猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「自閉スペクトラム症」の診断が多すぎはしないか

2020-07-01 22:50:51 | こころの病(やまい)

米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5の「自閉スペクトラム症」項の記述に、私は違和感がある。医学書院の『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』から、抜き書きしながら、必要に応じて、原文を参照しながら、考えてみたい。

診断的特徴(Diagnostic Features)につぎの記述がある。

〈自閉スペクトラム症は、以前には早期幼児自閉症、小児自閉症、カナー型自閉症、高機能自閉症、非定型自閉症、特定不能の広汎性発達障害、小児期崩壊性障害、およびアスペルガー障害と呼ばれていた障害を包括している。〉

ここでの「障害」はすべて “disorder”である。

精神科医のカナーとかアスペルガーとかが、自分の診療所に連れてこられる子どもたちのなかに、どこか普通の子と違うと感じる子どもがいたということが、これらの多数の「症候群」がつくられた発端である。

精神科医の斎藤環が言うように、これらの診断名はゴミ箱になりやすい。とくに「特定不能の広汎性発達障害」はいかにもゴミ箱に使ってくださいというものだ。この「広汎性」とは、 “pervasive”の翻訳で、「ありふれた」という意味である。

何か変だと感じたとき、精神科医は、自分のメンツにかけ、何か診断名をつけないといけないと考える。こういうときに使われる診断名を斎藤環は「ゴミ箱」と呼ぶ。アメリカでは、保険金請求のため、もっともらしい診断名が必要となるから、必要悪でもある。

DMS-5の作成作業メンバーは、診断名が健全に使われることを期待して、これらのゴミ箱をまとめて、「自閉スペクトラム症」としたのだと思う。

このためには、いままで何か変だなと思われていたものが、根っこが同じものからくるということをDSM-5は示さないといけない。「スペクトラム」は、本質は同じだが異なってみえるものをいう。根っこが同じでないと、ふたたび、ゴミ箱になる危険が出てくる。

診断名は類型化であり、私の本音からいうと、異なるものを無理やり同じとするより、異なるものは個性だとみた方がよい、と思う。ヒトは工業製製品ではなく、すべて同じ規格を満たしている必要はない。

DMS-5の「自閉スペクトラム症」の診断基準は、A、B、C、D、Eからなる。A、Bは症状の規定、Cは発症時期、Dは「その症状は、社会的、職業的、または他の重要な領域における現在の機能に臨床的に意味ある障害を引き起こしている」で、Eは「これらの障害は、知的能力障害(知的発達症)または全般的発達遅延ではうまく説明されない」である。

「全般的発達遅延」は、単に、知的心的発達が平均の子どもより、ゆっくりしているという診断名である。

基準A、B、C、D、Eのすべてが満たされないと、「自閉スペクトラム症」と診断してはいけない。たぶん、DSM-5の作成作業メンバーは、これで自閉スペクトラム症の診断基準が厳しくなったので、ゴミ箱に使われないと思ったのではないか。

基準Dの「社会的」の“social”は日本人の考えるものと違い、「お付き合いができる」とか「コミュニティを維持するための約束ごとを守る」という意味である。

基準Eの「障害」は “disturbances”の訳で、“disorders”より具体的なことをいう。患者が引き起こす「もめごと」は、知的能力障害(知的発達症)または全般的発達遅延ではうまく説明できない、ことをいう。これは非常に重要な条件である。というのは、AやBの症状があっても、「知的能力障害」や「全般的発達障害遅延」で説明がつくなら、「自閉スペクトラム症」と診断してはいけないという規定である。以前の「知的能力障害」を伴う「自閉症」の多くは、この規定によって、「自閉スペクトラム症」から除外される。

基準Bは「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式で、現在または病歴によって、以下の少なくとも2つにより明らかになる」である。

B1 常同的または反復的な身体の運動、物の使用、または会話
B2 同一性への固執、習慣への頑ななこだわり、または言語的、非言語的な儀式的行動様式
B3 強度または対象において異常なほど、きわめて限定され執着する興味
B4 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ、または環境の感覚的側面に対する並外れた興味

(「常同的」は“stereotyped”の訳で「固定化した」という意味。)

まず、理解してほしいのは、自閉スペクトラム症の人に、上の4つすべての行動パターンがみられると言っているのではない。自閉スペクトラム症にも、症状の違いがある、と言っているのである。

自閉スペクトラム症になぜ、このBがあるのか、私は、納得いかない。じつは、B1、B2、B3の行動は、脳に負担をかけまいとする行為で、他のメンタル不調(たとえば知的能力障害やうつ)でも、正常の人でも現れる行為である。B4も誰にでもあるもので、特に脳が疲れているときに起きる症状である。

私自身、B1、B2、B3、B4のすべてがあてはまる。私は脳の節約を考え、だいじだと思う対象以外には、固定化したパターンを繰り返してきた。私は自閉スペクトラム症だろうか。

それゆえ、自閉スペクトラム症の共通の根っこは、基準Aではないかと思いたい。

基準A は、「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥があり、現時点または病歴によって、以下により明らかになる」である。

ここで、「複数の状況で」は“across multiple contexts”の訳で、“contexts”とは「前後関係がだいじな状況」という意味である。
「対人的相互反応」は “social interaction”の訳である。「対人的」が “social”の訳だということは、「ヒトとの社交的なかかわり」をも意味している。

A1 相互の対人的-情緒的関係の欠落
A2 対人的相互反応で非言語的コミュニケーションを用いることの欠陥
A3 人間関係を発展させ、維持し、それを理解することの欠陥

「診断的特徴」でA1を「他者とかかわり、考えや感情を共有する能力の欠陥」とDSM-5は言い換えている。「情動の共有も欠如しており、他者の行動を模倣することは少ない」「なにか言語が存在するとき、それはしばしば一方的で、対人的相互性を欠き、意見を言う、感情を共有する、会話をかわすなどというよりはむしろ、要求する、分類することに用いられる。」
(「なにか言語が存在するとき」は “What language exists”の訳で、「言語がなんであれ」の意味ではないか、と思う。)

この説明はわかりやすい。A1は人間味がないと悪口を言っているのだ。しかし、他者に流されないとも言える。A1の特性は良い面と悪い面があるのだ。したがって、A1を病的というより個性といったほうが良い。

「診断的特徴」を読むと、A2はA1と対応しており、A1の身体的現れである。「他者と関心を共有するために対象を指さしたり、見せたり、持ってきたりすることの欠如、あるいは他者の指さしや注視の先を追うことの欠陥などで示される共同注意の障害」。

A3は「年齢、性別、および文化的な基準に照らし合わせて判定されるべき」と「診断的特徴」に書かれている。ここで挙げられている説明には同意できないものが多い。A1、A2からすると、「人間に興味がない」がくるべきように感ずる。

再度まとめると、基準Aは、極端な行動をとらないかぎり、個性として許容することができるものである。だとすれば、現在、自閉スペクトラム症と診断される子どもが多すぎるのではないか。

他人が指差している方向を見るような人が多いと、新型コロナ騒ぎのように簡単にパニックにおちいり、東京に職があるというと、みんなが東京に押し寄せ一極集中が起きる。社会は、他人に同調しない変わり者を必要としていると思う。