古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

無題

2019年03月07日 20時11分05秒 | Weblog
以前からやっていることですが,あいかわらずまとまりません。あしからず。
次のことは確かだと思えますが、証明になってないでしょう。
『出雲大社の位置は朝鮮と日本の関係を意識して設定されているように思えます。』
 竹島も関連付けられます。
出雲大社は杵築大社と呼ばれていました。そこで、《出雲大社ー高千穂峰》の測地線上に杵築という地名があるのが、前回気になったわけです。
そこで、とりあえず、豊の国から出雲に杵築大社は移動した、という可能性はあるはず、と想像しました。
その上、《竹島ー立磐神社》の測地線も大分の杵築を通っていました。
大分の杵築は《出雲大社ー高千穂峰》と《竹島ー立磐神社》の測地線の交点でした。
また、《出雲大社ー高千穂峰》は《インチョン湾ー天河大弁財天社(尾鷲神社)》と直角
《竹島ー立磐神社》は《天河大弁財天社ー出雲大社ーインチョン湾》と直角
大分の杵築、住吉浜の砂嘴(さし)
杵築という地名も驚きでしたが、住吉浜も驚きです。






住吉浜
https://ja.wikipedia.org/wiki/住吉浜
住吉浜(すみよしはま)は、大分県杵築市にある海岸
(神戸市東灘区の地名「住吉浜町」とは異なります)
別府湾の北側、国東半島の付け根近くに位置する守江湾の東側[1]にあり、湾を取り囲むように弧を描いて南西に突き出す天然の砂嘴(さし)で、三方を海に囲まれている。
京都府宮津市の天橋立に擬して豊後天ノ橋立とも呼ばれ、江戸時代後期には歌川広重(安藤広重)の『六十余州名所図会』の「蓑崎」にも描かれた古くからの景勝地である。また、北側に位置する奈多海岸と合わせ、「奈多・住吉海岸」として大分百景に選ばれている。

この広重の浮世絵、《六十余州名所図会》「62豊後・蓑崎」には船が描かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/六十余州名所図会
(海や川の場面には,見たところ、すべてに,船が描かれていそうです。ですから想像は当てにならないかもしれませんけれども・・・)
この住吉浜・守江港に天然の砂嘴が存在するということは、船舶が停泊するには便利だったのではないでしょうか。(浮世絵には船も描かれていますし)
(遠浅ということが引っ掛かりますが,)
交易には絶好の場所だったとすると、元の杵築大社がここにあってもいいではないか、・・。
(もしくは、宇佐神宮が杵築大社であったかもしれません。)
出雲大社ー高千穂峰の測地線はこの砂嘴を通っています。

また、大分・杵築には大きな古墳がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小熊山古墳
小熊山古墳
この小熊山古墳は、墳形・出土遺物から古墳時代前期前半の3世紀後半-4世紀初頭頃の築造と推定される[3]。一帯では、南方の御塔山古墳(古墳時代中期の大型円墳)に先行する国東半島の盟主墳とされる。また豊前・豊後地域において、石塚山古墳(福岡県京都郡苅田町)に続く大首長墓と推測する説もある[1]。
古墳域は、2017年(平成29年)に御塔山古墳の古墳域と合わせて「小熊山古墳・御塔山古墳」として国の史跡に指定されている[4][5][3]。

https://www.city.kitsuki.lg.jp/kanko_rekishi/rekishi_bunka_bunkazai/12/3468.html
小熊山古墳は、墳長116.5メートルの大型の前方後円墳【ぜんぽうこうえんふん】で、古墳時代前期前半(3世紀後半から4世紀初頭)に築かれたものです。

杵築大社は出雲の地に移動したものでしょうか。
出雲大社はインチョン湾ー天河大弁財天社(・尾鷲神社)の測地線上であり
同時に皇大神宮(伊勢神宮・内宮)ー武寧王陵(ムリョンワンヌン)のほぼ測地線上でした。



竹島から氣多大社、住吉大社、武寧王陵(ムリョンワンヌン)はほぼ同じ距離です。
大分・住吉浜は少し短いですが
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