4年前の安倍晋三の戦後70年談話は、その年の保守系の論者の間で、米国が主導した東京裁判を否定する民族派と、米国主導の秩序を肯定する親米派をともに満足させることができた、と高く評価された。
安倍談話は 別に親米派を喜ばせることを言っていなように思えるのに、なぜ満足したかが、私には不思議であった。
しかし、現在から、安倍談話を振り返ると、親米派には、なんのイデオロギーがないからである。米国に日本製品を買ってもらいたい、米国に日本を武力で守ってもらいたい、この2点しか、親米派にはないからだ。米国を怒らせることを安倍談話に書かなければ、それだけで良いのだ。
民族派から見れば、日本は、民族の独立という崇高な考えから、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜き」、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、戦前を美化しているから、談話は満足ゆくものだった。「富国強兵」のもと、欧米の領地拡大競争に日本が参加した、明治以降の歴史を隠したものである。
安倍晋三もイデオロギーのない男である。祖父や叔父や父から受け継いだ吉田松陰の教え、「日本の独立」「富国強兵」と親米派の「貿易立国」「対米従属」が共存している。
彼の『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」だと書く。この意味は、アメリカによって世界の秩序と日本の安全が保たれるという意味だ。
安倍晋三がトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を読んだか怪しい。
自然状態では、ひとは、互いに能力の大差がないうえに、他を支配しようという欲望をもつから、争いが絶えなくなる。だから、1つの意志をもつ生き物のように動くひとびとの集まり「リヴァイアサン」に、自分の自由を差しだし、その代わりに安全を得る、という考えを、トマス・ホッブズが主張している。
ここで意志を担うものを主権者という。トマス・ホッブズは、主権者と、臣民(自分の自由を差しだし手足になる者たち)とを区別している。
「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」というとき、ローマ帝国による地中海の平和「パクス・ローマーナ」のように、世界がアメリカの属国になればよいという考えを言っているのだ。
「日本の独立」と「対米従属」とが本来矛盾するはずなのに、安倍晋三はそう思わないのだ。彼の『新しい国へ』で、日本が「自由」と「民主主義」のために闘っていると書く。この「自由」と「民主主義」のもとに、日本をアメリカに投影することで、国に誇りをもてるように、するという。
これが、トランプ大統領への安倍晋三の接待外交を生む。ところが、トランプは、安倍を弱い男と思い、要求をどんどん高くしてくる。接待外交はすでに破綻している。
トマス・ホッブズは王党派であるが、主権者である王が自分の安全を脅かすとき、臣民は王を捨てても良いと言っている。
日本の取るべき選択は、安保を破棄し、米軍に日本から去ってもらうことでないだろうか。
ところが、いま、安倍政権がおこなっていることは、トランプ政権に対する怒りを、ムン・ジェイン政権にぶっつけているだけだ。日本国民は、事実を見つめないといけない。