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“個性ある国家“を形成するには、「国家の理念」がなければならない

2013年02月10日 13時03分24秒 | 日本人と憲法

明日二月十一日は建国記念の日です。日本の国家とは何かということを考えるべき時代になったと言えます。戦後レジーム脱却には、日本とは何か、日本人とは何かをしっかりと探る必要があるでしょう。

久しぶりにサイタニのブログからの転載です。

「憲法を何故変えなければならないか」のシリーズです。チャンネル桜で、水島さんが、世界の戦争において、日本のような特攻精神を持った兵士が存在したのは日本だけだということをおっしゃっていました。

世界でも、結果的に国家のために戦って死んだという人は多いですが、最初から死ぬことを覚悟した作戦で命を捧げるというのは日本の特攻隊だけで、それが決して一時的なファナックな感情の昂奮ではなく、非常に冷静で澄み切った心境のもとで死地に向かっていることに、アンドレ・マルローなど多くの世界の識者が驚きと尊敬を述べています。

水島さんは何故日本人がこのような心境になれるのかということを、次のようにおっしゃっています。

「散る桜、残る桜も、散る桜」という特攻隊の方の辞世の句があるが、日本人は散華された兵士を桜の花に例えることが多く、これは日本国民一人一人が、日本の国を桜の木に例えて、その日本の国という木の生命から咲き出た花であるという、国の生命との一体感を持っているからだとおっしゃっています。

その自分を生んだ元の生命のため、その元の生命とともにある家族のために自分の命を犠牲にしても守ろうというのは、自分の命が国の命と一つになること、私的な個人からの意識の飛躍であり、自己の生命感の拡大であるといえるのではないでしょうか。

それはまた、イエスの自己犠牲に通じるもの、自己の小さな肉体的生命感を脱して、自己解放、自己拡大したものと同じではないかという気がします。

 

【直言極言】中国の侵略と特攻精神[桜H25/2/8]





 
占領憲法には最初に、この憲法の趣旨を総括的にまとめた前文があって、その中には次のようなことが書かれているのであります。
 
 
「・・・・ ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権カは 国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
 
 
第一、「主権が国民に存する」ことが人類普遍の原理ではないのでありますそして「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって・・・」 など書かれていますが、実際は、今国政を行なっている者を信託していない人間がたくさんいるのであります。それは野党の人たちであって、常に政府攻撃をし て「自分たち国民はお前たちを信任しないぞ」叫んでいるのであります。だから「国政は国民の厳粛な信託によるものである」という憲法の文章は空文であるか ウソが書いてあるのであって、決して「人類普遍の原理」でも何でもないのであります。
 
 
だいいち国家の主権が国民に存するということが日本国家においては真理ではないのであります
 


部分に分割したら全体はなくなる
 
 
禅宗第一の真理の書『無門関』に、“奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)”の公案というのがありまして、奚仲という支那古代の聖王・黄帝の時代に人類最初の「車」を発明して、まず百台の車を製作したが、それを部分品に分解した後、車はいったい何処にあるかと、その部分品を見て探しまわったが、車は行方不明になって見つからなかったという話が出ているのであります。
 
部分品を見て廻ったが車は見っからなかったというのは、すべてのものは、部分品に分解してしまったら、全体は存在しなくなるということであります人間でも、その肉体を解剖して部分品に分解してしまったら、人間そのものは死んでしまって、人間はなくなるのであります。
 
 
国家も、それを国家構成の部分たる国民ひとりひとりに分解してしまったら、部分はあるが全体はない国民はあるが国家はないことになるのでありますこうして、現行の占領憲法では、部分である国民はあるが、生命体としての国家はない憲法になっているのでありますから、この憲法のコトバがだんだん現実化してくるに従って、「国家をなくする活動」が次第に具体化してくることになるのであります。その一つのあらわれが左翼運動の激化と、学生騒動とであります。
 
 
部分が全体として形成されるためにはその形成を指導する霊が要る
 
 
唯 物輪者は、全体は部分の集合体であって、部分がまずあって、部分が一定の設計の秩序に従って集合したとき全体ができあがると考えるのでありますが、それは 全体の形が生成される過程を、第三者が形の上からみたにすぎないのであります。部分はでたらめに集合したのでは全体は形成されない、部分を一定の目的に集 合するには、単に部分が集合するだけではなく、その集合を指導する「秩序の智慧」の存在がければならないのであります。国民が集合して一個の“個性ある国家“を形成するには、「国家の理念」ともいうべきものが先行して、部分の集合する形及び過程を統制して行かなければ、部分は全体を構成することはできないのであります。そ れは譬(たと)えば、受精卵が細胞分裂をつづけて部分としての細胞の数は増殖して積みあげられて行きましても、そこに細胞の集合を秩序的に統制するところ の人間の霊魂が天降(あまくだ)って来なければ、その細胞群が個性ある人間として形成されることにならないのであります。そしてそれは単なる葡萄状鬼胎の ごとき不整型な細胞群となるにすぎないのであります、
 
