猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その5 ふたつの憲法

2020-07-24 22:54:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する


2011年から横浜市で使われている育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』を、私たちは検討してきた。いよいよ、私たちの憲法について教える第2章である。その第1節は、つぎのように驚くべき構成になっている。
   ☆   ☆   ☆

戦前の憲法、大日本帝国憲法を肯定的にのべ、現在の日本国憲法は連合国占領軍(米軍)の押し付けであるという。連合軍は日本に非武装化を強く求め、「戦力」をもたないこと、他国と自分から戦争しないこと(憲法9条)を押しつけたとする。

日本政府は、1950年の朝鮮戦争を期に、米国に協力する形で、警察予備隊、自衛隊と戦力を復活させ、憲法9条を、自国の防衛は許されるという解釈で乗り切ってきたとする。

また、1951年の日本の独立にあたって、日米安全保障条約を結び、米軍基地が国内に残るかわりに、日本の平和が米軍の抑止力に守られるようになったとする。

国際情勢の変化で、自衛隊を外国に派遣する必要が生じ、政府は、2003年に武力攻撃事態対処法など有事関連三法を成立させたという。東アジアでの緊張に呼応し、2015年には平和安全法制関連二法を成立させ、日本の安全保障体制を強化したとする。

日本国憲法を改正するために、2007年、具体的な手続きを定めた国民投票法を制定し、2010年5月18日に施行されたとする。
   ☆   ☆   ☆

これは、日本政府が、強い日本、世界の大国である日本を復活させるために、いかに着々と前進してきたかをのべているのであって、私が期待した憲法教育ではない。

日本国憲法の内容を分かりやすく説明し、その知識によって、弱い者たち、虐げられて者たちが自分の権利を守っていくのに役立つのが、公民の教科書であるべきだと私は思っている。

育鵬社の教科書の第2章第1節の記述を具体的に検討しよう。

第1節は、46ページ目のつぎの主張で始まる。

〈私たちが集団生活を営む上では、みんなが従う一定のルールがなければ混乱が生じ、最終的にすべての人々が不利益や損害をこうむってしまいます。
 社会の秩序を維持、みんなの自由や安全を守るためには、ときとしておのおのの自由を制限することも必要です。〉

「自由」や「平等」の説明から始まるのでなく、「社会秩序の維持」のために法によって「自由を制限する」というところから、「法治国家」を説明する。「自由を制限する」の主語はなんだろう。

確かに、「人は右側、車は左側」というように、単に「混乱」を防ぐための法律もあるだろう。しかし、法というものは、人間と人間が、集団と集団が、利害の違いから、対立し、その妥協点を明文化したものだ。妥協点は、力のつり合いが変化すれば、当然、変化する。

法による「自由を制限する」の必要性は自明でないし、最初に教えるべきことではない。

47ページ目に、つぎのように書く。

〈現代の多くの国の憲法には、歴史・伝統・文化など自国の独自の価値が盛り込まれています。各国は独自の「価値」を憲法に記述することにより、国民に自覚と誇りを持たせています。〉

憲法とは、人類普遍的な理想をのべるものではないか。「歴史・伝統・文化など自国の独自の価値を盛り込む」とは、国民と国民の対立を生むことになるのではないか。

なぜ、こんな変なことをのべるのかは、つぎの48ページ目を読むとわかる。

〈明治維新をむかえた日本では、五箇条の御誓文が示され、天皇自らこれを実践することを明らかにしました。〉
〈政府は伊藤博文らを中心に欧米の憲法を調査研究するとともに、日本の歴史や伝統、国柄の研究を行い、約8年の歳月をかけて、1889年、大日本帝国憲法として公布しました。〉

五箇条の御誓文とは、明治天皇が、「官武一途庶民に至るまで、人心が離れないようにする」と宣言しただけで、官僚、軍人から庶民までを上手に丁寧に支配する(君主政)と天皇が誓っているのである。

