しつこいですが、確認します。
納得されないかもしれませんが、磐井の乱が527年にされているのは、660年(133年後)の百済滅亡と707年(180年後)文武天皇殺害の二つに関連付けるためです。
そして、《大化元年(645)12月9日 孝徳天皇、都を難波長柄豊碕に遷す》ということは、57年後の702年(または705)に文武天皇が難波宮に遷都をした(または、しようとした)ことを示すものと考えます。
文武天皇は孝徳天皇でもありますし、反乱者・磐井にもさせられています。
《①大化元年(645)12月9日 孝徳天皇、都を難波長柄豊碕に遷す》というように記述されていながら、
《白雉元年(650)冬十月に、宮の地に入れむが為に丘墓(はか)を壊(やぶ)られたるひと、及び遷されたる人には、物賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有り。即ち将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫(あらたゐのあたひひらぶ)を遣して、宮の堺標(さかひのしめ)を立つ》
《白雉二年(651)12月晦、・・・天皇、大郡より遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮といふ。》(四・p316)とあります。
5年後に立退き料を払って、やっと宮の堺を決めた、ということのようで、これでは645年に「都を難波長柄豊碕に遷す」という状況ではなかったことになります。
大郡というのは、「地名ではなく外交用の庁舎の名前だろう」(三・注p329)ということです。
しかし、それまで天皇がいたのなら宮といっていいはずです。
単なる宮、離宮といった類なのでしょうか。
都といっても、藤原京や平城京や平安京のように大掛かりでないのかもしれませんが、形を成しているといっていいような気もします。
ところが、やはり、孝徳天皇の場合の遷都はおかしいのです。
②天武12年(683)12月17日
「凡(おおよ)そ都城(みやこ)・宮室(おほみや)、一処(ひとところ)にあらず、必ず両参(ふたところみところ)造らむ。故、まず難波に都つくらむとおもふ」
もし、孝徳天皇が難波に遷都し、一応の形を整えていたとしたならば、この天武天皇の詔は変ではないでしょうか。
これでは、難波に都を造るという構想自体が、天武天皇の時代に初めてできたように読めます。
しかも、というか、ところがというか、藤原京は694年に完成しています。
《持統4年(690)10月条
「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」
持統4年12月条
「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、持統8年(694)12月条
「藤原宮に遷り居(おは)します」》
で、難波宮はどうなっているのかといえば、
《朱鳥元年(686)1月
難波の大蔵省(おほくらのつかさ)に失火して、宮室(おほみや)悉(ことごとく)焚(や)けぬ。・・・・唯(ただ)し兵庫職(つはもののつかさ)のみは焚(や)けず。》
難波宮は、兵器に関する部分以外はすべて焼けてしまったようです。
兵庫職(つはもののつかさ)は、注によると、
『・・・・宮司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの』(五・p219)
ということですが、変な書き方のような気がします。
倉庫なら倉庫が焼けたと書けばいいものを、なぜ役人と書いたのでしょうか。
また、注によると、大蔵省(おほくらのつかさ)は
『後の大蔵省に相当する宮司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう』
ということで、この時代には『大蔵省』はなかったわけです。
(大宝・養老律令のときにできたらしい)
686年に大蔵省から失火、そしてほとんど難波宮が焼けたということを信じるならば、その時代に大蔵省という言葉がなかったのですから、省は後から足されたと考えるしかありません。
しかし、時代がずらされて記述されていると思えば、故意に省を入れたのかもしれないと考えることもできます。
しかし、孝徳天皇の時代に相当する年代に難波宮はなかったのではないでしょうか。
天武天皇のときに構想があり、難波宮はできていたかもしれません。
686年に難波宮が焼失していたならば、確かにそういえます。
しかし、「記・紀」は年代ががずれています。
この686年が、19年後か20年後の706年ではなかったとはいえません。
なぜなら、686年には存在しなかった言葉が使われていたからです。
私は、文武天皇は藤原不比等に殺されたと書きました。(崇峻天皇・蘇我馬子706-114=592)
しかし、文武天皇には不比等以外にもまだ他にも敵がいたようです。
敵を作ってしまった、といった方がいいかもしれません。
敵の敵は味方だということです。
文武天皇の難波宮は、天武天皇の難波宮と性格が違ったのではないでしょうか。
磐井の乱のときの継体天皇の
『天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門(ながと)より東(ひむがし)をば朕(われ)制(かと)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制れ』という言葉はそれを示しているものと考えます。
