猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

戦後70年安倍談話と民族派・親米派

2019-08-01 23:38:51 | 国家


4年前の安倍晋三の戦後70年談話は、その年の保守系の論者の間で、米国が主導した東京裁判を否定する民族派と、米国主導の秩序を肯定する親米派をともに満足させることができた、と高く評価された。

安倍談話は 別に親米派を喜ばせることを言っていなように思えるのに、なぜ満足したかが、私には不思議であった。

しかし、現在から、安倍談話を振り返ると、親米派には、なんのイデオロギーがないからである。米国に日本製品を買ってもらいたい、米国に日本を武力で守ってもらいたい、この2点しか、親米派にはないからだ。米国を怒らせることを安倍談話に書かなければ、それだけで良いのだ。

民族派から見れば、日本は、民族の独立という崇高な考えから、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜き」、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、戦前を美化しているから、談話は満足ゆくものだった。「富国強兵」のもと、欧米の領地拡大競争に日本が参加した、明治以降の歴史を隠したものである。

安倍晋三もイデオロギーのない男である。祖父や叔父や父から受け継いだ吉田松陰の教え、「日本の独立」「富国強兵」と親米派の「貿易立国」「対米従属」が共存している。

彼の『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」だと書く。この意味は、アメリカによって世界の秩序と日本の安全が保たれるという意味だ。

安倍晋三がトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を読んだか怪しい。

自然状態では、ひとは、互いに能力の大差がないうえに、他を支配しようという欲望をもつから、争いが絶えなくなる。だから、1つの意志をもつ生き物のように動くひとびとの集まり「リヴァイアサン」に、自分の自由を差しだし、その代わりに安全を得る、という考えを、トマス・ホッブズが主張している。

ここで意志を担うものを主権者という。トマス・ホッブズは、主権者と、臣民(自分の自由を差しだし手足になる者たち)とを区別している。

「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」というとき、ローマ帝国による地中海の平和「パクス・ローマーナ」のように、世界がアメリカの属国になればよいという考えを言っているのだ。

「日本の独立」と「対米従属」とが本来矛盾するはずなのに、安倍晋三はそう思わないのだ。彼の『新しい国へ』で、日本が「自由」と「民主主義」のために闘っていると書く。この「自由」と「民主主義」のもとに、日本をアメリカに投影することで、国に誇りをもてるように、するという。

これが、トランプ大統領への安倍晋三の接待外交を生む。ところが、トランプは、安倍を弱い男と思い、要求をどんどん高くしてくる。接待外交はすでに破綻している。

トマス・ホッブズは王党派であるが、主権者である王が自分の安全を脅かすとき、臣民は王を捨てても良いと言っている。

日本の取るべき選択は、安保を破棄し、米軍に日本から去ってもらうことでないだろうか。

ところが、いま、安倍政権がおこなっていることは、トランプ政権に対する怒りを、ムン・ジェイン政権にぶっつけているだけだ。日本国民は、事実を見つめないといけない。

旧約聖書の『コヘレトの言葉』の思想と新翻訳

2019-08-01 20:56:53 | 誤訳の聖書


旧約聖書というと、多くのひとは、モーセの五書の『創世記』などや王朝記の『サムエル記上下』などや『イザヤ書』を思い浮かべるかもしれない。あるいは、人によって、後期の終末論(黙示録)の書からいくつかあげるだろう。これらは、自分たち祭司の正当性を、あるいは、自分たちユダヤ人の民族的正統性を主張するために、書かれたもので、歴史の偽造である。

しかし、ユダヤ人がそんな自己勝手な連中ばかりのはずはない。ヘレニズム時代には、同じアラム語を話すシリアにはストア派の哲学者たちがいた。旧約聖書にも、その時代背景に呼応し、哲学的・思想的な書が存在する。『コヘレトの言葉』がその1つである。

この「コヘレト」は何を意味するのか、この書にしか出て来ないので、わかりようがない。口語訳では「伝道者」と訳したが、どこにも根拠がない。作者が勝手に作り上げた人名かも知れない。

他の旧約聖書の書と違い、いかなる物語も『コヘレトの言葉』にない。あるのは、作者の人生観や政治哲学への言葉である。

『コヘレトの言葉』には、神を意味する「אלהים(エロヒム)」は出てくるが、神の名前「יהוה(ヤハウェ)」は全く出て来ない。イスラエルの神ヤハウェを明らかに否定している。

さらに、1章9節で、「太陽の下、新しいことは何1つない」と言いきる。すなわち、「終末」や「最後の審判」をも正面から否定している。

『ヨブ記』が取り上げた、「神は人間の願いに答えるのか」、「人間の行為、善と悪とに報いるのか」という問いに否定的なのが『コヘレトの言葉』である、と、上村静は『旧約聖書と新約聖書』(新教出版)で言う。

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じつは、『コヘレトの言葉』5章8節の口語訳、新共同訳が、ともに おかしい。

口語訳の「しかし、要するに耕作した田畑をもつ国には王は利益である。」は、明らかに意味をなさない。

新共同訳の「何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。」は、『コヘレトの言葉』の他の部分とつじつまがあわない。

昨年でた新翻訳、聖書協会共同訳では、「何よりも国の益となるのは王自らが農地で働くことである。」である。これが良い。

ずいぶん、聖書協会も民主的になった。ただし、訳の「国」は、ヘブライ語原文のどこにもなく、たぶん「ארץ(大地)」を勝手に意訳したのだろう。

私が5章8節のヘブライ語原文を訳すなら、「大地が実りゆたかであるのは、王みずから畑で働くからだ」とするだろう。語彙の意味と文法構造からこれしかない。

このコヘレトの精神は次の5章11節に引き継がれる。

「たらふく食べても、少ししか食べなくても、働く者の眠りは快い。富める者は食べ飽きていようとも、安らかに眠れない。」(新翻訳)

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ところで、『コヘレトの言葉』のキーワードはヘブライ語「הבל」である。口語訳ではこれを「空」と訳した。新共同訳は「空(むな)しさ」と訳した。新翻訳はふたたび「空」と訳している。

「空しさ」と訳すと『コヘレトの言葉』は虚無思想の書と誤解されやすい。わたしは、中立的な響きの「空」のほうがよいと思う。

それでも、この「空」という言葉は何かよくわからない語である。「空」は、仏教用語では感覚器で知覚できる「色」の反対語で、サンスクリット語からの下手な漢訳、と仏法研究者たちは指摘する。

中国語の「空」は「穴」を原義とし、「空っぽ」なことを言う。仏教の原義より、中国語の原義のほうが、ヘブライ語「הבל」の意味として私にはしっくりくる。

私なら、1章2節「הבל הבלים אמר קהלת הבל הבלים הכל הבל׃」を
「からっぽ、すごくからっぽ、とコヘレトは言う。からっぽ、すごくからっぽ、からっぽ。」
と訳すだろう。人生が「空しい」と言いたいのではなく、もったいぶって色々なことを教えている人たちがいるが、そんなもの、中身がない、と嘲笑しているのだ、と思う。