ここの「日本の歴史や伝統、国柄」は、戦前の言葉では「国体」のことである。49ページ目にそれが書かれている。

〈この憲法では、日本の伝統文化と西洋の政治制度をいかに結びつけるかに力がそそがれ、日本は万世一系の天皇が統治する立憲君主制であることを明らかにしました。〉

それに対し、49ページ目に、現在の日本国憲法は押しつけであると書く。

〈連合国は、大日本帝国憲法の下での政治体制が戦争のおもな原因だと考え、日本の民主主義的傾向を復活強化して、連合国にふたたび脅威をあたえないようにするために、徹底した占領政策を行いました。〉
〈連合国軍最高司令官マッカーサーは、憲法の改正を日本政府に求め、政府は大日本帝国憲法をもとに改正案を作成しました。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)はこれを拒否し、自ら1週間で憲法草案を作成したのち、日本政府に受け入れるようにきびしく迫りました。〉
〈日本政府は英語で書かれたこの憲法草案を翻訳・修正し、改正案として1946年6月に帝国議会に提出しました。改正案は、一部の修正を経たのち、11月3日に日本帝国憲法として公布され、翌年5月3日から施行されました。〉

「歴史・伝統・文化など自国の独自の価値が盛り込む」とは、「日本の歴史や伝統、国柄」すなわち「国体」を憲法に書くことで、そうでない日本国憲法をマッカーサーの押し付けと言っているのである。

50ページ目に、つぎのように、「国民主権」を説明する。

〈主権とはその国のあり方を最終的に決定する権力のことであり、その中には憲法を制定したり、改正するなどの大きな権限も含まれています。この主権が国民にあることを国民主権といいます。〉

ところが、51ページ目に、不可解な一文がある。

〈天皇は直接政治にかかわらず、中立・公平・無私な立場にあることで日本国を代表し、古くから続く日本の伝統的な姿を体現したり、国民の統合を強めたりする存在にとなっており、現代の立憲君主制のモデルとなっています。〉

象徴天皇制を「現代の立憲君主制」というが、「立憲君主制」では君主に主権がある。じっさい、著者の大好きな大日本帝国憲法では、天皇が陸軍、海軍を統帥し、内閣は軍隊を統括できない。また、憲法の改正は、天皇が発議しないかぎり、国会で憲法改正を議論できない。そして、じっさい、1941年12月に昭和天皇は、米国との開戦を決め、1945年8月に降伏を決めた。

新しい日本国憲法は、天皇から、これらの権限を奪った。しかし、日本国憲法に象徴天皇制があるのは、民主国家の憲法として大きな傷で、天皇制を廃止しなければならない。さもないと、この教科書の著者のように、「現代の立憲君主制」という者が出てくる。

「人権とは何か」のところの、53ページ目に、ふたたび、大日本帝国憲法をヨイショする。

〈日本でも、大日本帝国憲法を制定する際、古くから大御宝と称された民を大切にする伝統、新しく西洋からもたらされた権利思想を調和させ、憲法に取り入れる努力がなされました。〉
日本国憲法では、西洋の人権思想に基づきながら基本的人権を「犯すことのできない永久の権利として信託されたもの」(97条)とし、多くの権利と自由を国民に保障しています。〉

また、54ページ目の「基本的人権の尊重」でつぎのように書く。

〈政治の最大の目的は、国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させることにあります。したがってその基礎をなす基本的人権の保障と充実は、なにより重要な政治目的のひとつとして位置づけられています。〉

この「国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させる」は、保守政権が自衛隊の海外派遣や米国との軍事同盟を強化するときに使う、きまり文句である。そうでないでしょう。「政治の最大の目的は、誰かが誰かを搾取することをやめさせ、自由と豊かさを平等に分かち合うようにする」ことでしょう。

56ページ目に、著者は、日本国憲法の第9条は、連合軍(米軍)の押し付けだと書く。そして、57ページ目に、つぎのように、日本政府は第9条の解釈で対応してきたという。

〈政府は、ここでいう戦争とは「他国に侵攻する攻撃」を指し、「自国を守る最低限度の戦闘」までも禁じているものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を待つことは憲法上許されると解釈し、自衛隊を憲法第9条に違反しないものと考えています。〉