 
 
人体は霊魂が宿ることによっそ個性的存在となる
 
 人 体が形成されるにあたって、それが単に細胞分裂によって増殖した細胞が、機械的に集合して人体を形成して行くのだったら、それは機械的構成であるから、す べて一人の母親から生まれてくる子供は、機械的に同一類型の個性のない人間ばかりが生まれなければならないはずでありますけれども、それが、たとい同一母 親から産まれた子供であっても、ひとりひとり個性が異なるところの人間がうまれて来ることを思えば、人体は単に増殖細胞が物理化学的工程によって機械的に 集合形成せられるのではなくて個性ある“指導精神”又は“理念”又は“霊魂”が天降って来て、その個性に従って人体を構成するものであると結論せざるを得 ないのであります。
 
 
 
 
 
 
外国の国家のうちには、人民が集まって協議して自已防衛のための団体をつくり、その人民群の福利のための信託組合のような形で国家が形成されたのがずいぶんあるようであります。
 
 
しかしそのような国家形成の原理を日本民族国家の形成にまで当てはめて考えることは間違いなのでありますこの間違いの原理を、国家形成の「普遍の原理」だなどと称して日本に押しつけたのが現行の占領憲法であります。
 
 
日本国家の形成は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天孫降臨の神勅(みことのり)にある如く、天照大御神がその大御心(おおみごころ)の中に
 
 
「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」
 
 
という日本国家形成の個性ある根本原型が設計せられ、その精神的原型(すなわち理念)が天降って、その理念の具象化として神武天皇の建国となり、
 
 
爾来、二干六百三十年にわたって、日本にのみ存在するこの個性ある天皇中心国家が連綿として継続して来たことはそれが人類普遍の個性なき国家形成の原理に従って機械的に形成された国家でないからこそであり、
 
 
それが天授の国家理念の具体化であればこそ、このように天皇中心制度が二千六百三十年にもわたって継続し得たのであります。
 これは他国に比類なきことであります。
 
 
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より



参考


 

「何故憲法を変えなければならないか」3

2013年01月02日 03時11分56秒 | 日本人と憲法

明けましてお目出度うございます。本年も宜しくお願い申しあげます。

サイタニのブログから転載です。日本人の考え方、世界観が最も現われているものが、古事記日本書紀ですが、戦後は、この日本の神話は、全く軽視され、さらには日本人の誤った愛国心につながるなどと洗脳されて、無視されてきました。

しかし、きちんと読めば、占領政策で、侵略戦争の根源であるかのように宣伝された八紘一宇(八紘為宇)が決してそうではなく、誰かがいったようにユニバーサルフレンドシップであり、世界連邦構想だと解るのです。

このような古代に、道義国家宣言をし、世界連邦構想によって、全人類の平和を祈願するということを建国の理想に掲げた君主が存在し、それが日本国家の始まりだということは、誇るべきことだと思います。




神武天皇の世界連邦構想
 
神武天皇建都即位の御詔勅に話を戻すが、その御詔勅の中に

「下は即ち皇孫(すめみま)正しきを養いたまう心を弘めん」
とあるのは、日本書紀巻第三(神武天皇の巻)の冒頭にちかき所に、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が
「正しきを養い、慶びを積み、暉(ひかり)を重ね…:
とあるのに相対するお言葉である。

このお言葉はキリストの「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」という教訓と全 く同じ精神なのである。

神の国の正義を自己の内に養い、修養して、よろこべば喜び来るの原理にしたがって、慶びを積み、心を明るくして神の暉が自己に受信 し得る波長を心に起すのである。

そうすると、自然に「その余のことは汝らに加えらるべし」である。

だから「然して後に六合兼ねて以て都を開き、八紘(はっ こう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為ん」であって、この「然して後の語には千鈞の重みがあるのである。

暴力や詭計(きけい)や武力を背景としての強制カによってかくならしめるというのではなく、神の国の秩序であるところの「正しきを養い、慶びを積み、暉を重ねて」来たならば、自然に実相が顕現してそのようになるというのが「然して後に」であるのである。

従っ て「然して後に」来るところの

「六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き八紘(はっこう)を掩いて宇(いえ)と為(なさ)ん」

ということは決して侵略精神で はないのである。

内在の神の国の実相があらわれて、自然にそのように顕現するというのである。

これはキリストのいわゆる「その余のものは汝らに加えらるべ し」に当るのてある。

六合とは天地四方であり、あらゆる方角の国々にもそれぞれ独立国としての都は厳存するけれども、更にそれを総合する世界連邦政府の都 を兼ねて開くというのであって、神武天皇時代にこのような世界連邦の構想を建国の理想に掲げられたことは、神武天皇の霊感の素晴しさを物語るものである。

