猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ドイツ兵捕虜の悪人自慢『兵士というもの』

2019-08-06 21:04:15 | 戦争を考える


『兵士というもの ドイツ兵捕虜盗聴記録に見る戦争の心理』(みすず書房)は、ふたりのドイツの学者ナイツェルとヴェルツァーが、第2次世界大戦中のドイツ兵捕虜の膨大な盗聴記録から、「兵士というもの」の考え方を分析したものである。

2011年にドイツで最初に出版され、その後、つぎつぎと各国で翻訳出版された。昨年の日本語訳の出版は19カ国目である。

原著のタイトルは “SOLDATEN”で、ドイツ語で「兵士たち」である。読んだ印象では一般兵士というより軍人の盗聴記録のように感じる。
副題は “Protokolle vom Kämpfen, Töten und Sterben” で、直訳すれば「戦い、殺し、死ぬことの作法(プロトコール)」である。

本書は4章からなり、第3章のドイツ兵捕虜盗聴記録の要約または書き抜きが、ページ数全体の4分の3を占める。残りの4分の1は、「参照枠組み(Referenzrahmen)」を述べる第1章と、記録された兵士たちの会話を参照枠組みで分析する第2章と第4章にあてられる。

第3章の見出しが“Kämpfen, Töten und Sterben” である。中身は、ドイツ兵捕虜たちの自慢話、「犯し、奪い、殺し、殺す」である。第3章には、戦地で父親を殺し、そして、二人の娘を犯し、殺し、父親のチンポコを娘の膣に突っ込んだ、という兵士の自慢話がある。すざましい話である。

しかし、わたし自身は、これに驚かない。大日本帝国軍でも十分あった話しであり、現在の平和時の日本でもありうることだからである。

戦場で、無抵抗の人を殺すことを、「狩り」として楽しんでいた、という自慢は、現在のいじめっ子の心理と重なる。
わたしは、年寄りの酒飲みの会には出席しない。健康を理由に断るのだが、本当は、男の年寄りが酒を飲むと、如何に自分は平然と悪いことをしてきたか、の自慢話をするからだ。聞くもおぞましく、そんな場に絶対参加しないのだ。日本の男どもは、会社のお金をだまし取った、上司を罠にはめた、日本やフィリピンなどでセクハラやパワハラをした、そんなことを自慢するのである。残忍さ、冷酷さ、好色さを自慢する。悪人であることが、成功者の条件と思い込んでいる。

男どもはクズである。

ところで、『兵士というもの』の第3章を読むと、一部の兵士たちの妻は、兵士たちの残虐行為を聞いて見て楽しんでいるとある。日本でも、十分ありうることだ。女にもクズがいるはずだ。そうでなければ、安倍晋三の長期政権は続かない。

また、日本では、右翼のバカどもが、慰安婦問題を否定する。

第3章では、ドイツ版慰安所が描かれている。兵士の性病問題である。占領地では少女を含め若い女が兵士たちに近づく。女は金目当てで多くの兵士たちと性交するから、性病が蔓延する。ドイツ国防軍(Wehrmacht)はこれに対処するため、慰安所を設け、毎日、慰安所から性病の女を追い出し、新しい女を補充する。兵士たちは慰安所で列をなす。兵士たちには性行為の後の消毒を徹底させ、性病がうつされた兵士を消毒不徹底の罪で罰する。

大日本帝国軍も慰安所を設けた。情けないことに、中国戦線に駆り出された、わたしの父は、上海の慰安所で青い目の女と性交できたことが、日中戦争の唯一の楽しい思い出のようだった。慰安所に居るということの意味を、死んだ父は理解できていなかった。

しかし、本書は、読む上で、注意がいる。

第3章で取り上げられるのは、ユダヤ人、フランス人、ロシア人、イタリア人、チェコ人、ポーランド人など他国人への暴力だが、ナチスは教会関係者、共産党員、社会主義者、障害者、ジプシーを殺害していた。このことが、捕虜の盗聴記録にないのはなぜなのか。

これと関係するが、「ふたりの学者さん」の分析で気になるのは、沈黙の兵士たちの存在である。捕虜たちは、集まってすることが、自慢話しかない。盗聴記録は、この自慢話の記録である。男の集団では、他人より如何に悪人であるかが、自分が強いことを意味する。優しさは弱さとされる。わたしの経験から思うに、自慢しなかった男もいたはずである。黙っていたのかもしれないし、盗聴者の興味を引かなかったのかもしれない。このことを、考察で取り上げないのは、まずいのではないか。

沈黙者の存在を可視化するのが、歴史研究者で重要な役割ではないか。

さらに、「ふたりの学者さん」は、キーワード「参照枠組み」で兵士たちの心を盗聴記録を分析するが、この「参照枠組み」はドイツ軍の伝統的な理念である。外部から注入された理念以外に、個人的体験も、兵士たちの心に影響を与えるはずである。理念的な「参照枠組み」と個人的な情動との葛藤がなかったのか、疑問をもつ。戦争というものを考えるとき、ドイツ社会の「理念」だけでなく、主体的にかかわった個人の責任をも問う必要があると思う。