自衛隊は「戦力」でなく「実力」だと言うのは詭弁である。
さらに、58ページ目に、日米安全保障条約について不可解な一文を挿入する。

〈1960年に改定され、日本が外国からの攻撃を受けたとき、アメリカと共同して共通の危険に対処することが規定されました。戦後の日本の平和は、自衛隊の存在とともにアメリカ軍の抑止力(攻撃を思いとどまらせる力)に負うところも大きいといえます。この条約は、日本だけでなく東アジア地域の平和と安全の維持にも、大きな役割を果たしています。〉

これも、日本政府の解釈であって、日米安全保障条約は、あくまで、米軍基地を日本に置くことの相互了解である。

1989年の「ベルリンの壁崩壊」以降、東西両陣営の対決による第3次世界大戦の危機は遠のいたのに、それ以降、以前にまして、日本では国際社会が変化した、軍事力が必要だ、日本は海外に自衛隊を派遣する必要がある、と日本政府はいうようになった。

これは、米国の国力低下が大きな要因である。1980年代に、日本と米国のあいだに経済摩擦が起き、日本政府は、その解消を経済ではなく、米国に軍事協力をする形でつぐなおうとした。これは、日本の経済界とこの教科書の著者のような右翼勢力との野合である。

それにもかかわらず、著者は、国際情勢が急変し、日本の安全保障が脅かされたと言い出し、米国との問題であることを隠ぺいする。そして、日本政府の対応を支持する。

〈そこで有事への対応を想定した法律(有事法制)の整備が進められ、2003年に武力攻撃事態対処法など有事関連三法が成立しました。〉(58ページ目)

〈このような周辺の安全保障環境の急変に対し、政府は2014年に憲法解釈を実情に即して改め、集団的自衛権の行使を限定的に容認することを閣議決定しました。そして、2015年には平和安全法制関連二法が成立し、日本の安全保障体制が強化されました。また、自衛隊による在外邦人保護要件が緩和され、国際平和への積極的貢献の範囲も広がりました。〉(59ページ目)

在外邦人保護とは、海外にいる日本人の生命と財産を実力で守るということだが、戦前、日本が関東軍が中国に駐留する理由にこれを使った。軍事力を在外邦人保護の名目で使うなら、それは、他国の主権を軍事力でおかすことになる。憲法9条がなくても、やっては いけないことである。

そして、憲法改正について、つぎのように、著者は教科書に書く。

〈憲法は国の根本的なあり方を示すだけでなく、現実に国の進路を左右する大きな力をもっています。そのため、実際の政治を行うにあたり、目まぐるしく変化する国内や国外の情勢に対応していくためにどのように憲法を解釈・改正すべきか、という問題がしばしば起こります。〉(60ページ目)

〈憲法を絶対不変のものと考えてしまうと、時代とともに変化する現実問題への有効な対応を妨げることにもなりかねません。〉(61ページ目)

〈2007年、憲法改正のための国民投票など具体的な手続きを定めた国民投票法が制定され、2010年5月18日に施行されました。今後は、各院に設置された憲法審査会で、国会に提出された憲法改正原案の審査が行われ、国会の議決を経た上で、国民投票による改正の是非が諮られることになります。〉(61ページ目)

育鵬社の中学教科書『新しいみんなの公民』は偏向しているのではないか。横浜市の公立中学で使うのは不適切ではないか。


育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その4 宗教と法

2020-07-23 12:46:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する

育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』は隅々におかしなことが書かれているので、検討がなかなか進まない。今回、第1章の第2節と第3節を大急ぎで検討しよう。

  ☆   ☆   ☆
第2節は、伝統のなかでも宗教を扱っている。24ページ目に、つぎのようにある。

〈日本人の多くは、子どもが生まれると無事に成長するよう願って神社にお宮参りをし、人がなくなると宗教的行事として葬式を行うなど、人生の節目で、神道と仏教と深い関わりをもった儀礼を行います。〉
〈また、12月24,25日にクリスマスを祝い、数日後の元日に神社や寺院に初もうでに行くといった、宗教的行事への寛容性や多様性が見られます。〉

