2日前の朝日新聞『(耕論)羊飼いの沈黙』が物足りなかった。
この(耕論)は国の借金をテーマにしている。「国の借金」は、経済の問題というよりはモラル崩壊の問題ではないかと思う。この点で、法学者や社会学者あるいは哲学者が参加した方が良かったと思う。
論者の一人、平野未来は「でも、膨大な借金という『負の遺産』だけを次世代に残してしまうことはいけないと思います」と言っているが、見当ちがいの発言である。なぜ、この平野に朝日新聞がインタビューしたのか、理解しがたい。
2014年に麻生太郎が「国の借金」は「国」が民間に借金することだと言っている。今年になって、この麻生の主張がネットで飛び交っている。この主張には、国の借金を国民が返す必要はないという考えが潜んでいる。私も、国民が返す必要がないと思う。
「借金」とは、「返す」約束にもとづく富の移動である。経済から見れば、富の総和は同じだから、返さなくとも何の問題も生じない。「返さない」は信用を傷つける。モラルの問題である。
貸し主は、借り主の「国」や政策担当者を訴えるしかない。裁判を行って、賠償金を勝ち取れるかという問題でもある。責任はだれにあるかである。自民党や公明党に投票しなかった国民もいるから、国民にまで責任をなすりつけることはできない。
返されなかった借金の結末は、安倍晋三や麻生太郎を禁錮刑にするか、死刑にするか、そうでなければ、怒った債権者が安倍や麻生の目玉をえぐり取ることで終わりそうである。
そうでなければ、「革命」が起きて、すべて、チャラになるだろう。
国の借金は、借り手と貸し手のモラルの問題だけで済まない、と私は思う。借り手が、借りたお金をどう使ったかが、さらに問題である。
景気浮揚のために、政府が、お金を借りて、一時的に財政出動するというのは、J. M. ケインズの景気対策である。景気がよくなれば税収が増えて借金を返せる。財政政策で、景気の波を平滑化したことになる。
しかし、1990年にバブルがはじけて以降、政府は借金をずっと返せなかった。政府は借金を繰り返した。政府の借金が国民にばらまかれて、景気が浮揚したのではない。政府から一部の人にお金が流れ、富の偏在が増したのである。経済的格差が増したのである。
これに反対して、2009年に民主党が、「コンクリートから人へ」という標語で、政権を勝ち取った。残念ながら、2012年の暮、自民党や公明党が再度政権を勝ち取ると、政府は爆発的に借金をするようになる。政権獲得に貢献した人たちにお金をより配るようになったからである。
東日本大震災の復興工事でも、福島第1原発事故の除染でも、政府の財政支出はホステスとの飲み代、愛人の生活費、レクサスや外車の購入費となったのである。これでは、マクロ経済理論がどんなに饒舌であろうとも、景気浮揚の効果が期待できず、モラル崩壊を生むだけである。
新型コロナ対策の補正予算でも同じモラル崩壊が起きつつある。
『(耕論)羊飼いの沈黙』は、モラルの崩壊が国の借金を引き起こし、国の借金がさらなるモラルの崩壊を生むことに、光をあてるべきだった。