伊藤亜紗が『どもる体』(医学書院)で、どもりを直そうとすると、自分が自分でなくなるという、どもる当事者たちの率直な話を書いていた。
これは、ヒトの脳に、自分を意識する脳の部分と、意識せずに体を制御する脳の部分とがあるためだ。話すためには、肺、喉、顎、舌、唇の筋肉を動的に脳が制御しなければならない。多くの人は、これを意識せずに、行える。しかし、それでも、外国語を話すとき、意識して発音を直そうとすると、非常に苦痛であることを、発見するだろう。
どもる人が、どもらないように話すとは、そういうことである。苦痛だから、どもらない言葉を選び、リズムよく話すと、自分が自分でなくなるのだ。これを伊藤亜紗は「どもる体が自分を支配する」と言う。
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NPOで私が担当した子どものひとりに、ディスレクシアの子がいた。
ディスクレシアを日本語で読字障害というが、1文字が読めないのではない。文字が並んで単語になり、文になると、急に読むことが、苦痛になるのだ。
彼女も、紙媒体の文章を早く読めず、とても疲れてしまう。ある日、読まないと決断して、周りにそう告げたら、毎日が疲れず、学校にも遅刻せずに行けるようになった。そして、帰宅後に、自分の時間を作って、自分から好きな勉強ができるようになった、と言う。
面白いことに、彼女は、きれいな字を書ける。iPadで文章を読むことは苦痛でない。しかも、iPadで、論理構成のととのった的確な文章を作成できる。
彼女の場合も、伊藤亜紗の『どもる体』と同じような問題が起きている。
じつは、読字とは、話すと同じく、色々な脳内処理を無意識に行っている。
私がITの会社の研究所にいたとき、まわりに、文書自動読み取りをおこなうグループがいた。まず、文字列が書かれている方向を同定する。日本語の場合は、文字列が上から下に向かう場合と、左から右に向かう場合とがある。目でみる世界は、上下、左右、斜めに広がっており、文字列の向きを選び出すのが「おお仕事」である。
次に、文字を1つ1つ切り出す。切り出された文字を記憶の文字群とマッチングする。まず、切り出しの範囲が的確でないと、認識率(正答率)が落ちる。文字は色々なフォント(字体)と大きさがある。この段階で認識率を100パーセントにできない。非常に優れたアルゴリズムでも98パーセントが飽和点である。ここで、1文字の判読をあきらめ、文字と文字の接続関係に統計データを使って、100パーセントに近づける。
コンピュータによる文書自動読み取りの場合は、意味のレベルで文章を理解する必要はないので、ここでおしまいである。しかし、ヒトは、さらに、文字列を意味ある単位、文節に切り離し、脳内でその文節に関連する語や行為やエピソードを思い浮かべる。そして、文節と文節の関係を助詞などから、理解し、書き手のメッセージを理解する。
私は、彼女の場合、文字列の方向の同定とその切り出しに、まず、負担がかかっていると思う。iPadを使った場合は、文字列が左から右に限定され、画面にはいる文字列の数が限定される。
このことから、次のことを、提案したい。
印刷媒体では、横書きに限定し、文字列と文字列との間をあけるような配慮をすべきである。
話し言葉では、文節単位で息をつくのに、現在の書き言葉では、文節の分かち書きをしない。江戸時代の草書では、文節単位で文字がつながり、文節と文節の間は空白であけられていた。現在、小学校低学年の教科書では、文節単位で、区切りの空白文字を入れ、読みやすく、している。これを見習うべきだろう。
また、漢字の使用にも配慮がいる。読字障害の視点からは、漢字の読みに訓読みと音読みがあり、それぞれにも何通りかの読みがあるのはまずい。漢字の読みをできるだけ一通りにする必要があるだろう。また、日本は翻訳文化なので、漢字を組み合わせた造語が多く、それも、専門分野によって異なる。明治以降、粗製乱造された漢字の造語を整理整頓して減らす必要がある。
それでは、どんな文章が、ディスレクシアの人たちに負担をかけないのだろうか。サンプルを作ってみた。
印刷媒体では、よこがきに 限定し、
文字列と 文字列との あいだを あける ように 配慮する。
あたらしい 文が きたら そこで 改行する。
文節が 改行で 分けられない ように する。
文節と 文節の 間に 空白を おく。
漢字の よみを できるだけ ひととおりに する。
文書は拾い読みもできるので、すべて音声にすればよいというものではない。これからは、ディスレクシアに配慮した文章を書くような社会風土が必要だと思う。