古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

△中宮寺跡-井上内親王陵・他戸親王墓-伊勢神宮・外宮

2017年12月26日 22時39分02秒 | Weblog
他戸親王も聖徳太子の列に加えられてもいいはずです。
聖徳太子にはいろいろな方が投影されていると考えています。
(何度も書いていて恐縮ですが、魏志倭人伝は二人の卑弥呼を同一人物と勘違いしました。そのために、亡くなった卑弥呼が生き返ったことになってしまいます。魏志倭人伝は卑弥呼を復活させてしまいます。それは大和朝廷を永続させることにつながるために、この魏志倭人伝の間違いは重要になります。ですから、その間違い通りに記・紀は記述されます。続日本紀も同様のはずです。)
他戸親王も聖徳太子になっても、おかしくありません。

《他戸親王(おさべしんのう、天平宝字5年(761年)? - 宝亀6年4月27日(775年6月3日)は、奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。)ウィキペディア

他戸親王も井上内親王も775年の同日に亡くなっていますし、聖徳太子と母・穴穂部間人皇女も,同時ではないにしろ、622年に亡くなっています。
775-622=153 152ですと19×8

聖徳太子が薨じたのは(推古天皇30年2月22日(622年4月8日))
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html
廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。

聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が亡くなったのが《推古天皇29年12月21日(622年2月6日)》
日本書紀には書かれていません。
『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)に書かれている、とのことです。
母親の亡くなった2ヶ月後に聖徳太子が亡くなったことになります。

しかし、井上内親王とその子・他戸親王は同日になくなっている。
違うだろう、違うじゃないか、いや確かに、違っています。
でも、どこか似ている感が否めません。
http://www.j-texts.com/jodai/shoku32.html
《宝亀三年(七七一)三月癸未【壬午朔二】》○三月癸未。皇后井上内親王坐巫蠱廃。
(七七二の間違いでしょう。)
《宝亀三年(七七二)五月丁未【廿七】》○丁未。廃皇太子他戸王為庶人。
井上内親王が皇后を廃されたのが3月
他戸親王が廃皇太子となり庶人とされたのが5月ということで、2ヶ月差がありました。日数は一致してない?

「聖徳太子怨霊説」はご存じの通り、「隠された十字架」の梅原猛説でした。
井上内親王・他戸親王の薨去後、数々の災害が起こり、それが祟りとされ、二人は怨霊とされ怖れられたようです。
いかがでしょうか。他戸親王にも聖徳太子の資格が充分にあるのではないでしょうか。
日本書紀が桓武天皇以降にも書き加え、書き換えられているならば、他戸親王も聖徳太子の列に加えられていてもおかしくないのです。

早良親王も加えられてもいいのではないか、と思えますが、後でやれましたら
《早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4年9月28日(785年11月8日))は、奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。》 ウィキペディア

ところで、もともとは文武天皇が聖徳太子に投影されているのではないかと考えました。
聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)

元明天皇(阿閉皇女・あへのひめみこ)崩御 養老5年12月7日(721年12月29日)
穴穂部間人皇女が亡くなったのが《推古天皇29年12月21日(622年2月6日)》
721年・622年とピッタリ100年ではないようにみえますが、旧暦にすれば100年差では?

穴穂部間人皇女―穴穂部(アナホベ)→ア・ナホ・ベ→アベ・ナホ→阿閉・奈保
元明天皇は阿閇皇女(あへのひめみこ)です。
穴穂部は元明天皇の「阿閉」と墓所の「奈保」が混じっています。
穴穂部間人皇女は聖徳太子の母とするならば、元明天皇は文武天皇の母になりますから、聖徳太子=文武天皇となります。
藤ノ木古墳の被葬者の一人は文武天皇になります。
藤ノ木古墳のもう一人の被葬者は長屋王です。

で、井上内親王はどうでしょうか
http://www.chuguji.jp/
《中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、》






中宮寺跡-他戸親王墓-井上内親王陵はほぼ一直線
△中宮寺跡-井上内親王陵-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
中宮寺跡→井上内親王陵
 ①188°57′26.22″ ②8°55′35.17″ ③32,212.962(m)
中宮寺跡→伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
 ①98°56′18.23″ ②279°28′55.82″ ③89,148.141(m)
伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)→井上内親王陵
 ①259°37′00.07″ ②79°02′38.73″ ③94,799.217(m)

中宮寺跡での角度
 188°57′26.22″-98°56′18.23″=90°01′07.99″≒90.0189度
井上内親王陵での角度
 79°02′38.73″-8°55′35.17″=70°07′03.56″≒70.1177度
伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)での角度
 279°28′55.82″-259°37′00.07″=19°51′55.75″≒19.8655度

△中宮寺跡-他戸親王墓-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
中宮寺跡→他戸親王墓
 ①188°54′18.50″ ②8°52′29.93″ ③31,671.647(m)
中宮寺跡→伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
 ①98°56′18.23″ ②279°28′55.82″ ③89,148.141(m)
他戸親王墓→伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
 ①79°20′49.84″ ②259°55′08.82″ ③94,589.328(m)

中宮寺跡での角度
 188°54′18.50″-98°56′18.23″=89°58′00.27″≒89.9667度
他戸親王墓での角度
 79°20′49.84″-8°52′29.93″=70°28′19.91″≒70.4722度
伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)での角度
 279°28′55.82″-259°55′08.82″=19°33′47.00″≒19.5631度

中宮寺跡
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343657.17&l=1354438.93
34°36'57.17"N, 135°44'38.93"E

井上内親王陵(光仁天皇皇后)
北緯34度19分44.48秒、東経135度41分22.73秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341944.48&l=1354122.73
34°19'44.48"N 135°41'22.73"E

中宮寺
北緯34度36分53.94秒 東経135度44分22.47秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343653.94&l=1354422.47
34°36’53.94”N,135°44’22.47”E

伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
北緯34度29分14.10秒、東経136度42分10.50秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342914.10&l=1364210.50




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