これは、宗教的伝統と言えるのか。戦後、宗教に対しての信頼が壊れたということではないか。起きていることは、宗教的行事が商業上の利益追求(コマーシャリズム)に利用されているだけでないか。

150年前の明治政府の「神仏分離令」で仏教界が大打撃をうけた。これは、明治政府を支える基盤に儒学者と神道家がいて、仏教の排除を図ったからである。100年前の大正時代になると、仏教の復興時代に入り、親鸞の弟子の唯円が記した『歎異抄』が再発見され、鎌倉仏教全体が再評価された。これもグローバル化の良い結果である。当時、キリスト教のクリスマスに対抗して、お寺では、釈迦の誕生を祝う花祭りが4月8日に行われた。

日本人がふたたび宗教から離れるのは、80年前の戦争の時代である。平和を願うのが宗教なら、信仰をもつ者は、天皇が始めた戦争に反対しなければならない。ところが、既成宗教団体は反対しなかった。危険を冒して反対したのは、一部の信者であった。

同じ問題は、ドイツでも起きている。一部のプロテスタントの聖職者は身を挺してヒトラーに反抗し、捕らえられて収容所で殺された。ところが、プロテスタントの教会の主流派はナチスにしたがったため、戦後、信者たちは教会に戻らなかった。(ドイツでは、教会の聖職者の給料が州政府からでていたという特殊事情があるので、いちがいには責められないが。)

宗教が、商業的行事や慣習上の儀礼としてしか意味をもたなければ、それは宗教の敗北である。もしかしたら、「宗教的行事への寛容性や多様性が見られます」という賛美は、靖国神社への閣僚や議員の参拝の正当化を図ったものではないか。

第2節ではそれ以外にも変な記述がある。26ページ目に

〈これらは、神社の祭礼や民俗信仰、年中行事だけでなく、皇室の文化や祭祀(神仏や祖先をまつること)の大きな特色でもありました。〉

とある。「皇室の文化や祭祀」を、「神社の祭礼や民俗信仰、年中行事」と同列視している。明治政府が「天皇の神格化」を図って、西洋諸国から批判を浴びたとき、これは、「儀礼」であって「宗教」でないと弁明した。明治以前に、天皇が「生き神様」であったことはない。

政府は、一貫して宗教を統治の手段として利用し、邪魔な信仰人を弾圧してきたのである。

また、30ページ目の

〈しかし、あまり便利な機械化社会では、例えば家事をするとき、冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など、機械に頼らなければ生活できない状況も生みだしました。〉

も意味不明である。家事労働の負担を軽くするために「冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など」を使って、どこが悪いのか。
こんなバカな教科書著者に

〈科学では解明できないことがたくさんあることを理解し、生命や自然に対して畏敬の念をもつことも必要です。〉(31ページ目)

と言われたくない。科学で解明できても、生命や自然に畏敬の念をもっていいのだ。

  ☆   ☆   ☆
第3節は、「法」の順守を訴えるために書かれている。38ページ目に「対立が生じて、まとまらないこともあるでしょう」につづいて、

〈みんなが納得できるように、解決策を話し合い、何らかの決定を行い、合意する努力をしていかなければなりません。〉

とある。この文章は どこか おかしくありませんか。プロセスとしては、「解決策を話し合い、合意し、決定を行う努力」が普通である。無意識からか、「何らかの決定を行い」が合意に先立つ。

つぎの段落を読むと著者のねらいがはっきりする。

〈合意する努力がされるとき、必要な考え方に効率と公正があります。効率は無駄を省くという考え方です。公正は不利益をこうむっている人をなくそうとしたり、みんなが同じ条件になるようにしたりするなど、さまざまな意味合いがあります。〉

