最近私は東京に腰を据えて海外に出る機会が減っているので(東京駐在員ですから)、ときに落ち着いて来し方を振り返ってみたりするのですが、どうも私は典型的な留学生崩れの道を歩んでいるようです(笑)。中国語に関する需要に応じるままに中国、香港、台湾と流転してしまい、おかげで組織の中で仕事をして人付き合いをして昇進して……という感覚がすっぽりと欠落したまま歳を重ねてしまいました。
ですから、「職業に対する好き嫌いと適性の有無は別物である」という当たり前のことにようやく思い至ったのも20代も半ばを越えたころでした。自分が嫌いな仕事でも、好きな仕事より適性があって向いている、というようなことがあるんですねえ。
これを応用すると、「自分のタイプである女性と、自分を好きになってくれる女性は必ずしも一致しない」ということにもなります。むしろ一致しないことの方が多くて全くもう×○△◇……(笑)。
――――
香港に住んでいたころ、1年ほど自暴自棄というか公私ともに荒んだ生活をしていた時期がありました。遊んでばかりもいられないので就職でもするかという気になったのですが、ふつう邦人なら日系の人材派遣会社を訪ねるところ、そこは自棄ですから地元紙の求人広告で適当に選んで、面接に行った地元企業に日本語力を買われて即入社決定(笑)。日本人観光客相手の漢方薬の店を立ち上げるとのことで、その準備一切に関わりました。もちろん日本人は私だけです。
香港ツアーに参加したことのある方ならわかるでしょうが、ガイドは観光二の次で革製品や免税店や土産物屋や漢方薬店へと団体客をやたらと連れ回します。その集客数(人頭税という隠語が使われていました)と売り上げに応じたコミッションがガイドの重要な収入源になるからです。
で、そのタイプの漢方薬屋を新規開業しようという訳です。色々な仕事をやらされました。店鋪建築を督促したり、日本語パンフレットを作成したり、商品パッケージの吟味をしたり。店内に掲げる木彫りのキャッチコピーも作らされましたし、店員の面接官もやりましたし、採用した店員の日本語教育も私の仕事。果てはプロモビデオの声優までやらされました(笑)。
それから出店地一帯を仕切るヤクザの親分と会食したのも今となっては貴重な体験です。香港の俳優である黄秋生に瓜二つの顔をしていまして、それだけでもドスが利いているのに隻腕なんです。左腕が肩から先はなくて、ポロシャツの裾がクーラーの風でヒラヒラと揺れていました。
――――
で、オープンすると副店長をやらされたのですが、その役職での実務はシャッターの開け閉めと在庫管理ぐらいで、実はその一方で兼務する仕事の方が重要なのでした。簡単に書きますと、ガイドが団体客を連れて入店し、教室のような部屋に案内して座らせる。するとおもむろに白衣を着た漢方医が悠然と登場し、商品である漢方薬を並べた前で30分ほど面白おかしく病気の話をする。商品の話をせずに病気と漢方の話を具体例や正確な数値を挙げて感心させつつ語るのがミソです。
すると不思議なことに、漢方医の話を聞くうちに団体客はなぜか並べられている薬を無性に買いたい気分になるのです(笑)。そしてその雰囲気が室内を支配した頃合に実にタイミング良く、駅弁売りのように肩から下げた箱に漢方薬を満載させたセールスたちが部屋に入ってきます。当然ながらどっと売れます。その間、白衣姿の漢方医は客の質問に答えたりして専門家らしく振る舞います。で、販売が終わるとガイドが団体客を連れ出して別な店へと連れていくのです。
私はこの「講師」(話し手)と呼ばれる白衣姿の「なんちゃって漢方医」を兼務させられました。むしろそれが本務でした。何人かいるうちの一人(もちろん私だけ日本人)ですが、やれと言われて「それだけは勘弁」と思ったものの、社長命令ですから仕方がありません。
当時の香港には漢方医の資格制度がなかったので漢方医を自称しても法的には問題ありませんでした。でも芸名?で漢方医になりすまして白衣姿で同じ日本人である団体客の前に立ち、あれこれ喋って頷かせたり笑わせたりした挙げ句、原価1000円の薬を2万円で売るというあくどい商売です。嫌で嫌で仕方ありませんでした。
――――
ただやる以上は徹しようと思い、普段から白衣を着て医者らしく振る舞う練習を自分なりにやりました。俳優がやる役づくりのようなものです。本物の医者ではなく、テレビドラマに出てくる医者の真似をすればそれっぽく見えるだろうと、一挙手一投足や説法をするときの雰囲気や語調などに心を砕いたものです。いや、本当に嫌だったのですけど、そこはオトナの世界ですから(笑)。
説法のコツなどは、ライバル店から引き抜いた「漢方医」のベテランで日本語ペラペラのエース格の人が親切にも教えてくれて、それを自分なりにアレンジしました。すると試してみたら売れること売れること。エース格の人は中高年の男性客に強く、私はなぜか女性客に売り付ける(ではなく、買いたい気持ちにさせる)のに長じていて、婦人用漢方薬の在庫があっという間になくなって慌てて増産するという有様でした。
忙しいときは「説法」に次ぐ「説法」で息つくヒマもありません。1回の「説法」を終えて室外に出て、すぐ次の「説法」の部屋に向かおうとしたときにガイドの人に腕を掴まれて最敬礼されたことがあります。後で聞いたところ、その「説法」1回の売り上げが40万円だか50万円だかに達したそうで、これには自分もちょっと怖くなりました。
