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一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『スラムドッグ$ミリオネア』

2009-05-07 | キネマ
連休中に見た3作目は『スラムドッグ$ミリオネア』

これは傑作。


『グラン・トリノ』が人生観を映画に見事に織り込んだ作品なのに対し、こちらは映画の持つ魅力をすべてつぎ込んで「ど真ん中直球」で勝負した作品です。





予告編や公式サイトや評論なども見ずに、先入観も予備知識もなく観た方がいいです。
(なので僕もネタバレになるようなことは書きません。)


これだけ社会が複雑になり観客もすれている時代でも、有名スターもCGも時事ネタも実話にも頼らずにこういう映画が作られるのだから、たまには映画館に足を運ばなきゃいけないな、と思いました。


登場人物それぞれが、美味しく炊けたご飯のように一人ひとり粒が立っています。
特に主人公の兄-大きくなったらマイケルジャクソンの下手なそっくりさんみたいになっちゃったけど-の役回りがいい。

ハンディカメラを多用したスピード感あるカメラワークと音楽の疾走感もいい
(思わずサントラのCDを買ってしまいました。)。

そして何より、監督の目線がまっすぐ前を向いているところがすばらしいです。



(そうそう、「ど真ん中直球」度合いでいうと『ニュー・シネマ・パラダイス』が近いかもしれません。)


だまされたと思って観てください。

それも、ぜひ劇場で観ることをお勧めします。

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地球温暖蚊

2009-05-06 | 乱読日記

どうも手を蚊にさされたらしく、夜中の二時頃に目が覚めた。

今年初めてということもあってか、とても痒い。


眠いのでそのまま寝ようとすると、耳元で例の羽音が。


ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊のほそ聲になのりて、顏のもとに飛びありく、羽風さへ身のほどにるこそ、いとにくけれ。
(枕草子 二十五段「にくきもの」)


このまま刺され続けるのも癪に障るので、電気をつけて探す。


しかし奴はどこかに隠れて出てこない。


しばらく電気をつけたまま『宇宙兄弟』を読み返しつつ、誘い出しを試みる。


 

そうだ、俺はそういうタイプだ・・・


しかし奴は出てこない。

仕方がないので、昨年使わずに残っていた金鳥リキッドだかアース・ノ-マットだかを戸棚の奥から取り出して使ってみる。

薬品の有効期限はよくわからないが、効果があったのか朝まで二次被害はなし。

 
しかし5月早々というのに、もう蚊がいるというのも、温暖化の影響?



ところで、気に入るマンガにはこんな共通点があるようです。

1 設定が面白く、知らない世界をリアルに見せてくれる
2 登場人物のキャラが立っている
3 画が好み(動きや表情を上手く書ける人が好き)
4 ギャグがツボにはまる
5 作者の人間への洞察が共感できる

『宇宙兄弟』も3以外は当てはまるかな。




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『バーン・アフター・リーディング』

2009-05-06 | キネマ
2作目は『バーン・アフター・リーディング』

コーエン兄弟と曲者系の役者ということで期待していたのですが、これはいまひとつ食い足りない感じでした。




公式サイトのトーンでは、ブラッド・ピットやジョージ・クルーニーのファンがお気楽に楽しめればいい(コーエン兄弟にしてもここは手堅く収益を上げよう?)という感じなので、あまり期待しすぎてはいけなかったのかもしれません。


人間の愚かさを戯画化するのが得意なコーエン兄弟だけあって、登場人物の設定やストーリー展開はなかなか面白いのですが、スターたちが勝手に遊んじゃっていて、シニカルにいくのかドタバタで行くのか中途半端な感じでした。


これがもう少し地味目や無名の俳優を使って「自分を過大評価しがちな男と現実的で欲深い女」をシニカルに描いた映画にしたら『ファーゴ』のような作品になったかもしれないな、とふと思ったのですが、期待しすぎでしたかね。



