表明する」アメリカの大人。

「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男。

 

 

 

 

 

 

 

 

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