「効率」という語がでてくるのは、早く「何らかの決定を行う」ことがだいじだ、みんなの文句を聞くことが無駄だという「上から目線」で書かれている。

また、「公正」という言葉もおかしい。「公正な裁判」「公正な処置」という用法が示すように、上位の者が、当事者のそれぞれの言い分を聞いて公平に判断することをいう。

「効率と公正」は権力者の言い分である。

40ページ目に「法」の役割をつぎのように書く。

〈私たちが社会生活を営むなかで、ときには意見や利害の関係から、対立が起きることがあります。そのトラブルを解決し、合意にいたった場合に大切なことは、二度と同じことが起こらないようにすることです。そのためには、個人個人の習慣や考え方を変えるのもひとつの方法ですが、前もって集団社会のなかできまりをつくることも有効な手段です。〉
きまりは、私たちが巻き込まれる可能性があるトラブルや事故を防いでくれ、合意を形成するためにつくられています。〉

「きまり」は「きまる」の名詞形であって、「きめる」の名詞形ではない。「きまり」はすでにある「掟」であって、合意事項ではない。学校にいろいろな「きまり」があるが、生徒が合意して「きめた」ことではない。

「きまりが合意を形成する」というのも意味不明である。「きまっているから文句を言うな」という意味であろうか。

現在、学校にある「きまり」の多くは、1970年の学園闘争を抑え込むために、学校運営者が導入したものである。

41ページ目に、著者はつぎのように脅す。

〈しかしそのために、私たちには、きまりを守る義務があるということも忘れてはなりません。〉
〈もしそれを破った場合には、責任を問われることになります。〉
〈現代にいろいろなトラブルが起こる背景には、義務を忘れ権利だけを主張する風潮があるからだといわれています。〉

まったく、支配者の身勝手な言い分だけを書いている。こんな「公民」の教科書の中身を真に受けて、子どもたちが、役人や経営者になったら、トンデモナイ社会になってしまう。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その3 伝統文化の押し付け

2020-07-22 20:57:28 | 育鵬社の中学教科書を検討する


育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』の「第1章 私たちの生活と現代社会」の第1節から見ていこう。

第1節の13ページ目につぎのようにある。

〈真に望ましいグローバル化とは、国家間の違いがなくなることではありません。〉

これだけでは「国家間の違い」が何を意味するか、よくわからない。

私は、現実の国家というものが、支配者による統治と考えている。大きな国家に小さな国家が吸収されることは、大衆自身による統治「民主政」が より遠のくから、国家の「併合」に反対である。「大国」より「小国」がよい。

しかし、つぎの文を読むと、「国家間の違い」は、「文化」や「思想」の違いを意味することがわかる。

〈各国の国民は、それぞれの国の歴史や伝統や文化を踏まえ、アイデンティティー(自分は何ものであるかという意識)を確認しつつ、他国との良好な関係を築いてゆく必要があります。そのような資質をもった存在こそグローバル人材と言えます。〉

「アイデンティティーを確認しつつ」というのが意味不明である。それが「自分は何ものであるかという意識」なら、個人的な問題で、グローバル化となんの接点もない。ところが、「それぞれの国の歴史や伝統や文化を踏まえ」とあるので、「民族意識」のことを「アイデンティティー」と言っているように思える。

日本でちやほやされていた人が、いざ、海外で生活し、異国の文化に接すると、突然、自分に自信がなくなり、日本の歴史、日本の伝統と、日本の文化と言い出し、もっと勉強しておけば、と「後悔」する。クソ野郎である。自分がないのは「勉強」しなかったからではない。自分がないのは、ものごとを批判的精神で見てこなかったからである。「勉強」するという志(こころざし)が、すでに、自己を放棄している。

また、「伝統」とはいかがわしいものである。現在のお祭りも、「町おこし」や「観光産業」の名目で最近作られたものが多い。現在の「神社」と「寺院」のすがたは、明治政府が「神仏分離」令によって、無理やり作ったものである。それまでは、「神仏習合」といって、日本の人格神は仏教の菩薩の仮の姿で、神社と寺院と一体となっていた。

伝統は、常に、政府、すなわち、権力者の都合で、変えられる。

じつは、今から約150年前、明治政府は、開国によって、西洋諸国の文明に出あい、その工業の生産力に圧倒されるとともに、「民主政」には非効率と反発した。明治政府のスローガン「和魂洋才」は、工業生産力の源になった「科学技術」だけを輸入し、「民主政」の思想を拒否することだ。「尊王攘夷」の「攘夷」だけを外し、「尊王」を「天皇の神格化」に引き上げ、「民衆」が権力をにぎらないように、維新の功労者と新興の官僚勢力による集団支配体制を築いた。

