古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

推古天皇晩年の天候異変、飢饉と宣化紀と舒明紀の関連

2006年05月06日 00時01分15秒 | Weblog
推古34年(626)春正月に桃(もも)李(すもも)花さけり。
 3月に寒くして霜降る。6月雪ふれり。
 3月から7月に至るまでに霖雨(ながめ)ふる。天下大きに飢える。
 老人は草の根をくらいて、道のほとりに死ぬ。幼は乳を含みて、母子共に死ぬ。 強盗窃盗が続発。
推古35年(627)狢(むじな)が人に化けて歌う。など
推古36年(628)2月天皇病気、3月2日日食、3月7日崩御
  4月大きな雹(あられ)ふる。春から夏まで旱(ひでり)

これらは天候異変です。推古天皇晩年は、これが本当だとしたならば、大変な事態になっていたようです。

ところで、宣化天皇紀・元年(536)には飢饉の記事はありませんでした。
それどころか、食物は天下の根本と位置づけ、凶年・飢饉に備えるための方策は応神天皇のときから採られていた(もみ稲、余剰分の備蓄)と記述されていました。
宣化紀では悪いことは書かれていませんでした。
《ただ石姫皇女とか火焔皇子(ほのほのみこ)という名前が登場します。また阿蘇仍君(あそのきみ)とやらも見えます》

じつは、ちょろっとながめて、宣化天皇の御代も飢饉だったのか、と思ったものですから、推古紀と似ていると早とちりしてしまいました。
凶年に備えるという趣旨のようですが、ずいぶんと具体的に見えます。

しかし、これはおきている順番が逆になっていると見るべきかもしれません。
飢饉の対策の後で飢饉が起きているからです。
飢饉の対策が役に立たなかったのか、対策以上に飢饉の規模が大きすぎたのか、飢饉の対策は(626-536=90)年後には忘れられてしまっていたのか、のどれかと普通は考えるところでしょうが、逆にしていると考えることが可能です。

さて、もし推古34~36年の旱(ひでり)や霖雨(ながめ)で凶作が続いていたとするならば、次の舒明天皇の御代に何らかの対策が打ち出されているはずです。
ところが、舒明8年(636)正月朔(ついたちのひ)、またもや日食があり、この年は旱(ひでり)で飢饉だったとかかれています。しかし、この年の5月は霖雨(ながめ)で大水もあったそうです。
(舒明9年3月2日にも日食がありました。)
 舒明8年(636)は宣化元年(536)からちょうど100年後です。

 全体的に把握できたならばいいのですが、まだまだそういうわけにはいきません。そこで、妄想を書きます。

 本当の凶作はこの舒明8年の636年頃だったのではないでしょうか。
 そして、宣化元年に記述されている対策が実行されたのではないでしょうか。
 この宣化天皇の詔は、「半島の事態に対しての処置として書かれている」と文庫本の解説には書かれています。(文庫三p228)
 確かに、「筑紫に穀(もみ)を運ぶ」ようですから、国内の対策とも限りません。しかし、「国を安全にするにはこれ以上の方法はない」と書いてあるようによめます。
 うがって考えると、この時(636)の凶作は朝鮮半島におきていたのかもしれません。

(筑紫に急ぎで穀を集めるのは、海外から来る‘良客’を饗応するためのように記述されています。しかし、それにしては切羽詰っているようですし、広範囲から、穀だけが運ばれるようです。これは、半島で緊急の事態が生じ、逃れてくる人に対応するためだったのではないでしょうか。凶作、動乱どちらもありえそうです。そして、536年ではなく、636年のことだろうと、今のところ想像します。勘です。)
 
 もともとここでは、推古紀と宣化紀の関連に興味を持ったことがきっかけです。

①推古天皇は竹田皇子との合葬です。宣化天皇(高田皇子)も皇后(橘皇女)とその幼子との合葬です。(竹田・高田と合葬が似ている)

②宣化元年(536)と推古元年(593)の差は593-536=57(19×3)年間です。繰り返しの可能性があります。

③凶年に関しても関連がありそうです。

推古天皇と卑弥呼トヨの関連性をいえば、日食と晩年の飢饉が想像されます。
(トヨの殺害は当時流行したはずの疫病に端を発しているものと、想像しています)
推古天皇晩年の凶作は、推古天皇が卑弥呼の生まれ変わりでなければならないために、創られたものではないかと考えます。
 
(すると推古天皇は‘火と石’によって崩御しなければなりません。強引に考えます。「南庭(おおば)に殯す」とあります。この南を火とします。また、桃の実のような‘あられ’が降ったとあります。これを石(金気)と考えます)

さて、では推古・舒明天皇と続いている凶作は対策が採られたのでしょうか。
宣化天皇の対策があったとはおもいますが、もう一つ想像できます。

推古34年には強盗窃盗がやむことがなかったと描かれています。
ところが、この強盗、窃盗がまるでなくなっていたことが、皇極紀にかかれています。
皇極元年(642)には盗人が道に落ちているものも拾わなくなっていました。
蘇我入鹿が権力を握っていたからというのが理由になっています。
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