『兵士というもの ドイツ兵捕虜盗聴記録に見る戦争の心理』(みすず書房)は、ふたりのドイツの学者ナイツェルとヴェルツァーが、第2次世界大戦中のドイツ兵捕虜の膨大な盗聴記録から、「兵士というもの」の考え方を分析したものである。
2011年にドイツで最初に出版され、その後、つぎつぎと各国で翻訳出版された。昨年の日本語訳の出版は19カ国目である。
原著のタイトルは “SOLDATEN”で、ドイツ語で「兵士たち」である。読んだ印象では一般兵士というより軍人の盗聴記録のように感じる。
副題は “Protokolle vom Kämpfen, Töten und Sterben” で、直訳すれば「戦い、殺し、死ぬことの作法(プロトコール)」である。
本書は4章からなり、第3章のドイツ兵捕虜盗聴記録の要約または書き抜きが、ページ数全体の4分の3を占める。残りの4分の1は、「参照枠組み(Referenzrahmen)」を述べる第1章と、記録された兵士たちの会話を参照枠組みで分析する第2章と第4章にあてられる。
第3章の見出しが“Kämpfen, Töten und Sterben” である。中身は、ドイツ兵捕虜たちの自慢話、「犯し、奪い、殺し、殺す」である。第3章には、戦地で父親を殺し、そして、二人の娘を犯し、殺し、父親のチンポコを娘の膣に突っ込んだ、という兵士の自慢話がある。すざましい話である。
しかし、わたし自身は、これに驚かない。大日本帝国軍でも十分あった話しであり、現在の平和時の日本でもありうることだからである。
戦場で、無抵抗の人を殺すことを、「狩り」として楽しんでいた、という自慢は、現在のいじめっ子の心理と重なる。
わたしは、年寄りの酒飲みの会には出席しない。健康を理由に断るのだが、本当は、男の年寄りが酒を飲むと、如何に自分は平然と悪いことをしてきたか、の自慢話をするからだ。聞くもおぞましく、そんな場に絶対参加しないのだ。日本の男どもは、会社のお金をだまし取った、上司を罠にはめた、日本やフィリピンなどでセクハラやパワハラをした、そんなことを自慢するのである。残忍さ、冷酷さ、好色さを自慢する。悪人であることが、成功者の条件と思い込んでいる。
男どもはクズである。
ところで、『兵士というもの』の第3章を読むと、一部の兵士たちの妻は、兵士たちの残虐行為を聞いて見て楽しんでいるとある。日本でも、十分ありうることだ。女にもクズがいるはずだ。そうでなければ、安倍晋三の長期政権は続かない。
また、日本では、右翼のバカどもが、慰安婦問題を否定する。
第3章では、ドイツ版慰安所が描かれている。兵士の性病問題である。占領地では少女を含め若い女が兵士たちに近づく。女は金目当てで多くの兵士たちと性交するから、性病が蔓延する。ドイツ国防軍(Wehrmacht)はこれに対処するため、慰安所を設け、毎日、慰安所から性病の女を追い出し、新しい女を補充する。兵士たちは慰安所で列をなす。兵士たちには性行為の後の消毒を徹底させ、性病がうつされた兵士を消毒不徹底の罪で罰する。
大日本帝国軍も慰安所を設けた。情けないことに、中国戦線に駆り出された、わたしの父は、上海の慰安所で青い目の女と性交できたことが、日中戦争の唯一の楽しい思い出のようだった。慰安所に居るということの意味を、死んだ父は理解できていなかった。
しかし、本書は、読む上で、注意がいる。
第3章で取り上げられるのは、ユダヤ人、フランス人、ロシア人、イタリア人、チェコ人、ポーランド人など他国人への暴力だが、ナチスは教会関係者、共産党員、社会主義者、障害者、ジプシーを殺害していた。このことが、捕虜の盗聴記録にないのはなぜなのか。
これと関係するが、「ふたりの学者さん」の分析で気になるのは、沈黙の兵士たちの存在である。捕虜たちは、集まってすることが、自慢話しかない。盗聴記録は、この自慢話の記録である。男の集団では、他人より如何に悪人であるかが、自分が強いことを意味する。優しさは弱さとされる。わたしの経験から思うに、自慢しなかった男もいたはずである。黙っていたのかもしれないし、盗聴者の興味を引かなかったのかもしれない。このことを、考察で取り上げないのは、まずいのではないか。
沈黙者の存在を可視化するのが、歴史研究者で重要な役割ではないか。
さらに、「ふたりの学者さん」は、キーワード「参照枠組み」で兵士たちの心を盗聴記録を分析するが、この「参照枠組み」はドイツ軍の伝統的な理念である。外部から注入された理念以外に、個人的体験も、兵士たちの心に影響を与えるはずである。理念的な「参照枠組み」と個人的な情動との葛藤がなかったのか、疑問をもつ。戦争というものを考えるとき、ドイツ社会の「理念」だけでなく、主体的にかかわった個人の責任をも問う必要があると思う。
池澤夏樹は、宮澤賢治のことを「時代と直接に向かい合う姿勢が彼にはなかったのだ」と言う。
しかし、その宮澤賢治でさえ、『烏の北斗七星』という童話で、カラスの大尉に次のように言わせている。
「ああ、あしたの戦いでわたくしが勝つことがいいのか、山烏が勝つのがいいのか それはわたくしにはわかりません、ただあなたのお考えのとほりです、わたくしは わたくしにきまったやうに力いっぱいたたかひます、みんなみんな あなたのお考へのとほりです。」
そして、一羽だけでいた山烏を殺した後に、次のように嘆く。
「ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。」