グローバル化は、人や物の交流によって引き起こされる思想や文化の衝突のことで、歴史上、たえず起きている。それによって、新しい文化や思想が生まれた。たとえば、キリスト教は、アレクサンダー大王の遠征によって引き起こされた地中海沿岸諸国、メソポタミア、エジプトのあいだのグローバリゼーションの結実である。

日本が、現在のグローバリゼーションのなかで、新しい生活様式、新しい文化、新しい思想を生んでいくことこそ、望ましいのではないか。

昔ながらの「菓子店」「料理店」においしい店があったためしがない。農業や輸送手段の進歩で、色々な素材が手に入るようになっている。そのなかで、味覚も進化している。昔ながらの味では、お客の進化についていけない。

18ページ目には

〈一方で、育児期の家庭では夫が仕事をして妻が専業主婦の夫婦が、現在も高い割合を占めています。〉

とある。妊娠、出産、育児期に、外での仕事をいったんやめるは、別に、「専業主婦」というわけではない。「専業主婦」という言い方に、何か、男女の役割の違いを押しつけているように感じる。

19ページ目に、

〈自分が生まれ育った土地のことを郷土と言います。郷土は自己の形成に大きな役割を果たすとともに、一生にわたって大きな精神的な支えとなるものです。〉
〈私たちが地域のコミュニティーを維持していくためには、各自が郷土の一員として発展に貢献していくという公共の精神を持つことが重要となります。〉

人によっては、「郷土」が「一生にわたって大きな精神的な支え」とならない。自分の自由を束縛した、あるいは、自分たち一家を差別した「郷土」に怒りをもって、郷土を出た者も多い。

ちょっと第2節に飛ぶが、33ページ目の

〈伝統文化の尊重は、それらをはぐくんできた日本や郷土を愛することにつながります。〉

は、ちょっと無理がある。

伝統文化に興味を感じず、バッハやラヴェルの音楽が好きで、なにも悪くない。和菓子や日本料理が嫌いで、何も悪くない。専業主婦になる必要もなく、夫より稼いでも良い。生まれ育った所より、今住んでいる所が素晴らしいと感じたって良いじゃないか。「公民」が個人の好みの世界に立ちいってはいけない。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その2 なぜ「公民」を学ぶ

2020-07-21 19:51:18 | 育鵬社の中学教科書を検討する

育鵬社の『新しいみんなの公民』の2ページ目、「なぜ「公民」を学ぶのか」に、はや、問題の箇所がでてくる。

〈 「公の民」と書く公民は、このように自分を国や社会の一員として考え、公のために行動できる人のことをいいます。〉

ここから、もはや、この教科書はいかがわしい。「公のために」とは何なのか。
「このように」と書いてあるから、その直前にある文を読んでみよう。

〈アメリカの第35代大統領のケネディ(1917~63年)は、大統領就任演説でアメリカ国民に「国があなたのために何をしているのかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるのかを問おう」と訴えたことがあります。〉

この部分の英文は、つぎである。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country. 

じつは、この演説で、J. F. ケネディは ずっと “state”や “states”を使ってきたのに、演説の終わりのここで、“country”を使う。英語では、“state”は法律の整備された近代的「国家」、いっぽう、“country”は、心のなかの「くに」、「おらがむら」をいう。ケネディは、聞き手が“country”と聞いて「愛国心」に燃え、理性を放棄することを期待したのである。

ちなみに、トランプ大統領は “state”を使わずに、いつも、“country”を使う。そして、アメリカ第1と叫ぶ。

ケネディは、第2次世界大戦に参加した将校である。戦争の残酷さ、勝者の不正をみた一兵卒のJ. D. サリンジャーと異なり、将校のケネディは、第2次世界大戦を正義の戦いとみる。

上記の英文に先立つ段落で、ケネディはつぎのように言っている。

Since this country was founded, each generation of Americans has been summoned to give testimony to its national loyalty. The graves of young Americans who answered the call to service surround the globe.