そしてそれが世界連邦の構想であるということが解れば、「八紘為宇(はっこういう)」ということも決して侵略的精神ではないことが理解できるのである。

元 来、紘とは冠(かんむり)の紐(ひも)のことである。「紐」は「緒」ともいうのであるが、「緒」は「玉の緒」すなわち「魂」をあらわすのであり、お公卿さ んがかむる冠の緒を顎の下で一つに結び合わすように、世界各国各民族の魂を仲よく結び合わせて、それを一家庭の如くするというのである。

こういう八紘為宇 の本当の神武精神がわかっていたならば、戦争も起らなかったにちがいないのであるが、それを軍閥が曲解したために、あの戦争は起ったと言い得るのである。


十六菊御紋章の象徴するもの
 
 
天皇政治こそかえって本当の民主政治であるということは、天皇家の御紋章であるところの十六菊にもあらわれているのである。
 
 
十六とは、天地の八方を意味して十六方向―あらゆる方角の「民」または「国民」をあらわす。そして「菊」は「聴く」の象徴であって、あらゆる処に住む国民の声を「聴く政治」が天皇政治なのであるけっして専制政治ではないのである。
 
 
天皇が国を治め給うのを「シロシメス」―というのも「知り給う」ということを意味する十六方向の国民の声を聴き給うて、それを知り給い、その民意に適うように政治をなさるのが、天皇政治なのである。
 
 
党をつくって反対党の反対意見を力をもって押し切って、自党の利益ばかりを目標に政治を行う多数決式民主政治とはおおよそかけはなれた公平無私なる民利政治が天皇政治なのである。
 
 
天皇政治であってこそ本当の民主政治が行われるのだということを知らねばならない。
 
 
「天皇国日本」は日本民族が創作した世界最大の文化的創作であって、これより大なる大芸術は他のどこにもないことを知って、この国体を尊重してもらいたいものである。
 


谷口雅春著 「私の日本憲法論」



 

参照 

「何故憲法を変えなければならないか」2



「何故憲法を変えなければならないか」2

2012年12月26日 22時46分09秒 | 日本人と憲法

サイタニのブログから、「何故憲法を変えなければならないか」の続きです。

日本において、天皇を戴くという歴史が2600年にわたって続いてきたのはなぜか。日本の天皇が西洋の専制君主といかに違うか、西洋は征服者であり支配者である君主ですが、日本の天皇は、神道における祭祀王という立場の君主です。これは民族の神話という古代から続く宇宙観、世界観、人生観という共通のものの考え方の中で、自然発生的に生れた君主であり、それゆえに、天皇の一番の役割は祭祀です。天皇は、神々やご先祖をお祀りになり、また国安かれ民安かれと祈られる君主なのです。祀りと祈りが天皇のご本質なのです。

日本は世界唯一の、そして最後の古代国家であり、それゆえに、外国人で日本の伊勢神宮などにお参りしたり、天皇陛下にお目にかかったりすると、ヨーロッパがまだキリスト教になる前の古代の感覚が蘇るような懐かしい気持ちになる人がいるようです。彼らは、日本の中に、人類共通の根っこが残っているのを発見するようです。

 

 

 

 
 
い ままで天皇政治については、民主主義者や共産主義者側からいろいろ批判されて来たけれども、日本の天皇は、どんな徒党にも、どんな政党にも、どんな派閥に も、どんな階級にも属していられないで、国民ぜんたいの幸福を念願していろいろの政策に対して御裁可を与えられるのであるから、天皇政治ほど派閥に偏らず、公平無私な政治が行われる政治はないのである大東亜戦争の発端に於いても多数決で「アメリカを叩くほかに支那事変を早期解決にもって行くことができないので、アメリカに宣戦する」と議決せられたときにも、昭和天皇のみがその戦争に反対して、わざわざ明治天皇の御歌を筆写したものをポケットに携行しておられて、それをひらいて、
 
