猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

歴史上最悪の奴隷制は200年前のアメリカの奴隷制

2020-07-14 22:39:09 | 国家


ジェームズ・C・スコット著の『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房)を、ようやく、3日前に手にした。哲学者、柄谷行人の書評が不快だったので、現物で確認すべく、5カ月以上前に図書館に予約した。

なにが不快かというと、「奴隷制が国家を可能にし、国家が農業革命を可能にした」とも読める柄谷行人の要約である。

現物を手にして、スコットの本書は、読みづらい、真意を知るに注意がいると、感じた。
スコットは、彼が属している知識人の世界をクソと思って、その常識に反抗しているのだが、訳で読んでいるので、翻訳の誤りかもしれない。スコットもクソの仲間か、ほんとうの反逆者なのかわからない。スコットの評価には時間がかかりそうである。

歴史の教科書は、4大文明で始まる。なぜ、そうなのか、私にはわからない。そして、4大文明の創始者は、いまだに、文明の担い手かというと、中国をのぞいてそうではない。メソポタミア文明創始者のシュメール人は、いまどうなっているか、歴史家でも知らない。

スコット自身が指摘しているように、4大文明が養っていた人口はわずかで、世界は、4大文明と関係なく回っていた。4大文明中心に歴史を論ずるのは、本来は、おかしい。

歴史は、文字で伝えられたものに大きく依存している。だから、「歴史」を、知識人たちが作った虚構と考えたほうが、適切である。

メソポタミア文明に奴隷制があったかは微妙である。「奴隷」という概念が明確ではないからだ。スコットは「奴隷」という言葉はなかったが、それに相当するものはあったという。

同じ問題は、聖書を読んで、私もぶつかった。日本語聖書は、同じヘブライ語を、同じギリシア語を、「奴隷」と訳したり、「しもべ」と訳したりする。

古代のメソポタミア社会や地中海社会は、誰かに仕えて生きる者は「奴隷」であり、仕える主人をもたない者が「自由人」である。したがって、「しもべ」と「奴隷」は同じである。現代の会社勤めをしている者は、「社長」という主人をもつから、古代人の感覚では「奴隷」である。反乱しない「奴隷」は、スコットのいう「飼いならされた穀物や家畜と同じ存在」になる。ストライキを起こさない勤め人はクソだ。

カール・カウツキーは『キリスト教の起源 歴史的研究』(法政大学出版局)で、ローマ社会のプロレタリアと奴隷について詳しく言及している。プロレタリアとは資産をもたない自由人を言い、奴隷はだれかの所有物である人々を言う。プロレタリアは土地も職もないから、奴隷より貧しいこともすくなくなかったのである。

支配者は、プロレタリアが反乱を起こすと、奴隷を使ってプロレタリアの反乱を抑え込み、奴隷が反乱すると、プロレタリアを使って、奴隷の反乱を抑え込んだ。

残念ながら、プロレタリアと奴隷とが手を組んで、支配者と戦うことはなかった。皇帝は自分の奴隷(しもべ)を厚遇し、私兵として利用していた。いっぽうで、プロレタリアのご機嫌をとっていた。

「奴隷」とは古代社会に限られたものではない。歴史上最悪の奴隷制は、200年前のアメリカの奴隷制である。

それまでの「奴隷」は主人の所有物であったが、外見は、主人も奴隷も変わらない、すなわち、肌に色で区別されることはなかった。同じ人間であるとみなされていたのである。戦争での捕虜ばかりが奴隷になったと思われがちであるが、古代社会では、借金のかたに、奴隷になった者も多い。

200年前の奴隷は、人間だと思われていないのだ。古代にない、人種という考え方が、アメリカの奴隷制をささえていたのである。歴史の教科書に騙されてはいけない。アメリカの奴隷制は最悪なのだ。いま、アメリカで銅像を倒す人々がいるが、彼らの行動は正しい。なぜ、クソみたい人間が銅像になって崇められているのか、その怒りがよくわかる。

スコットがなぜ200年前のアメリカの奴隷制について言及しないのか、不可解である。アメリカ社会の負の遺産はまだ清算されていない。

入出国制限の緩和交渉の入り口はほぼ同時とし、出口で台湾を先行させる

2020-07-13 21:43:23 | 新型コロナウイルス

7月10日の朝日新聞に、『出入国 台湾先行目だたせず』という記事が出た。
この記事は、新型コロナ感染対策として、いま世界で広がっている出入国制限の「緩和」交渉の舞台裏の報告である。