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『グラン・トリノ』

2009-05-05 | キネマ
毎年連休は近場で過ごすことが多いのですが、今年は話題の映画が何本もあるので映画三昧を決め込むことにしました。


トップバッターに選んだのは『グラン・トリノ』だったのですが、いきなり先頭打者ホームランを打たれてしまいました。





人生の晩年をどう過ごすかについて、今や監督としてのほうが有名になってしまった感のあるクリント・イーストウッドが名優ぶりを発揮しています。

人生の晩年の姿は人それぞれの人生を反映して、「貫き通す」「枯れる」「燃え尽きる」「折れる」などさまざまな要素が現われてくるのでしょう。
主人公がどうなっていくんだろう、という心配と期待を抱かせながらストーリーが展開します。

そしてその心配すらいちばん大事な事ではないと映画が語っていることに気づいたときに、深く胸を打たれます。

宣伝では「衝撃の結末」などと煽っていますが、ストーリーを追うよりも、場面一つ一つが味わい深く、かみしめてじっくりと観たい映画です。


古い大木が倒れてそこに新しい木が育つことで、森はその姿を保ち続けることができる。その古木の最後の瞬間の物語とでも言ったらいいでしょうか。



蛇足ですが、
滂沱してしまう可能性がかなり高いのと、観終わった直後にズレたことを言われるとがっかりするので、できれば一人で観にいったほうがいいと思います。




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「もう、すんなよ。」

2009-05-02 | よしなしごと

先生と裁判官に、ごくろうさまです、といいたいような事件です。

小2児童の胸元つかみ叱責 最高裁「体罰に当たらぬ」
(2009年4月29日(水)08:05 産経新聞)  

 熊本県天草市(旧本渡市)で平成14年、臨時教員の男性が当時小学2年生だった男児の胸元をつかんで叱責(しっせき)した行為が、学校教育法で禁じる体罰に当たるかどうかが争われた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(近藤崇晴裁判長)は28日、「教員の行為は体罰に当たらない」と判断し、体罰を認定して損害賠償を命じた1、2審判決を破棄、原告の請求を棄却した。男児側の敗訴が確定した。  
 教員の行為が体罰に当たるかどうかが争われた民事訴訟で、最高裁が判断を示したのは初めて。  

というか、今までそんなことが最高裁までの争いになったことがなかったんでしょう。

最高裁判決は「殴る、ける」や「肉体的苦痛」を容認したものではなく、体罰の定義も示していない。しかし、許される行為を明示し、体罰か否かを判断する要素として「目的、態様、継続時間」を挙げたことは、指導に戸惑う教育現場にひとつの指針を与えるものになりそうだ。  

新聞記事ではもっともらしく書いていますが、判決文を読むと、そもそも民事訴訟で損害賠償請求をするような案件じゃないだろ、という感じの書きぶりです。

平成20(受)981 損害賠償請求事件 平成21年04月28日 最高裁判所第三小法廷 判決 破棄自判 福岡高等裁判所

2 原審の適法に確定した事実関係の概要は,次のとおりである。 
(1) 被上告人は,平成14年11月当時,本件小学校の2年生の男子であり,身長は約130㎝であった。Aは,その当時,本件小学校の教員として3年3組の担任を務めており,身長は約167㎝であった。Aは,被上告人とは面識がなかった。 
(2) Aは,同月26日の1時限目終了後の休み時間に,本件小学校の校舎1階の廊下で,コンピューターをしたいとだだをこねる3年生の男子をしゃがんでなだめていた。 
(3) 同所を通り掛かった被上告人は,Aの背中に覆いかぶさるようにして肩をもんだ。Aが離れるように言っても,被上告人は肩をもむのをやめなかったので,Aは,上半身をひねり,右手で被上告人を振りほどいた。 
(4) そこに6年生の女子数人が通り掛かったところ,被上告人は,同級生の男子1名と共に,じゃれつくように同人らを蹴り始めた。Aは,これを制止し,このようなことをしてはいけないと注意した。 
(5) その後,Aが職員室へ向かおうとしたところ,被上告人は,後ろからAのでん部付近を2回蹴って逃げ出した。 
(6) Aは,これに立腹して被上告人を追い掛けて捕まえ,被上告人の胸元の洋服を右手でつかんで壁に押し当て,大声で「もう,すんなよ。」と叱った(以下,この行為を「本件行為」という。)。 
(7) 被上告人は,同日午後10時ころ,自宅で大声で泣き始め,母親に対し,「眼鏡の先生から暴力をされた。」と訴えた。 
(8) その後,被上告人には,夜中に泣き叫び,食欲が低下するなどの症状が現れ,通学にも支障を生ずるようになり,病院に通院して治療を受けるなどしたが,これらの症状はその後徐々に回復し,被上告人は,元気に学校生活を送り,家でも問題なく過ごすようになった。 
(9) その間,被上告人の母親は,長期にわたって,本件小学校の関係者等に対し,Aの本件行為について極めて激しい抗議行動を続けた。  

