古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

阿武山古墳は天智天皇の御陵でしょう

2006年01月03日 15時24分22秒 | Weblog
まず、須磨―諏訪のG線上にのるのは臣下ではなく王のものです。
須磨はスサノヲ、諏訪も武力の王、岐阜も周王朝の武王の関連。蒲生野も武力を思い起こさせる「薬‘狩’」の地。
信長は武力による王を目指したからG線上の地に岐阜の地名をつけたのです。(井沢元彦氏の説からの類推)
 (信長はなぜ比叡山を焼き打ちにしたのでしょうか。比叡山は平安京の鬼門の地にあり、延暦寺は平安京を護るために建てられたというのが定説でした。たぶんそれは本当なのでしょう。ですから、信長は平安京を無防備にするために比叡山を焼き払ったと考えられます。すると、信長は神も仏も信じなかったでしょうが、陰陽五行のようなものは信じていたことになります。
 追記・・浅井、朝倉攻めの時に比叡山が浅井、朝倉に加勢したことを恨みに思って、信長は比叡山を焼き討ちにしたというのが定説だそうです。そういえば、昔そんな話を聞いたことがありました。)

阿武山古墳の位置
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=345148&l=1353410
 阿武山古墳は昭和9年偶然発見されたそうです。
京大地震観測所が計器を埋設しようとして、掘っていたところぶちあったようです。まるで古墳・墓があるとは思えない状況だったようです。

 阿武山古墳で検索すると当時の事情がわかって面白いです。
 発見された棺が、ほぼ無理矢理こじ開けられたところ、中に貴人と思われるミイラ化・白骨化したご遺体が発見されました。以下、ご遺体の所見の引用です。そのほかの部分は検索して読んでみてください。

【真説日本古代史】特別編7の摂津阿武山古墳調査報告書
http://www2.plala.or.jp/cygnus/s7.html
《一部新聞では阿武山古墳=藤原鎌足墓説を展開し、巷では天皇の御陵かもしれないとも、ささやかれ始めていた》
また、昭和57年京大地震観測所に当時の34枚のX線写真が残されていたものが発見されて、考古学研究所で修復して発表されました。
(1)古墳の発掘状況2枚(2)乾漆棺6枚
  (3)遺体の様子7枚  (4)遺体とガラス枕のX線写真19枚

《以下は、オリジナルフィルムを見た、東海大学医学部の各診療部門の所
 見である。
1.複合の骨折損傷が認められる。腰椎および胸椎、また、左上腕骨の大結節部の骨折あるいは脱臼骨折がみられる。脊椎の下方で脊髄損傷を起こしている。
2. 以上の結果、事故による(例えば落馬など)骨折によって即死でなく(これは肋骨や脊椎の一部に修復のあとがみられる)、下半身麻痺を起こし足の運動障害、知覚麻痺、排便、排尿障害などがあり、二次的な合併症、例えば肺炎、床ずれ、尿路感染症などで悪化したと推定される。

3.肘の変形がみられる。これは乗馬、弓などの使用によるものではないかと考える。歯については咬耗が強いので、現代人ならば五〇~六〇歳とみてもよい。X線画像からは歯槽骨の吸収はある。頭骸骨の縫合の一部が石灰化している五〇歳代としても矛盾はない。

4.脊椎の変形が少なく、整形の立場から見ると年齢は若く見える。死因については内臓が残っていないので不明だが、脊椎の損傷から見れば、これが原因とも考えられる。》


《比較考古学演習 古病理学 倉本 卿介》より
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/hikakukoukogaku.html
 藤原鎌足?
被葬者は男性で死亡推定年齢は、歯の観察から60才を上限とし、甲状軟骨の化骨化から50才以上と考えられます。文献によれば55才(614~669)となっています。長幅指数は83,3%で短頭で、身長は164,6�と推定されます。大腿骨の強大さは個人的な特徴とみられ、左肘の関節の骨の突起はスポ-ツ肘と同様で生前、弓の過剰な鍛練によるものと思われます。又、やや強度の歯槽膿漏が見受けられます。死因としては、第十一胸椎の押しつぶされた変形と付近の3本の肋骨の骨折、肩の付け根の腕の関節付近の骨折、それらの骨がくっつき始めた生活反応があることと、下半身麻痺で寝たっきりのところへ尿路感染か何かの合併症にかかり、それが基で死亡したものと考えられます。文献によると669年初夏の狩りの折落馬か転落事故をしており、その3~4ケ月後死亡したものと考えられます。》