現在、新型コロナ感染防止を理由として、日本は、日本人をのぞき、129ヵ国からの入国を拒否している。いっぽう、148ヵ国では、日本人の入国が制限されている。

世界経済はグローバリズムのなかで動いているはずなのに、なぜか、人の往来を制限するナショナリズムが、世界的に、政治の世界で起きている。

私はなぜかが良くわからないのだが、新型コロナ流行のため、日本は、各国によって入国が拒否され、また、各国からの入国を拒否したにもかかわらず、この間も貿易が行われている。

実際、毎日、日本では、外国産の食べ物(たとえば乳製品や小麦粉)が食べられ、工業製品が外国に輸出されている。

ということは、物資の輸送に携わる人は、形式的には、入国していないことになるのだろうか。船の場合は、船から降りなかったことにすればよいが、飛行機の場合はどうするのか。飛行場内に、どこか、日本に上陸とみなされない建物があるのだろうか。

工業製品の輸出管理は経済産業省が行っており、食料品の輸入管理は農林水産省が行っている。
税関は財務省の組織である。
入国の拒否は法務省の管轄である。検疫は法務所の外局が行っている。空港や港のPCR検査は厚労省の管轄ではない。
どこの国が日本人の入国を制限しているかの情報把握は外務省の管轄である。

新型コロナ対策は、各省、バラバラに行っており、それを指示・統制しているのは、首相官邸である。

外務省は、6月から、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、ベトナムとの出入国制限の緩和交渉をした。相手国からの人の入国を認めるだけなら相手国と交渉する必要はない。日本が通告するだけで良い。オーストラリアとニュージーランドは日本人の入国を拒否している。交渉が成立したのは、タイ、ベトナムだけである。

外務省は、つぎに、7月1日から、中国、韓国、台湾、ブルネイとの制限緩和の交渉にはいったと発表した。

さて、7月10日の朝日新聞の記事は、その制限緩和の交渉の背景についてである。

〈「台湾を先行させてね」。複数の政府関係者によると、安倍晋三首相は第2弾の検討にあたり、そう指示したという。〉
〈台湾からの入国緩和は自民党保守系議員らの要望でもあった。〉
〈外務省は「交渉入りは同時でなければ、中韓との関係がこじれかねない」と懸念した。〉
〈交渉の入り口はほぼ同時とし、出口で台湾を先行させる方針が浮上。さらに日本と比べても感染状況の落ち着いているブルネイ、ミャンマー、マレーシアなどを加え、懸案の中韓台をおよそ10ヵ国・地域のなかに埋没させる方向となった。〉

「出口で台湾を先行させる」とは八百長レースではないか。こんなことが、外部に漏れ出たことは、スキャンダルではないか。

他社の記事や、台湾との貿易の業界記事を見ても、この朝日の憶測が裏づけられる。

しかも、台湾は日本人の入国を拒否しているらしい。
さらに、安倍晋三が、今年の2月の段階で、中国から入国拒否を行わなかったことへの、百田尚樹らの批判にたいし、負い目を感じていることも裏にある。
こんな状況で、八百長レースは うまくいかないだろう。

しがらみを愚痴っても しかたがない。

経済活動の再開させるのだから、グローバルな人の往来も再開させる必要がある。人の往来があって、検疫が有効に機能するよう、検査体制を整えるのが本筋である。

検疫を政治利用し、八百長レースが外に漏れるとは、安倍政権もタカが緩んでいる。バカな安倍晋三を神輿にかつぐ外務省も前途多難である。同情せざるをえない。

しかし、沖縄の米軍基地で新型コロナの集団発生が起きているということは、どう考えたらよいのだろうか。米軍基地にくる米兵は検疫の対象ではない。日本に米軍基地があるのは、グローバリズムとなんの関係もない。75年前の米国による日本の占領が、米軍基地という形でいまだに継続しているだけである。


戦後民主主義が生きていた時代、自由がいっぱいあった

2020-07-12 22:13:23 | 思い出
 
私の子ども時代は戦後民主主義が生きていた。教職員組合も総評もまだ健在でストライキなるものもあった。
 
私が小学1年生のとき、校庭で転んでひざを擦りむいたら、担任の先生がきずぐちをなめてくれた。小学4年のとき、ヤマトタケルノミコトやショウトクタイシが作り話しと先生から聞いてびっくりした。理科の時間に惑星と恒星との違いを先生に尋ねられ、みんな好き勝手なことを言っていた。何が正解だったか覚えていない。とにかく、授業はにぎやかだった。
 