四方(よも)の海みな同胞(はらから)とおもふ世になど波風のたち騒ぐらん
 
 
と朗々と読み上げられて、戦争反対の意志を表明されたけれども、すでにその頃、民主主義の多数決制度が日本に行われていて、天皇政治ではなく、天皇機関説が実際に行われ、天皇は多数決せられた条件に、ただ御璽(ぎょじ)を押す一つの制度上の機関になつていたのである。大 東亜戦争を「軍閥が天皇を利用して」始めたというふうに解釈する左翼の人もあるけれども、本当は軍閥が民主主義の多数決制度を利用して軍の圧力で、軍の考 え多数決させるように強圧して始められたものなのである。そして戦争を開始してからは、戦時非常事態というわけで、今度こそ本当に天皇を利用して、国民の 総力を出させるために議会 の審議も翼賛(よくさん)政治で、「皇運を扶翼(ふよく)し」の一本もつていつたのであつた。戦争が始った以上、戦いに勝つためには国民の精神を最高尊貴 (そんき)の目標に集中せしめて全精カを結集する必要があるので、最も尊貴なものを目標に掲げたのであつて、このことは「天皇があるので戦争が始った」と いうこととは異るのである。
 
 
大東亜戦争開始の当時は天皇は機関であって自由意志が行われなかった。天皇は「四方の海同胞」の普遍愛の精神に立っていられて、明治天皇の御歌をお読みになつたが、天皇の平和意志は無視せられたのである。 天皇はどんな派閥にも、党派にも、階級にも属されない。だから昭和二十年八月九日、皇居の地下壕で「ポツダム宣言」受諾か否かの御前会議が行われた時に も、「無駄な戦争をつづけることは日本国民のためのみならず、世界人類にとつても不幸なことである。…自分の体はどうなってもよいから戦争をやめる」と仰 せられるのは「無私」であり「無我」であり、どんな利己心をも超えていられるのであり、「国民のためのみならず世界入類の不幸である」と仰せられたのは、その御慈愛が単に日本国民のみならず普遍的に全人類に及んだ愛で、偏った執着の愛でないことを示しているのである。このように公平無私不偏不党、普遍的な精神で行われる政治が天皇政治であるのである。民主主義の政党政治で、党利党略、自党の利益のためにはどんな権謀術数でも憚らずに用いる政治の如きは、天皇政治の足もとにも及ばないものであるのだ。

 

.国が栄えるためには、その国の国民が、共通の目的のために、国民の努力を集中できるような国家理想をもたなければならないのである。昔の日本国は「天皇」が国家理想の表現体であつた天 皇の大御心(おおみこころ)の中に「神意」を日本民族は見たのであつた。天皇は神聖で神聖であり、武家政治の時代に於いてすらも、その政権は天皇から授か る神聖なるものと感じとつていたので、征夷大将軍になるのも、関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になるのも天皇によって任ぜられたのである。その 頃は、内部に政権争いや戦争があっても、究極のところでは国民が一つの国家理想によって統一せられていたのである。
 
 
しかし現在の日本国民は、国民ぜんたいが心を一つにして努力を集中するよう国家理想を見失ったのである。占領軍の強圧によって書かしめられた天皇の“人間宣言の詔勅“と占領憲法とによって、天皇は”神“でなくなり、天皇を国家理想の表現体と見る人は暁天(ぎょうてん)の星のように少くなったのであるそして日本国の国家目的が民主主義杜会の建設であったり、共産主義杜会の建設であったりして、支離滅裂の各人てんでんバラバラな目的をもって国民の精神が分裂してしまっているのである。
国民全体共通の国家理想実現のために協同して努力できない日本国の現状ほど、われわれ愛国者にとって悲しむべきことはないのである。私は「目本国民よ、もう一度、神武天皇建国の日本精神に立ち帰れ」と叫びたいのである。
 
 
日 本の天皇政治を民主政治と対立し互いに相反するものだと考えるのは間違いであるのである。天皇政治の中に於てのみ、本当の「派閥のない民主政治」が育ち得 て、私利私欲の追求で互いに憎しみ合うような民主主義が姿を消す可能性があるのである。天皇のみが私利のない私欲のない、世界万民の幸福を希(こいねが) い給う偏りのない「神聖権威」であるからである。この偏りのない「神聖権威」を上に奉戴して民主主義の政治が行われるときに、私利私欲による派閥闘争の汚れたる精神が浄められることになり、本当にルール。を守った民主政治が行われることになるのである神聖権威を上に奉戴しないで、利己主義精神の顕現である個人が、利益追求の組合組織を国家と考えて、そこで、利益の相似た者同志が徒党を結んで政党を結成して、国会及び院外に於いて闘争するようなのは、「下の下」の民主主義政治なのである。現今の日本の民主政治は、この「下の下」の民主政治に過ぎないのである。
 

 
日本天皇の天皇政治がもし完全に行われるならば、国民を“大御宝(おおみたから)”としての政治が行われるのである。すなわち神武天皇建国御即位の詔(みことのり)には、次の如く君民一致の国是(こくぜ)が示されているのである。
 
