古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

不比等の墓所は黒髪(山、神社)にある、かも

2006年11月19日 23時05分08秒 | Weblog
 以前に元明、元正、聖武天皇陵に言及した時には、この近辺に文武天皇陵がないのは無残だとしました。
(2006・2/23・聖武天皇の父は藤原不比等であるⅡ)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/5725c64b60e284f2a7f62d6928c71599

 しかし、あるべきはずの不比等の墓も見えなかったのです。
 そこで、不比等ゆかりの海龍王寺と元明陵・聖武陵の位置関係で、何とか不比等と三天皇を関係付けようとしました。
特殊な三角形を構成するものですから、そのときはそれで済ませたのですが、海龍王寺の片隅が不比等の墓所だというのも変でした。もちろん墓所とは考えませんでしたが、何かがあるのではないかとは考えました。しかし、墓所でなければ、三天皇の陵とのつり合いが取れません。
引っ掛かっていたのですが、どうしようもありませんでした。

 しかし、今回、伊勢神宮・外宮と出雲大社の線上に黒髪神社がのることがわかり、もしかすると、ここが不比等の墓所かもしれないと思い至ったしだいです。
(ただし、神社は、後から造られた可能性が大きいので、仮に墓所だったとしても、それを知らないで造られたのでしょう。)

 線上にあるというだけでは納得されないでしょう。
 なぜこんな所に不比等陵がなければならないのか、とさぞかしいぶかられることと思います。
 ですが、不比等陵は誰にもわからないところに造られなければならなかったのです。(もちろんわからないところですから、黒髪神社のあるところとは限りません。)
なぜなら、それこそが書紀に書かれた「薄葬令」の意義だからです。

(2006・1/6・阿武山古墳と大化の薄葬令)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/8f7e4ea93050f2917d7a27ad8638de1f


書紀では、大化の薄葬令となっていますが、大化2年(646)の孝徳天皇(軽皇子)ではなく、大宝2年(702)の文武天皇(軽皇子)が出したものであろうとしました。
この「薄葬」は不比等の信念だと考えます。天武・持統天皇も「薄葬」を考えられたのかもしれませんが、不比等は変化させているはずです。
阿武山古墳は不比等の父・天智天皇の陵だと考えますが、父の陵を誰にもわからなくさせておいて、自分の陵を誰にでもわかるように造るわけにはいかないはずです。
また、光源氏のモデルの一人として、私は不比等を挙げました。
(2006・2/25聖武天皇の父は藤原不比等であるⅢ)

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/89f2bf4051c1c2374215e495271662f4

源氏物語の最終巻は「雲隠」で、ご承知のように何も書かれていません。
光源氏は、いつ亡くなったのか、どこでどのように亡くなったのか何も書かれていません。墓がどこにあるかも書かれませんでした。
光源氏と同じに、不比等の墓もわかりません。

(不比等は720年に亡くなったとされています。そこは違いますが、もしかすると、不比等はもう少し後まで生きていたのではないでしょうか。こんなことをいってもしょうがないのですが・・・。不比等が光源氏ならばそうあってほしいという、こちらの勝手な願望なんです。)

 三天皇と不比等の関係、薄葬令、出雲大社と伊勢神宮・外宮を結ぶ線からいって、黒髪神社のあるところは、不比等陵の候補の筆頭に上げられます。

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現在は、藤原不比等の墓は、大山守命墓と考えています。2014・1/7記

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大山守命墓について以下から9回に渡ってやっています。2014・11/20追記
私には、大山守命墓が藤原不比等の墓としか思えません。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3bad7ea3a2aa232ed34cc164ac2e1370
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