裸足だったので、学校の便所が汚いのが苦痛だった。給食は嫌いのものは食べず、そのおかげで、みんなが食中毒になっても、食べない私だけが無事だった。
家にはテレビがなく、放課後や日曜日にはときどき学校に行って、白黒テレビを見ていた。
 
中学受験なるものはなかった。塾の話しは聞いたことがない。大学付属中学校に進学する子どもはごく少数で、その存在に気づいていなかった。私立中学は女子用で、男女共学を嫌う親のためにあった。
 
中学のとき、国旗掲揚の問題が発生し、校長が毎朝1人で国旗を掲揚していた。
 
そのころ、先生に反抗するのがカッコいいと思い、クラスのみんなを煽って授業放棄を繰りかえした。
中学2年のとき、小学校のときの遊び友達が放送部の部長になり、入部を誘ってくれた。おかげでクラスや学年を越えた女の子たちと知り合えた。面白い子がいて、その子と組んでちょっとエッチなトーク番組を毎日やって、真面目な子の集まる新聞部に批判されていた。
中学3年の後期に、深く考えずに、生徒会副会長に立候補した。放送部にいたことで、不良グループが応援してくれ、当選した。やったことは、はみ出し仲間とともに、ひっきりなしにイベントを企画し実行することだった。
先生方からみると、授業放棄を繰り返すより、イベントを繰り返すほうが、良かったのだろう。講堂を使うための交渉に職員室に行くと先生方が支持してくれた。
 
戦後民主主義は教師などの一部の知的集団の運動、と非難する者もいるが、戦前の規律主義や集団主義から脱却するために、仕方がなかったし、必要だったと思う。
 
戦後民主主義が、まだ、生きていた時代、
国旗や国歌や道徳のある、いまの学校よりも、ずっと自由があって寛容だった。
どこまでも飛んでいけるような、透明で深い空がどこまでも広がっていた。
毎日が祭りの連続だった。

新型コロナで「確率で語れ」は時期尚早、それより実態調査が必要

2020-07-11 22:28:46 | 新型コロナウイルス


7月11日現在、東京都との新型コロナの感染者は3日続けて200人超えである。小池百合子は、まだ、制御下だと言い続けているが、明らかに増加の傾向にあり、もはや、保健所職員によるクラスター(集団感染)対策だけで十分ではないだろう。

私のいる横浜市でいうと、平日の昼間、緑道を歩いている現役世代を見なくなった。テレワークをやめて、みんな職場に復帰したと思われる。平日の朝や夕方の市営地下鉄は高校生で混んでいる。横浜市の安売りのスーパーは人でごった返しである。社会的距離など無視されている。きのう、定期検査で、大学病院に行ったが、入り口で検温しているにもかかわらず、血液検査所や診察待合所で咳をしている人が複数いた。

私は、会社を退職して、NPOで働いているので、都心に行くこともない。きっと、通勤電車はすごく混んでいるのであろう。

政府の人命優先から経済優先へのかじ取りで、何かのタガがはずれ、新型コロナ流行以前に戻っている。水際対策(空港や港などの検疫)に失敗した日本の新型コロナ対策は、市民の行動変容に大きく依存していたはずなのに。

きょうの朝日新聞に、ウイルス学者の西村秀和へのインタビュー『新型コロナ 専門家は確率を語れ』がのっていた。この記事は誤解されると、人命優先から経済優先への流れを押すものと なりかねないので、私が気づいた点を書きつづりたい。

まず、「確率を語れ」といっても、実態を調査しないと「確率」なんて語れない。そして、めったに起こらないことの「確率」を語るというのは難しいことである。たとえば、福島第1原発の事故は、アメリカの原発メーカが言っていた確率では起こり得ないことだった。

いっぽう、過度の自粛は、西村のいうように、みんなの負担が大きく、これから、1年か数年か、しばらく、新型コロナとともに生活していくには、負担が軽くて効果のある「行動変容」を広めていくしかないだろう。また、個人の自粛ではできないことを、政府や自治体が責任をもっておこなわないといけない。

インタビューで、西村は、感染者の遺体を、遺族に合わせなくて、焼却することを、不要だと言う。理由は

〈息をしないご遺体からウイルスは排出されません。皮膚に残っていたとしてもお清めをするか体に触れなければよい〉

からと言う。そうだろうと思う。しかし、この西村の話しに、どこにも、確率は出てこない。ウイルスの種類によって、それぞれ特性があるが、コロナウイルスはアルコールや消毒薬に弱いという仮定から論理的に不要と西村は推定しているのだ。いまのところ、この仮定を否定するような事実はでてきていないから、正しそうだが。

