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古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

東の 野に炎の ・・阿騎野

2018年08月27日 16時06分35秒 | Weblog
万葉集((軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌)短歌)
48
東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
ひむかしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

49
日並の 皇子の命の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ
ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ

「ひむかしの~」の歌は、東から日が上がってきて、ふり返ってみると月が沈もうとしていた、という叙景歌ですが、太陽が誰それで,月が誰それだ、という解釈もありました。
また、もう一つは、日並皇子が猟に出発したときの時刻が近づいたことを思い出して詠んだ、と一般的には解釈されているようです。

日並皇子(ひなみしのみこ)は草壁皇子とされていますが ,私は高市皇子と考えています。
(日・日→HI・HI→KHI・KHI→木・木→林→林太郎→蘇我入鹿)
この歌は,単なる猟の歌ではなく、大津皇子を阿騎野で討つために待ち伏せしていたときの情景を詠んだものではないか、と考えています。
686年天武天皇崩御後、大津皇子は藤原宮で即位するために、伊勢で禊ぎをし、藤原宮に帰る途中で高市皇子たちに殺害されたはずです。

また、軽皇子は文武天皇のことですが、高市皇子も軽皇子だったと考えています。

ある方の本では、東から太陽が昇るときに、月が西に沈むのは、持統天皇何月何日とありました。
しかし、私はこれには納得がいきませんでした。
《東から太陽が昇るときに、月が西に沈む》のは大津皇子が殺害された月日でなければなりません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/大津皇子
大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) - 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。

旧暦でいえば朱鳥元年10月3日で新暦に直すと《686年10月25日》のようです。
大伯皇女 (おおくのひめみこ・大来皇女とも)
《二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)》

大津皇子の姉の大伯皇女 は、大津皇子が秋山を越えられるかどうか心配します。
その懸念の通りに大津皇子は秋山を越えられなかったのです。
(もちろん、後から創られた歌です。後付けの歌です。)
「秋山」とは「阿騎野」のことでしょう。

宇陀松山城跡・城山
北緯34度28分52.45秒 東経135度56分16.23秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342852.45&l=1355616.23
34°28′52.45″135°56′16.23″
34.4812 135.9378

笹峠
〒633-2164 奈良県宇陀市大宇陀拾生
北緯34度28分37.18秒 東経135度56分14.75秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342837.18&l=1355614.75
34.4770 135.9374

http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/koyomix.cgi


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2018/10/25 日の出  6:07
       月の入り 6:20

阿騎野から見ると,高市皇子たちが大津皇子を殺害した日は日の出の時には月が沈みかけていたことになります。

禊ぎは皇大神宮(伊勢神宮・内宮)ではなく瀧原宮だったかもしれません。





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横浜 連絡船じゃなくて観光船
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