「… 夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に随う。苟(いやしく)も民に利有(くぼさあ)らば、何(いか)にぞ聖造(ひじりのわ ざ)に妨(たが)わん。且(ま)た当(まさ)に山林(やまばやし)を披(ひら)き払い宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位 (たかみくら)に臨み、以て元元(おおみたから)を鎮むべし。上(かみ)は即(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまう徳(うつくしび)に答え、下 は皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心(みこころ)を弘めん。然(しか)して後に六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(お お)いて宇(いえ)と為(せ)んこと、亦可(またよ)からずや。」
 
 
国民のことを漢字にては"元元。の字をもって当てられていることに注意しなければならない。元はハジメであり、本であり、国家成立の本元をなすものは国民であるとの神武天皇建都即位の御理想は、天皇政治そのままに民主政治であることが表現されているのである。
 
 
上の詔勅を更によくよく拝読すれぱ、天皇はその国を私有のものと観(み)られないで、「上は即ち天津神の国に授けたまう徳に答え」(漢字を解読しやすい字におきかえた)と仰せられた。すなわち天の大神より国を授けられ、それを治めるように預けられたものであるという敬虔なお気持があらわれているのであって、武力で先住民族を征服して国土を奪取したというような考えが微塵もないことに注目しなければならないのである。
 
 
そして、「それ大人(ひじり)の制(のり)を立つ」と仰せられたのを解釈すると、漢字の「大」は〃天徳"をあらわすのである、すなわち「大人」とは"天徳を受けた人〃という意味であって、現代語でいえば「神の子」ということである。神武天皇はみずから「神の子」の自覚をもって、神からこの国を治めるようにと委託せられてこの国を神からお預り申しているというような、尊貴の白覚と同時に謙遜の徳をも,って、この国を統治せられた。これが天皇政治の特色であるのである。
 
 
「大人」と書いて、日本読みで〃ひじり"と読むのは、“ひ“は〃光"であり、〃じり"は著(いちじる)しいという意味で、〃神の子"すなわち〃光の子"であり〃光著し"との御自覚のあらわれであり、世を照らす真の光として自分は此の世に生まれたのであるという尊き自覚である。しかも、この〃聖"の 自覚は、自分がひとり尊くして専制君主として立つのではなく、「制を立て」法制を定めるのに、窮屈に杓子定規の制度を設けず、必ず「時に随う」すなわち時 代に応じて最も民意を反映した政治を行うと仰せられているのであっで、「苛しくも民に利有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)わん」というのは、民利に かなう政治を行うことは聖徳をもってする天皇政治の妨げには決してならぬ。民利を行うことこそ天皇政治である、と仰せられているのである。君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。
 
そ こで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏 りしても、それを補修し給うことさえ遠慮せられて、三年目に高殿に登り給うて眼下に街(まち)を見渡されると、国民の経済状態は復興して、炊煙濠々(すい えんもうもう)とたち騰(のぼ)って殷富(いんふう)の有様を示しているので、皇后さまを顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして、
 
高き屋にのぼりて見れば煙たつ  民の窯(かまど)賑ひにけり
 
というお歌をお詠みになったというのである。天皇は、自已が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられるこ れが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一 致で議決しながら、国民のたべる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較してみるならば、いわゆる現代の民主政治 は一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである。

谷口雅春著 「私の日本憲法論」




西村眞悟氏の覚悟と誓い

2012年12月17日 13時48分49秒 | 日本人と憲法

選挙で安倍総裁率いる自民の圧勝は、まさに健全なナショナリズムが国民に理解されたからかも知れません。また、民主のまるで外国の反日政策の片棒をかつぐかのような政策のひどさで、きれい事の言葉だけの平和主義や隣国との友好がどれだけ欺瞞であるかを見せつけられたお蔭とも言えるでしょう。

維新の会の西村眞悟氏も比例区からの出馬ということで、近畿の比例区は維新の得票がかなり伸びたように思います。西村氏もめでたく当選されて、その当選の身の引き締まるような覚悟の思いを氏のブログで述べられています。

阿川弘之氏がかつて、国というものはいざというときに悲惨を覚悟で戦わねばならない時があるとおっしゃっていましたが、どんな国でもそういう事態を想定して、国民が生命を投げ出す覚悟をしなくては、その国が存続し続けることは不可能でしょう。

生きるためなら国や同胞を売っても生き延びたいという人間が多ければ、その国は滅びるしかありません。自分の命よりも国や同胞の生命を守りたいと願う人間によって、国は存続するのだといえます。

幕末から明治にかけて日本人の愛国心が燃え上がって、多くの国民が国家を背負った気持ちで生きたことで、日本は植民地にもならず、近代の荒波を乗り越えることが出来ました。大東亜戦争も結局負けはしても、白人諸国は、植民地を取り戻すことは出来ずに、アジア・アフリカの独立を認めざるを得なくなったのです。