西村は、また、なんでもかんでもアルコール消毒をする必要がないという。その理由として、つぎのように言う。

〈感染者のせきでウイルス1万個が飛んだと仮定しても、多くは空気の流れに乗って散らばり、机などに落下する1センチ四方あたり数個。では、それが手につく数は?鼻に入る確率は?時間経過でもウイルスは減る。〉

感染者と机との位置関係によって、また机の場所によって、落下する個数は異なるだろう。感染者が机の前に座っているなら、場所によって、1センチ四方あたり1000個を超えてもおかしくない。だから、条件によっては、さわって感染してもおかしくない。

なんでもかんでもアルコール消毒する必要がないが、出入りが激しくて誰がいたかわからないときは、消毒するにこしたことはない。

西村は、また、つぎのように言う。

〈ウイルスは、呼吸で体内に達する方が物を介するより、はるかに少ない数で感染する特性をもちます〉

呼吸系感染症のウイルスなら当然そうだろう。しかし、ここでも、ウイルスの種と状況によって「はるかに少ない」の程度が変わるから、条件抜きでそれを確率で語ることはできない。

最近、空気感染をいう医療関係者がアメリカで出てきたが、そうかそうでないかは、感染予防という立場から重要な問題で、確かな知見があるなら、西村に空気感染を否定してほしかった。

また、西村は、病院と一般社会を分けて考えるべきだとし、つぎのように言う。

〈厚生労働省が6月実施した抗体検査で、東京の保有率は0.10%でした。そこから推測すれば、街中そこかしこでウイルスに遭うことはありません〉

これは、「厚労省は6月16日、東京、大阪、宮城の住民約8千人に抗体検査を実施した結果を発表した。アボットとロシュという二つのメーカーの検査試薬で検査し、いずれのメーカーの試薬でも陽性と判断された人は東京は0.10%、大阪は0.17%、宮城は0.03%だった」という抗体検査のことである。

じつは、7月2日の朝日新聞デジタルで、免疫学者の宮坂昌之が、回復者の3分の1が抗体を失っているという。抗体検査の精力的に行っている東大先端研の児玉龍彦も同じことを言っている。抗体にはIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5種類があり、感染最初に出現するIgA、感染中に発現するIgM、回復期のIgGの検査薬が発売されている。いずれも、時間の経過とともに、他のウイルスよりも早く、抗体の量が、減るのである。

また、「いずれのメーカーの試薬でも陽性と判断された人」というところも気になる。偽陽性は減るが、偽陰性は増加する。政治的な発表である。

それに、0.17%の大阪より、0.10%の東京の方が、現在、感染者が急拡大している。そして、新宿や池袋のホストでない人の感染が急拡大している。

すなわち、6月の厚生省の抗体検査の結果は、どの程度意味あるかは、まだわからない状態である。「確率で語る」時期ではない。

首都圏では「市中で感染者に遭う」と思っていた方がよい。その場合でも感染しないためには どうしたら良いかを知っていることが だいじである。

専門家が「確率で語る」ことよりも、PCR検査、抗体検査の数をふやすことがまず前提である。「確率で語る」のではなく、「データで語る」が先である。「確率」の話しは、政治的な心理操作におちいりやすい。

そして、新型コロナ対策班が、個々の感染者から感染過程(体験談)をしっかり聞き取り、研究者とともに、新型コロナ感染のメカニズムの仮説を洗練していくことがだいじである。感染者自身がもっとも感染理由に心当たりがあるはずだと思う。

政府が新型コロナウイルス対策専門家会議を廃止したのは、誤りである。政府が最初から結論をもっていると みんなが わかれば、感染対策班の誰も真剣に働かなくなる。

[追記]
7月12日も、東京の新規感染者数が200人を超えた。4日連続の200人超えである。
7月16日は、東京の新規感染者数が286人、7月17日は293人と、これまで、記録を続けて破った。

右翼と左翼はどうちがう? 雨宮処凛

2020-07-09 23:39:56 | 民主主義、共産主義、社会主義
 
昔、10年以上も前だが、雨宮処凛が『右翼と左翼はどうちがう?』(平凡社)の1章冒頭に
〈イメージとしては、右翼は日本の伝統を守り、国を愛する体育会系の人たち。左翼は権力が嫌いで、自由と平等を唱えるインテリ。といった感じだろうか。〉
と書いた。
もちろん、彼女はそうだと思っているのではなく、そう思っている人が多いのではと言っているのだが。
 