嫌な仕事でしたけど、自分の話でどんどん薬が売れていくのが面白くなかったといえば嘘になります。意外なことに、月単位の売り上げで新人の私がエース格の人とトップ争いをするまでになりました。こちらは基本給に加えて売り上げに応じたコミッションが入ってきます。月間1200万円ぐらい売ったのですが、とんでもない金額が私の銀行口座に振り込まれたていたのでびっくりしました。自分でも不思議に思ったものですが、どうも私にはその仕事の適性があったようです。
でもやっぱり嫌なものは嫌でして、最初は面白がっていた部分もありましたけど、だんだんモチベーションが落ちていきました。高収入は嬉しかったのですが、こんな仕事をやっていたら人間がダメになる、と思ってほどなく辞めました。
――――
そのあとに知人の紹介で通訳の仕事をしました。この商売も合法的で香港や台湾ではありふれたものなのですが、日本人の感覚でいうと怪しげな仕事です。その通訳で、日本企業が顧客のときに声がかかり、日本に出向いて通訳を務めるだけです。ただそのまんまの通訳ではなく、中国人らしい考え方や表現を日本人に納得しやすい内容に話を変えたり、例え話を勝手に追加したり、日本人に理解しにくい概念をわかりやすく説明する点などに創意と技量が必要でした。
これまた好きか嫌いかと問われれば嫌いの範疇に入る仕事なのですが、どうもこういう舌先三寸の仕事が私には向いていたようです(笑)。10日間日本に行って仕事をして帰ってくると90万円。仕事はほぼ毎月1回のペースで入ってきましたからあとの20日間は遊んで暮らしました。これも嫌々やっていたので1年と続きませんでしたけど、今でもオファーが入ってきます(笑)。
自暴自棄ゆえにそういう仕事に転がったのですが、お蔭で人生をリセットする切っかけになりました。その後は縁に恵まれて香港や台湾のメディアに関わり、現在の副業をやり、それを続けつつやがて分野の異なる世界に入って、そちらが本業となって現在に至っています。
――――
さて標題の「頑張れ健治!」ですが、私が自棄になっていた時期に偶然知り合った年下の青年です。谷垣健治という名前は、香港のアクション映画に詳しい方なら御存知でしょう。小学生の頃にジャッキー・チェンに憧れてスタントマンを志し、日本国内で腕を磨いた後、香港のスタント(武師)の世界に日本からたった一人で飛び込んだ好漢です。
その日本から飛び込んでほどないころが私の自棄時代で、そのころに彼と知り合い、毎日のように顔を合わせては取りとめのない話で時間を潰したものです。その後、健治は仕事の世界で着々と地歩を固め、色々な香港映画に出演する一方、最近は自ら監督を務めて作品を世に送り出しています。ローカル受けする性格も幸いしたかと思いますが、もうすっかり香港のその業界に溶け込んでいます。
その後、私の仕事の拠点が香港-東京-台北-東京と転々としたために連絡も途絶えてしまっているのですが、私の可視範囲内にある才能の横溢した若い世代を応援するという意味で、また海外で頑張る日本人へのエールとして以下の書籍を紹介させて頂きます。上が健治の著書、下では監修を務めており、付属のDVDに通訳などの形で健治が登場します。
――――
| Trackback ( 0 )
|
|
すごく昔、安日本人宿に長期滞在してるとき、修業中の谷垣氏に遊びに連れてってもらったのを思い出しました。彼がワンタンメンに野菜をトッピングするのを横目で盗み見て、“加菜”という言葉を覚えたのがなつかしいです。
彼とはまた一献傾けたいものです。
懐かしい。
恐らく健治の雌伏時代のエピソードなんでしょうね。そのころから健治は広東語が上手でしたけど、「武師」の世界で交わされる広東語ですから、ローカルスタッフに尋ねてみたら、荒っぽいというか、かなり柄の悪い語彙が豊富だったそうです(笑)。早いもので、あれから10年ぐらい経っています。いまはもう緩急自在でしょうね。
>>通りすがりの名無しさん
魔大陸ですか(笑)。私もまだ20代でしたし、自暴自棄のやけっぱち状態でしたからあんなことが出来たのだと思います。いくら何でもこういう話題が豊富にあったら現在のように堅気?な職業に就いてはいないと思います。大体こんな話題を楽しんではいけません(笑)。今となっては貴重にも思える、御家人の「どくろ杯」時代です。
>>仔仔さん
健ちゃんつながりですね。でも私は香港に来た当初のみ日本企業でしたし、そのときも日本人よりローカルとの付き合いが深かったような状況ですから、邦人社会とは最後まで懸絶した環境にありました。銅鑼湾あたりでニアミスしたことはあったかも知れませんが、仔仔さんと直接お会いしたことは多分ないと思います。
>>星港さん
長寿園は確か尖沙咀の広東道あたりにありましたね。葬儀屋のような怪し気な外見でした。店名の特定は避けますが、長寿園ではありません。あの「暗さ」「いかがわしさ」に対するアンチテーゼとして、イメージとしては明るく開放的な店鋪というコンセプトに徹しました。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。