また敗戦国ではあっても、ドイツのように分割されることもなく、日本として存続できたのは、やはり命を捧げてそれを阻止した人々があったからです。そのお一人が昭和天皇であることは否定することはできません。

今の日本は、拉致被害者を救うことに力を尽くさず、尖閣諸島を護ることに力を尽くさず、相手国の機嫌ばかり取ろうとしているような状態が続きました。一時的にはそのような事なかれ主義で免れることはあっても、どんどん相手の強圧に屈することを繰り返していけば、最後はすべてを失ってしまうことになるでしょう。国際社会というのは、引けばどんどん押してくるし、油断もすきもなく、弱いものは草刈り場にされてしまいます。

この自分だけの平和を願う事なかれ主義を、今こそ脱却すべき時だと西村眞悟氏はおっしゃっています。そしてこれは、日本国憲法という日本人の本来の考え方をゆがめ、現実の手足を縛ってきた、この呪いを解くことでしょう。

 

 

西村眞悟氏のブログより

危機対処の為の戦後からの脱却と自衛官の宣誓
 この度の衆議院総選挙において、ご支援をいただいたことに、 心より、お礼申し上げます。
 ありがとうございます。
 おかげさまで、長年ともに行動してきた八尾の三宅博さんをはじめ、お国の為に働ける多くの同志が当選できました。
 ありがとうございます。
 私は、六度目の当選をさせていただきました。
 そこで振り返って、正直言って、この度の当選ほど身の引き締まる思いをしたことはありません。
 その理由を次にお伝えして、開票翌日のご挨拶と致します。

 
 政治つまり国家の運営は、一眼で脚下の現実を見つめ、同時に他の一眼で世界の大勢を見つめていなければならない。
 しかるに、この度の総選挙も、各党の論争そしてマスコミの報道姿勢は内向きの目だけで為されていた。
 これをダチョウの平和という。
 
 大きな胴体をもち小さな頭をもつダチョウは、危険が迫れば、穴の中に小さな頭だけを入れれば、大きな胴体が危機に曝されていても安心する、と、言われている。
 この度の各党首脳と候補者の選挙論争とマスコミ報道を聞いていて、このダチョウの平和を思い出したのだ。
 
 しかし、これが戦後体制下の最後の選挙となる。
 何故なら、大きな胴体が既に攻撃を受けており、もうすぐ、新たな攻撃をうけるからだ。既に受けている攻撃(密かな拉致)は、見て見ぬふりができた。だが、これからはそうはいかない。
 だが嬉しいことに、選挙結果を見れば、国民は既に外を見ており、戦後体制の穴に首を入れたままなのは政治家だけだったということが分かる。
 国民は外を見つめ始めている。
 この国民の視線の内から外への転換が、来年の我が国に明るさをもたらす要因だ。
 即ち、この度の総選挙の真の争点は、我が国を取り巻くまことに厳しい国際情勢だったのだ。

 よって私は、この度の選挙において、近畿各地そして東京大田区において、
 果たして野田内閣は有効なミサイル防衛体制を実施したのか、断じてそうではない、
 断固として尖閣を護ろう、
 断固として北朝鮮に拉致された同胞を救出しよう、
と訴え続けた。
 
 十五日の午後八時の最終時間前、大阪難波戎橋と千日前筋の交差点で、雨の中、道行く人々に、力を合わせて北朝鮮に拉致された同胞を救出しよう、力を合わせて尖閣を守り抜こう、と訴えたところ、頑張ってという激励の声をかけてくれる人々が増え、若い人が立ち止まり始めた。
 
 その時、戦後からの脱却の確かな手応えを感じた。
 さらにその時の私には、長い政治活動のなかで、始めて真の意味の「同志」をリーダーとして戦えている充実感があった。
  日本維新の会の党首は、平成九年にともに荒波を越えて尖閣諸島を視察し、我が国を手枷足枷で縛っている「憲法」を廃棄することが戦後からの脱却だという覚 悟を表明した石原慎太郎さんだ。加えて、日本維新の会の国会議員団長は、拉致被害者救出議員連盟会長で同議連の幹事長として長年仕えた平沼赳夫さんだ。
 士は己を知る者の為に死す、という。
 己を知る「同志」を戴くことほど幸せなことはない。
 選挙運動の雨の最終日の最終時間、
 私の顔を濡らしたのは、雨だけではない。

 最後に、諸兄姉に言う。
 私の、
 断固として尖閣を護る、
 断固として拉致被害者を救出する、
 という訴えは、
 あらゆる犠牲を払ってでも国家としてそれを為すということである。それは即ち、兵士・ソルジャーである日本国民に血を流して身を犠牲にしてでもそれを完遂せよという命令を発する政治を構築するということだ。
 何故なら、これを為すことができず、領土と国民を奪われるに任せる国家と一億国民に未来はないからだ。
 現在、自衛官(兵士・ソルジャー)は、十代後半から将官まで、次の宣誓をしてその職務に就いている。