たぶん、いまは、インテリが「自由と平等」をとなえると思っている人は少ないのではないか。能力主義をとなえ、権利と義務や競争と効率を主張する大学の先生たちが多いと、みんな、感じているのではないか。
 
「右翼」だ「左翼」だということを、政党だとか、政策の選択だとか思う人にとっては、わかりにくい世の中になっている。
 
私は「右翼」と「左翼」との違いをつぎのように考える。
 
「右翼」とは2つの側面からなる。1つは、人はそれぞれ差異があるから平等である必要がないとする立場である。もう1つは、人が人を支配することは当然であるとする立場である。
 
「左翼」は、これに対し、人はそれぞれ個性があるが、社会的政治的に平等であり、人が人を支配することがあってはならないとするものである。
 
「保守」とは、平等ではない、人が人を支配する社会を守ろうとすることをいう。「革新」は、そのような社会を壊そうとすることをいう。
 
このように、「右翼」「左翼」の違いは、生きていくときの立場の違いだと思っている。
すると、確かに、私は「権力が嫌いで、自由と平等を唱えている」ことになる。
 
雨宮は「右翼は日本の伝統を守り、国を愛する」と言っているが、これは、左翼の「権力が嫌いで、自由と平等を唱えている」の否定ではない。しかし、「人が人を支配することは当然」という立場をごまかすために、「日本の伝統を守る」とか、「国を愛する」とか、言っているだけであると思う。
 
だいたい「日本の伝統」というのが意味不明だし、「国」というのも意味不明である。
 
「日本の伝統」というのは、「支配」を安定化させるための人工的に作られた「統合のシンボル」にすぎない。
 
「能」なんて別に農民や職人が昔見ていたわけではない。それが、現在では、伝統芸能ということで、政府が保護している。
 
現在の神社は、明治以降のものであり、それ以前は、神仏習合であった。天皇を神とするための政策が「神仏分離」で、日本の隅々の「神」が天皇の下に置かれた。天皇が夜な夜な行っている儀式は、明治時代に創作されたものだ。
 
新しいお祭りも「町おこし」として、地方自治体や商店街の住人によって始められている。
 
「日本の伝統」というなかに、昭和の「軍国主義」によって始められたいろいろな習慣がある。小中校での「起立」「礼」も、軍隊の真似である。
 
このように、「日本の伝統」は、誰かの都合で、常に新たに作られている。
 
能力主義をとなえ、権利と義務や競争と効率を主張する人も「右翼」である。「人はそれぞれ差異があるから平等である必要がない」とする立場がその背後に隠れている。
 
しかし、個々の政策で「右翼」「左翼」の違いを明らかにするのは、現実的には、むずかしいこともある。
 
貧しいもの、弱いものの生活を守るのが「左翼」と思うが、「EU離脱」が、「右翼的」か「左翼的」かを判断するのはむずかしい。イギリスのことだし、どうでも良いのではという気がしてくる。「EU離脱」で何を期待するかで、個人を「右翼的」か「左翼的」か、を判断するしかない。
 
日本でも外国人を研修生として最低賃金より安い賃金で雇っている人たちがいる。自分が儲かるために、外国人を安くこき使うことは良くないと思う。外国人労働者を雇うなら、日本人と同じ労働条件にさせないと、労働者の待遇の値崩れがおきる。
 
外国人労働者を入れるか入れないかでなく、労働者の権利が守られるか否か、で「右翼的」か「左翼的」かを判断するしかない。
 
新型コロナ対策の場合も、「私権の制限」がどこまで許されるかの判断もむずかしい。「左翼」の立場からすると、制限しないですむなら制限しないほうが良い。しっかり必要性の説明がないと納得できない。支配と被支配の構造があると、被支配者の意思が無視されがちである。
 
政策は、その目的の正当性と、目的達成のための合理性で判断することになる。目的達成のための合理性の判断には、公開された議論が必要だ。政府のなかに議論が閉じていて隠されていると、じつは、その目的も支配者にとって都合の良いもので、被支配者のことが無視されているのではないか、と疑いたくなる。
 
この1か月で、新型コロナ対策も、生命第一から経済第一に替わったように思える。健康も経済も達成可能な政策はないのか。
 
新型コロナ対策と称して膨大な補正予算が組まれているが、用途が判然としないものが多い。なぜ、いま、国会が開かれていないのか。支配者にとって、自分たちの支配を維持するために、国に借金させ、その金を仲間内で配っているのではないか、と疑いたくなる。