要するに調子に乗りすぎて先生に怒られた子供が、甘やかされて育ったためか家に帰って駄々をこねだしたのを親が過剰反応しただけではないかと。 

この事実認定で福岡高裁は「学校教育法11条ただし書により全面的に禁止されている体罰に該当し,違法である。」として慰謝料10万円等合計21万4145円を支払え、という判決を下していること自体が僕自身の常識から言うとちょっと驚きです。

そうすると,Aの本件行為は,児童の身体に対する有形力の行使ではあるが,他人を蹴るという被上告人の一連の悪ふざけについて,これからはそのような悪ふざけをしないように被上告人を指導するために行われたものであり,悪ふざけの罰として被上告人に肉体的苦痛を与えるために行われたものではないことが明らかである。Aは,自分自身も被上告人による悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行っており,本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても,本件行為は,その目的,態様,継続時間等から判断して,教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく,学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではないというべきである。したがって,Aのした本件行為に違法性は認められない。  

結論としてはもっともだと思いますが、「Aは,自分自身も被上告人による悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行っており,本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえない」というところは、かなり先生に対しても厳しいですね。
悪ふざけが度を越した場合も腹を立ててはいけない、とまで求める必要はないと思いますし、それでは生徒になめられてしまうように思います(ずるい奴ならあえて挑発するかも。)。

裁判に訴えるのは国民の権利とはいえ、こういう案件が最高裁にまであがるのですから、やはり法曹人口は増やさないといけないのかもしれません。
それに弁護士が増員されてもこんな訴訟をする親が増えるのであればまだまだ商売にはなるのではないでしょうか。  


ところで、こういう親は、最高裁の判決が出ても、判決が不当だとして、最高裁判所裁判官の国民審査で×をつけるような運動をしそうな気がしますが・・・

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「この人ならやりかねない」

2009-05-01 | よしなしごと

Nikkei BPnetのSafety Japanに「安全生活アドバイザー」の佐伯幸子という人が書いてるコラムなのですが、言いたい放題。

電車内痴漢 ~ えん罪を防ぐ男の自己防衛策 ~  

たとえ位置的に痴漢行為が難しいと思われても、「この人ならやりかねない」と思われてしまうことがありえる。残念なことだが、人はまず見た目で判断されるのだ。中身はともかく、見知らぬ他人同士、相手を判断するのはまずその外見であるから、自分が女性にとって好ましいタイプかどうかを考える必要がある。  

極端な話、男性アイドルのような、さわやかな容貌であれば疑われないものを、女性が「この人ならやりかねない」と思ってしまうようなタイプの人もいる。また、見るからに男性すら恐れるような威圧感を持ったタイプの男性であれば、女性もなかなか声をあげにくいだろう。要するに、ごく一般的で無防備で、女性が何か言いやすいタイプであれば、いつでも的にされる危険性はあると思われる。  

この点は、実は誰よりも自分が一番知っているはずである。日頃から、周囲の女性たちとどのように接しているか、どのように思われているだろうか考えておくといい。数人の男性がいた場合、中でも特に痴漢と疑われやすいタイプかどうかを、自分の風貌や性格や物言いからも検証してみよう。