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います」
 
 自衛官が「危険を顧みず」と宣誓することは、「死を恐れない」ということだ。
 しからば、国家体制上、最終的にそれを自衛隊に命じる立場に立とうとする政治家は、
 死を恐れず祖国のために尽くす、と、
 天地神明に誓うべきではないか。
 自衛官の宣誓が任官の要件ならば、
 総選挙への立候補届の要件も、
 死を恐れず祖国のために尽くすという宣誓であるべきだ。
 
 これほど、現在の我が国を取り巻く情勢は厳しい。
 その厳しさは、漫然と過ごせば必然的に列強の植民地になる情勢下にあった幕末より厳しい。
 浦賀に投錨した黒船の搭載していたアームストロング砲は、江戸城に届いて江戸市中を火の海にできるが、幕府の大砲は黒船に届かない。この戦力の格差に幕末の志士が愕然として非常な危機感をもったのが明治維新の始まりだ。
 現在の危機はそれどころではない。
 現在は、江戸湾どころか、千キロ彼方から撃ったヒロシマ・ナガサキ規模の破壊力があるミサイルが数分で首都に届くのだ。しかも、我が国にはその着弾を阻止する体制がない。
 この恐るべき危機。
 ご丁寧に、北朝鮮のミサイルが選挙中にそれを見せ付けてくれたし、それと連動して中国軍の飛行機が我が領空を侵犯してくれた。
 この意味を直感で関知できない政治を断じて続けてはならない。
 国民がその方向に動き始めている。
 これがこの度の選挙結果に顕れてきた。閣僚の落選で示されている。
 従って、ここを出発点として、一挙に(残された時間は短い!)、
 戦後体制からの脱却、
 憲法の呪縛からの脱出、
 に向けて国民とともに進軍するのが、
 石原慎太郎率いる日本維新の会の歴史的使命である。

何故憲法を変えなければならないか

2012年12月13日 01時10分09秒 | 日本人と憲法

サイタニのブログからの転載です。

生命体には、すべて中心がある。その中心を失えばその生命体は生命を失うのであるというのは、実に解りやすい原理です。日本のような自然発生的国家は生命体国家であり、生命体国家であるから、天皇という中心をもち、その中心が変わらないから、2600年という長い間続いたのであり、これが日本の国柄であり、この国柄を失った時に、日本は日本ではなくなるのです。

現在の憲法は、この中心たる天皇を元首から象徴という地位に貶め、国民主権という国家の主権をバラバラの統一なきものに変えてしまいました。この憲法はアメリカ製であり、日本人の作ったものではないので、本来の日本の国には合わないものです。日本のような生命体国家には、生命的な原理の憲法が必要であり、それ故ここで述べてあるような中心を持った生命的な原理による憲法が必要です。

 

 

 

日本国家の基本構図

 

日本の国は海外の諸国とは、国の成り立ちが異るのである。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の大御心(おおみこころ)の中に、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なりという国家設計の基本構図を示し給うたその理念に従って顕現したところの理想的国家が日本国なのであるその理想は、人間が創作したところの理想ではなく、宇宙神なる天照大御神の創作せられた国家の基本構図に基づく理想であるのである

 

 

この理想は宇宙神の御発想にもとづくものであるから、単に日本国家形態の理想であるばかりでなく、あらゆる宇宙の存在の基本形態となっているところのものである。すなわちすべての宇宙に存する存在には、それが一定の個性をもって存在するかぎり、永久変らざる中心があるということである。われらの知れる極微の存在である原子には、その原子が持続するかぎり、原子核という永久変らざる中心があるということである。その原子核が変化すれば、その元素はもとの同じ元素ではなくなり、他の元素になってしまうのである。水素の原子核が、核融合によってヘリウムの原子核に転換するならば、もうそれは水素の原子でなくなり、ヘリウムの原子になってしまう。ともかく、その元素が存在を保つかぎり、永遠に変らざる中心をもつのである。

 

 

その存在者が本来の個性をもって存続するかぎり、永遠に変らざる中心を持続するということは、現象的存在の最小単位である“原子"だ けではなく、現象的存在の最大の有機的系統たる太陽系に於いても、やはりその通りであるのである。太陽系にはそれが存続するかぎり”太陽”という永久変ら ざる中心天体が持続するのであって、もし現在の中心天体が他のものと入れ換ったりするならば、現在の太陽系はなくなる。温度も異り、光度も異り、引力も異 り、現在の太陽の周囲をめぐる全ての遊星は、現在の個性を失い、地上の生物はことごとく残し去って、死の世界に化するのである。存在の"中心"が変化すれば、今ある太陽系世界秩序は破滅し去って、人類は絶滅するのである。“中心存在”の必要なることかくの如くである。"中心存在"が変化すれば、“生命の世界"が〃死の世界"に一変するのである。