池澤夏樹は、宮澤賢治のことを「時代と直接に向かい合う姿勢が彼にはなかったのだ」と言う。

しかし、その宮澤賢治でさえ、『烏の北斗七星』という童話で、カラスの大尉に次のように言わせている。

「ああ、あしたの戦いでわたくしが勝つことがいいのか、山烏が勝つのがいいのか それはわたくしにはわかりません、ただあなたのお考えのとほりです、わたくしは わたくしにきまったやうに力いっぱいたたかひます、みんなみんな あなたのお考へのとほりです。」

そして、一羽だけでいた山烏を殺した後に、次のように嘆く。

「ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。」

宮澤賢治論の補遺:池澤夏樹の『言葉の流星群』

2019-08-06 16:09:19 | 童話

池澤夏樹は、『言葉の流星群』(角川文庫)のなかで、宮澤賢治のことをモダニストと書いた。

西欧にあこがれる「ロマンチスト」より「モダニスト」が宮澤賢治にぴったりと私も思う。この「モダニスト」は「新しいもの好き」という軽い意味だから、田舎に暮らし「モダニスト」であることは、何も不思議ではない。

いっぽう、神経科学者のエリック・カンデラは、「モダニズム」を啓蒙思想への反動と、『芸術・無意識・脳』(九夏社)のなかで言う。「啓蒙思想」もよくわからない語だから、「モダニズム」はもっとわからない。「啓蒙思想」は英語の “enlightenment”の訳である。光をあてて見えにくかったものを見えるようにすることだ。文字通り受け取るのが良いと思う。

ソビエト連邦の最初にして最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフが、行った政治改革策の柱が、情報公開(グラスノスチ)である。これはまさに、啓蒙である。

啓蒙の反対は蒙昧(obscurantism)で、それは、意図的にあいまいなことを言ったりして、問題の本質を隠すことをいう。愚民化策とも訳される。

啓蒙思想のミハイル・ゴルバチョフは、1991年に、ボリス・エリツィンのクーデターに負け、ソビエト連邦が崩壊する。エリツィンは、自分の闇の部分を覆い隠すために、ウラジーミル・プーチンを自分の後継者に選んだと言われている。

残念ながら、人間は、善意の「啓蒙」より、悪意の「蒙昧」を望むようである。

「モダニズム」が「啓蒙思想の反動」だというのは、人間に生まれつきの理性があるわけでなく、非合理的な行動にもでるという人間理解のことだ。カンデラは大脳皮質の機能よりも扁桃体、線条体の機能を強調しているわけだ。フリードリヒ・ニーチェも『道徳の系譜』で、自分の欲望を抑え込むことは自己に残酷だと言っている。

私は、人間が理性的でなくとも、それでも“enlightenment”をだいじだと思う。

だから宮澤賢治が軽い意味のほうでの「モダニスト」で充分である。

池澤夏樹は、宮澤賢治が必ずしも禁欲的でないと言う。宮澤賢治が「性」を直接扱った作品が2つあると言う。『泉ある家』と『十六日』である。「性」は情動のだいじな要素で、それによって、個人と個人とが結びついているとも私は思う。

物語は『十六日』のほうが性に対して肯定的であり、私は富島健夫の作品を思い浮かべた。

宮澤賢治は、童話のなかでも、「自己犠牲」より「性の喜び」を強調してよかったのではないか。人間にとって情動が避けられないものなら、争ったり、残酷になったりしないように、そして、人間同士が喜びをもって結びつくように、情動を利用していけばよい。

ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)のなかで、「自己犠牲」について次のように語っている。

「全体として見れば、みずからの起源をロックに負い、啓蒙された私利追求を説いた学派の方が、英雄主義と自己犠牲の名においてそれを軽べつした学派よりも、人間の幸福を増大させるにより大きい貢献をし、人間の悲惨を増大させることにはより少ししか役割を演じない。」

ここで「啓蒙された私利追求」は“enlightened self-interest”の訳である。

池澤夏樹の次のことばには、私は違和感をもつ。

「自由にはしかしいつも責任がついてまわる。田舎の共同体の中では一人の失敗は速やかに全体によって補われるが、都会の失敗者には誰にも手を貸してくれない。個人は個人として突き放される。」

「自由と責任」は、文部科学省の道徳教育『学習指導要領解説』に出てくるキーワードで、「自由」を束縛するものとして「責任」が置かれる。

池澤夏樹のことばは、自分の意志で選択した結果は、他人のせいではないから、どんなに悲惨な結果でも、我慢しろ、につながる。私が思うに、「自由」を求める情動は、人類が生き延びるために、新しいことに挑戦するように、すべての個人に植え付けられた特性である。失敗した挑戦者を暖かく助けるのが、人間社会の当然の知恵だと思う。

「共同体」は“community”の訳である。コミュニティは、田舎でも都会でも必要なものである。旧約聖書の新共同訳は、以前、「会衆」と訳していた“עדת”(エダー)を「共同体」と訳したが、とても良いと思う。池澤の「コミュニテイが都会にない」は、言いすぎであろう。個人とコミュニティは両立するものである。そして、コミュニティは自分で作ることができるものである。