「国のために何ができるのか」とは、「国のために死ぬ」ことである。“graves”とは延々と続く戦没者の「墓」のことである。

ケネディが大統領として登場したとき、アメリカは公民権運動(civil rights movement)で揺れ動いていた。この演説で、ケネディは、世界に向けて自由のために戦うよう、国民に呼びかけることで、公民権運動から国民の目をそらそうとしたのである。245年前のアメリカの独立戦争から話をはじめ、世界の自由を守る戦いへの参加を訴えたのだ。

演説のどこにも “equality”や“fairness”に言及しない。ケネディにとって、「自由平等」ではなく「自由」だけが正義なのである。黒人たちにたいする公民権運動が完全に忘れ去ろうとしている。「平等」や「公平」を抜きにし、「自由」を守ることと「貧乏からの解放」だけを訴えている。

ケネディは国民の目を「公民権運動」から そらすため、北ベトナムへの爆撃を始める。ケネディは、泥沼のベトナム戦争の引き金をひいた大統領である。

そんなケネディがそう言ったからといって、日本で生きている私たちが、なぜ、「国のために何ができるのか」と問われなければならないのか。

ケネディは悪人である。ケネディの父親は、アイリッシュをアメリカのトップにすえたいから、息子にその夢を託した。そのとき、息子が政治家の道を進むのに邪魔になる、性に奔放なケネディの妹を、精神病院に入れ、ロボトミー手術を行い、廃人にした。そして、ケネディ自身は大統領になってからもマリリン・モンーロを公邸に呼び、不倫を行っていたのである。

育鵬社の『新しいみんなの公民』に戻ろう。その3ページ目に

〈「人間は社会的な存在」といわれるように、さまざまな社会とかかわりをもたずには生きていけません。〉

ここで、“social skill”を学びましょうとくるのかと思うと、つぎのようにくる。

〈私たちは、これらの社会を構成している一員であると同時に、その社会を支えていく役割も担っているのです。〉

すなわち、「社会」を支える「公民」となるために、「公民」を学ぶのだと説明する。

ここでいう「社会」とは何なのか。

英語で「社会(society)」といったとき、これは「対人関係」を意味する。いじめに会わないように、自分の権利をうまく主張できるように、自分の身を守る法律を知るために、「公民」を学ぶのである。それが、日本以外で、子どもたちが“social skills”を学ぶ理由である。けっして、社会を支え、国のために死ぬことではない。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その1 はじめに

2020-07-21 17:03:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する

横浜市は2011年から全市で育鵬社の「歴史」と「公民」の教科書を使っている。その採択に中心的役割を果たした元横浜教育委員長の今田忠彦は、朝日新聞地方版のインタビューの中で つぎのように語っている。

〈(それまで)教科書調査員を務める現場の先生の各教科書への評価を、その上の教科書取扱審議会が追認し、さらに上の教育委員会が追認してきた。ですが法律上、教科書を決めるのは教育委員会であり、私はそれを実践したまでです。〉

〈(11年の)採択後、首相に再指名される前の安倍さんにパーティーでお会いし、「(06年の第1次安倍内閣のもとで)教育基本法を変えて下さったおかげで、教科書採択がやりやすくなりました」とお礼を言いました。教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明確に書かれ、それに沿った教科書を選びやすくなったのです。〉

彼は、現場の先生の評価に関係なく、教育委員会が教科書を選択すればよく、選択基準は「愛国」である、と言っている。「歴史」の教科書は、事実にもとづいているかが 基準のはずであり、「公民」は自分の権利を守るための知識が書かれているかが 基準のはずだ。

「歴史」や「公民」の教科書は、「客観的権威」をまとっているので、「道徳」の教科書以上に、子どもたちを洗脳しやすい。たとえば、きのう、期末テスト対策として「公民」の教科書のドグマを まる暗記している子どもを、NPOの自習の場で、見つけた。

きょうから、育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』を検討していきたいと思う。

[追記]
8月4日、横浜市教育委員会は、2021年度から市立中学校で使用する教科書のうち、歴史と公民は育鵬社版を不採択とした。