以下私の想像です。
天智天皇は蒲生野における薬猟のときに、雷を受け、その上、馬が暴れ落馬したものと思われます。
(馬は音には非常に鋭敏で神経質だそうです。長篠の合戦では鉄砲・火縄銃の発射音だけで武田の騎馬軍は機能しなくなったであろう。・・・井沢「逆説」9p434の要約)
 ですから、天智天皇は落雷も受けたはずですが、落馬の主な要因は雷鳴により馬が暴れたせいなのかもしれません。
埋葬者はほぼ50~60歳代と推定されているようですが《4.脊椎の変形が少なく、整形の立場から見ると年齢は若く見える》そうですから、43、4歳であっても不思議ではありません。
書紀の記述によると鎌足は56歳(50とも書いてある)で亡くなったことになっています。これは12年長くしたと思われます。(エトの分、あまり関係ないかしら)
 当時、天皇の御陵ではないかと、考えた人の脳裏には天智天皇が浮かんだはずです。証拠もないし、恐れ多いということで噂は消えたのでしょう。
しかし、この墓への埋葬は秘密裏におこなわれたように見えます。偶然発見されたものですし、とても古墳のようにはみえません。
埋葬者が「藤原鎌足」だとしたなら、なぜ秘密にされなければならなかったのでしょうか。
日本書紀では、確かに、鎌足は「自分の葬儀は質素にやってくれ」と天智天皇に頼んでいます。しかし、質素と秘密裏におこなうとは別でしょう。
鎌足の葬儀も墓への埋葬も、天智天皇が生存していた時ならば質素にも秘密裏にもすることはないはずです。大化二年三月二十二日に薄葬の方針が出されているようですから、質素でもいいのですが、少なくとも秘密裏におこなうことではないでしょう。(と思いましたら、薄葬令を読みますと‘秘密にしたい’と記述されていました)
では、天智天皇の埋葬は秘密裏にしなければならなかったのでしょうか。たぶんそうなのでしょう。崩御されたことを公開することをためらったために、機会を失ったとも考えられます。そして薄葬だったために、公開すると墓が冒涜される怖れがあったかもしれません。
又は改装されたとしたならば、以前の位置が王として不適切と考えられたからでしょう。
現在の山科の天智天皇陵はダミーとして後から造られたか、そうでないとしたならば、後にそこから棺が秘密裏に運び出されたか、または間違って比定されたかでしょう。
 「薄葬令」は後にします。

 (3)の「歯については咬耗が強い」から「50~60歳」と判断されています。
しかし、肘の診断から‘弓などをやっていた’とみられています。こういうスポーツをやっている方は歯の咬耗が強いはずです。野球の王選手は現役時代奥歯がぼろぼろになっていたというのは有名な話です。
弓の過剰な鍛錬と推測されることから、腕の筋肉は発達していたものと思われます。そして乗馬をたしなむことから、内股の筋肉も発達していたはずです。(競馬の騎手の内股の筋肉は凄いです)ちょっとやそっとじゃ落馬はしません。

 想像されるこの筋肉で思い出すのが、古事記中巻に書かれた神功皇后の御子・応神天皇です。
大鞆(おおとも)和気と御名前がつけられたわけは、お生まれになったときから腕の筋肉が発達していた、からなのです。大鞆(おおとも)和気という名前から大友皇子を思い出しますが、この応神天皇の描写からは天智天皇(中大兄皇子)がひらめくべきです。
 応神天皇は太子のときに、建内宿禰命に連れられて気比の大神で禊をします。この時、気比の大神から、名前を入れ替えるお祝いとして、入鹿を授かります。これが大化の改新・乙巳の変の真相です。(たぶん。今のところ雑です。)
 応神天皇・腕の筋肉・阿武山古墳の被葬者・中大兄皇子(天智天皇)・建内宿禰命(?)・入鹿(蘇我氏)などが結びつきます。 
 阿武山古墳の被葬者として天智天皇が浮かび上がります。
そして大化二年の薄葬令を読むと、まるで阿武山古墳について書いてあるようなのです。    続く
・・・・・
現在は、天智天皇は実在しなかったと考えています。
阿武山古墳は百済王豊璋の墓でしょう。2013・5/10追記。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 須磨と諏訪を結ぶG線② | トップ | 阿武山古墳と大化薄葬令について »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事