うまく説明できるかなぁ。
納得されないかもしれませんが、磐井の乱が527年にされているのは、660年(133年後)の百済滅亡と707年(180年後)文武天皇殺害の二つに関連付けるためです。
そして、《大化元年(645)12月9日 孝徳天皇、都を難波長柄豊碕に遷す》ということは、57年後の702年(または705)に文武天皇が難波宮に遷都をした(または、しようとした)ことを示すものと考えます。
文武天皇は孝徳天皇でもありますし、反乱者・磐井にもさせられています。
《①大化元年(645)12月9日 孝徳天皇、都を難波長柄豊碕に遷す》というように記述されていながら、
《白雉元年(650)冬十月に、宮の地に入れむが為に丘墓(はか)を壊(やぶ)られたるひと、及び遷されたる人には、物賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有り。即ち将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫(あらたゐのあたひひらぶ)を遣して、宮の堺標(さかひのしめ)を立つ》
《白雉二年(651)12月晦、・・・天皇、大郡より遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮といふ。》(四・p316)とあります。
5年後に立退き料を払って、やっと宮の堺を決めた、ということのようで、これでは645年に「都を難波長柄豊碕に遷す」という状況ではなかったことになります。
大郡というのは、「地名ではなく外交用の庁舎の名前だろう」(三・注p329)ということです。
しかし、それまで天皇がいたのなら宮といっていいはずです。
単なる宮、離宮といった類なのでしょうか。
都といっても、藤原京や平城京や平安京のように大掛かりでないのかもしれませんが、形を成しているといっていいような気もします。
ところが、やはり、孝徳天皇の場合の遷都はおかしいのです。
②天武12年(683)12月17日
「凡(おおよ)そ都城(みやこ)・宮室(おほみや)、一処(ひとところ)にあらず、必ず両参(ふたところみところ)造らむ。故、まず難波に都つくらむとおもふ」
もし、孝徳天皇が難波に遷都し、一応の形を整えていたとしたならば、この天武天皇の詔は変ではないでしょうか。
これでは、難波に都を造るという構想自体が、天武天皇の時代に初めてできたように読めます。
しかも、というか、ところがというか、藤原京は694年に完成しています。
《持統4年(690)10月条
「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」
持統4年12月条
「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、持統8年(694)12月条
「藤原宮に遷り居(おは)します」》
で、難波宮はどうなっているのかといえば、
《朱鳥元年(686)1月
難波の大蔵省(おほくらのつかさ)に失火して、宮室(おほみや)悉(ことごとく)焚(や)けぬ。・・・・唯(ただ)し兵庫職(つはもののつかさ)のみは焚(や)けず。》
難波宮は、兵器に関する部分以外はすべて焼けてしまったようです。
兵庫職(つはもののつかさ)は、注によると、
『・・・・宮司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの』(五・p219)
ということですが、変な書き方のような気がします。
倉庫なら倉庫が焼けたと書けばいいものを、なぜ役人と書いたのでしょうか。
また、注によると、大蔵省(おほくらのつかさ)は
『後の大蔵省に相当する宮司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう』
ということで、この時代には『大蔵省』はなかったわけです。
(大宝・養老律令のときにできたらしい)
686年に大蔵省から失火、そしてほとんど難波宮が焼けたということを信じるならば、その時代に大蔵省という言葉がなかったのですから、省は後から足されたと考えるしかありません。
しかし、時代がずらされて記述されていると思えば、故意に省を入れたのかもしれないと考えることもできます。
しかし、孝徳天皇の時代に相当する年代に難波宮はなかったのではないでしょうか。
天武天皇のときに構想があり、難波宮はできていたかもしれません。
686年に難波宮が焼失していたならば、確かにそういえます。
しかし、「記・紀」は年代ががずれています。
この686年が、19年後か20年後の706年ではなかったとはいえません。
なぜなら、686年には存在しなかった言葉が使われていたからです。
私は、文武天皇は藤原不比等に殺されたと書きました。(崇峻天皇・蘇我馬子706-114=592)
しかし、文武天皇には不比等以外にもまだ他にも敵がいたようです。
敵を作ってしまった、といった方がいいかもしれません。
敵の敵は味方だということです。
文武天皇の難波宮は、天武天皇の難波宮と性格が違ったのではないでしょうか。
磐井の乱のときの継体天皇の
『天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門(ながと)より東(ひむがし)をば朕(われ)制(かと)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制れ』という言葉はそれを示しているものと考えます。
うまく説明できるかなぁ。