まあ、ご託宣のとおりかもしれませんし、そうだとしてもそれに対して自己防衛しなければいけない世の中というのがどうよ、という部分もありますが、さらに、「この点は、実は誰よりも自分が一番知っているはずである」というところは疑問。 
なかなか自分が「この人ならやりかねない」と見られていると自己評価できる人は少ないと思います(自分も回りも含めて。)。

逆に本人はそうは思っていないからこそ「この人ならやりかねない」という雰囲気をかもし出してしまうのではないかと。

そうでなければ、勘違い系のセクハラは起きないでしょうし。



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『この国を作り変えよう-日本を再生させる10の提言』

2009-05-01 | 乱読日記

元産業再生機構のCOOで株式会社経営共創基盤の社長の冨山和彦氏とマネックス証券社長の松本大氏の対談集。
ただ、本自体は対談風でなく往復書簡風にまとめてあるので、放談風にならずにある程度まとまった考え方として整理されていてよいです。

両方の著者とは同年代なので共感する部分の多い本であります(お二人と志の高さはだいぶ違いますが・・・)。
特に団塊の世代と団塊ジュニアに挟まれ人数的にも少ない僕らの世代は、本書の一つの論点である世代間の利害対立に敏感でもあります。また僕らもそろそろ50歳が見えてきて、世代的に言えば年金もかろうじて元が取れる言わば「うまくいけば逃げ切れる」世代に属するのですが、それでいいのか、という自戒も含まれています。

本書のテーマを一言で言えば、今の日本最大の問題は「現在生きている人の最大多数の幸福と未来世代の幸福の最大化の相克」であり、ただそれは世代間対立を伴い、既得権を犯すものであるがために「見たくない現実」として目を背けているというところにある、ということです。
具体的には現在既得権益を持っている(団塊の世代を中心とする、でも僕らの世代まで含めた)中高年世代全員の意識の問題である。たとえば格差問題にしても、市場経済によってもたらされた格差と反市場経済的制度や規制を原因とする格差をすべて市場経済の責任にして、補助金などの規制的な政策で解決しようとすることの矛盾や、既得権益を守りたい世代のそれを失う不安と既得権益に縁がない世代の将来への漠然とした不安はそもそも対立関係にあるのにもかかわらず、同じ問題として扱うことの愚かさ(たとえば「老人が安心して住める国にする」という政策目標は若者を不安にするということを無視している)などです。

ただ、4,5年後には(生き残りを画策はするであろうものの)団塊の世代がお引取りになるであろうし、その時点で日本が将来に向かってどうして行くかが改めて問われることにもなり、それは逆にまた若い世代としてはチャンスでもある。そしてそのために今から変えよう、種をまいておこう、というのが二人の主張です。

たとえば年金制度については、人口構成から将来の破綻が明らかな賦課方式をやめ、一度保険料をすべて返した上で、新しい制度を一から作り直すことを提案しています。今それを行えばまだ赤字が120兆円なので、税金で補填することは十分可能だが、問題を先送りするほど改革が困難になり破綻が現実的なものになります。

もっとも副題の「10の提言」というのは結果的に編集者がまとめた感があり、政策提言というよりは考え方の軸としてこういう発想もあるよ、という意味で、特に若い人に読んでもらいたい本です。

同世代としては、松本氏のこの言葉が共感できます。

私は、おそらく冨山さんも、自分の考えが絶対に正しく、かつ普遍的であるとは全く思っていない。すべての存在と考えには「時代性」がある。私は1963年式のカラダとアタマしか持っていない。しかし1963年式としての考えを主張する権利もあるし、一方、1963年式として行動する義務もあると思う。すべての世代が、古い世代を壊す権利と義務があり、新しい世代に壊される運命を負っていると、私は考えている。

上の世代から言わせると、こういう相対論的な物言いが僕らの世代の中途半端さであり、「民主主義教育の悪弊」だとか言われるんでしょう。
でも、衆を頼んで我を通す人よりはこういう人の方が好きですけどね、僕は。


 

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