古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

△諸塚山ー諏訪大社下社秋宮ーケソン(開城)

2020年07月03日 14時40分37秒 | Weblog
日光東照宮ー諸塚山の測地線上に天智天皇陵がありましたが、諏訪大社下社秋宮も存在していました。
以下、意味があるものかどうか、主張しづらいところもありますが、
とりあえず、時間稼ぎでやっておきます。
日光東照宮ー諸塚山の測地線上に天智天皇陵がありましたが、諏訪大社下社秋宮も存在していました。
①△日光東照宮ー諸塚山ーピョンヤン(平壌)・安鶴宮跡はほぼ直角二等辺三角形になり、
②△日光東照宮ー諸塚山ーソウルが辺の比が5:4:3の直角三角形
③△天智天皇陵ー諸塚山ーソウルも辺の比が5:4:3の直角三角形
④△日光東照宮ー諸塚山ー安鶴宮跡は直角二等辺三角形
⑤△天智天皇陵ー諸塚山ー安鶴宮跡は正三角形を真半分にした直角三角形でした。



そこに、諏訪大社下社秋宮も日光東照宮ー諸塚山の測地線上にあるといっていいようです。




すると,朝鮮のどこかと直角三角形を構成するのではないか、となります。
ソウル、ピョンヤン(平壌)だと、直角三角形を構成するには構成するわけですが、意味あるものとは思えません。
そこで、諸塚山→ソウルの延長線上、または諸塚山→ピョンヤン(平壌)の線上に何かないかと探してみました。
無理矢理と思えましたが、ケソン(開城)が見つかりました。
この前、爆破された南北連絡事務所があるところです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9F%8E%E5%B8%82
開城市(ケソンし、かいじょうし、개성시)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。

百済がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽(동비홀、トンビボル)城」と呼ばれており、高句麗時代を経て統一新羅の757年(景徳王16年)に地名を「開城郡」と中国風の漢字2文字に改めた。

ケソン(開城)も王都だったということで、ソウル、ピョンヤン(平壌)と並べてもいいのではないか、ということで

△諏訪大社下社秋宮ー諸塚山―ケソン(開城)・南北共同連絡事務所跡
諸塚山→諏訪大社下社秋宮
 ①56°44′19.53″ ②240°34′59.63″ ③732,858.021(m)
諸塚山→ケソン(開城)・南北共同連絡事務所跡
 ①325°29′36.12″ ②142°47′41.28″ ③724,722.122(m)
諏訪大社下社秋宮→ケソン(開城)・南北共同連絡事務所跡
 ①284°50′04.99″ ②97°54′57.93″ ③1,040,706.630(m)

諸塚山での角度
360°ー325°29′36.12″+56°44′19.53″=91°14′43.41″≒91.2454度
諏訪大社下社秋宮での角度 
 284°50′04.99″ー240°34′59.63″=44°15′05.36″≒44.2515度
ケソン(開城)・南北共同連絡事務所跡での角度
 142°47′41.28″ー97°54′57.93″=44°51′43.35″≒44.8620度

いちおう、直角二等辺三角形になるのではないか、と。

諸塚山
北緯32度38分04.47秒 東経131度17分13.80秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=323804.47&l=1311713.80
32°38′04.47″N 131°17′13.80″E

ケソン(開城)・南北共同連絡事務所跡
北緯37度55分56.29秒 東経126度37分19.35秒
37°55′56.29″N 126°37′19.35″E

諏訪大社下社秋宮
北緯36度04分31.26秒 東経138度05分28.35秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360431.26&l=1380528.35
36°04′31.26″N 138°05′28.35″E

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