 

 

見 よ、植物にも中心がある。その幹は中心であり、幹を切り去ればその植物は死んでしまう。幹を取り換えたら、もう原本の植物ではなくなるのである。接ぎ木を して幹を変化して一層美しき花を咲かせ、一層美味なる果実を得ることはできるけれども、接ぎ木のもとになっている台樹の根本の幹は生きており、そこから生 命の樹液を送ればこそ、接ぎ木された幹または枝は生きていて花を開き、果を結ぶことができるのである。根本的に、台樹の根本の幹を切り棄てたら接ぎ木のし ようもなく、その樹は根本的に枯れてしまうのである。植物が生きるためにも、必ず永遠変らざる中心がなければならないのである。

 

自 然の花の美しさは、その花弁が中心に於いてバランスを得ているところにあるのである。豆科の植物や、すみれ科の植物のように、全体の花弁の構成が円周的に 輸状になっていない花にしても、必ず、左右シンメトリーになっているバランスの支点に中心があるのである。人間の芸術になっている活け花の美は必ずしも円 周的な輸状につくられないで、むしろ不等辺三角形をいろいろに組合わせた形になっているけれども、活け花を構成する花や葉や枝は、いろいろの方向に向いて いながら"中心"にまとまる部分があって、そこが重心となって倒れそうで倒れないところに生命的な美が表現されているのである。"中心"がなく、重心となるところを支点として各方向に射出した枝葉や花がバランスを得ていないならば、それは活け花としては拙劣で死んでいるのである。すべてのものは〃中心を失ったとき、そこに死があり生命を失うのである。

 

活け花の美は、いろいろの形の葉や枝や花のバランスを得た集合によって成り立つのである。ところで、その活け花の美を構成する部分であるところの葉や枝や花は、それらの部分が自由意志で勝手に集合して"活け花“の美を構成したのであろうか。決してそうではないのである。それは花を活けた人が、適当に枝や花や葉を配置して、おのおのの美を総合的に結集して“活け花"の美ができあがったのである。その活け花を創作したのは花を活けた人の"心"によるのである。”心“がその創作の主人公であり、すべての創造には"心"に描かれた"理念"(または設計、または構図)が先行するのであって"こそ唯一の"美の創造主"であるのである。

 

さて、現行の日本国憲法に「主権は国民にありと宣言し」という宣言は、部分に主権があるという宣言であって、活け花の喩(たと)えをもっていえば、その活け花が美を構成するのに、その部分に過ぎないところの枝や葉や花にそれぞれ主権があって、彼らがおのおの合議して“活け花"という芸術品ができたというような考え方が、いわゆる民主主義国家理論であるのである。それはおよそ生命あるもの””有機的存在者"の構成秩序に反するところの考え方であるのである。 無論、外国の国家形成の順序には、人民の福祉と民族集団の防衛のため人民同士の協議により、集団組織を「組合」の如くつくりあげた種類のものがあるけれど も、そのような国家に於いては統治権者が常に不安定であって、陰謀と軍事力によって王朝が常に代るか、国家主席が常に代るかして安定することはないのであ る。そうなるのは、国家形成の秩序が、"生命体"の発生構成の順序に則(のっと)っていないので"生命体"としての一貴性を欠いているので崩壊しやすいことになっているのである

 

 

 

  党派の利益のための民主政治

 

(何故憲法を変えなければならないか)            昭和44年

 

 

民主主義は、特権階級の一般国民に対する強制を最少限にとどめ、国民の自発的協カを最大限に喚起する政治理念であるけれども、それが"自発的協力"を喚起するのであるから、利己的精神や党派根性の存在するところに於いては、自分自身または自分の属する党派の利益のために政治が行われる危険があるのである。

 

 

たとえば自民党の選挙地盤は農村である。だから次に選挙戦に勝つためには、農業経営者を味方にっけておかなければならないから、農業経営者に媚びるために、食管会計がいくら赤字になっても、農家からの政府の買上げ米価は毎年引き上げる政策がとられ、米を主食とする国民への売渡し値段は、一般国民の反対にもかかわらず、引き上げざるを得ないようになっている。民主主義政治は、一個人では力がないから徒党を組み、徒党(政党)の政治になっているから、その党の利害に従って政治の動向が歪められるのが常であるのである。これが民主主義政治の欠陥であるのである。この欠陥が埋められるためには、国民のひとりひとりの道徳的精神が向上し、利己心が最小限になる必要があるのである。

 

 

谷口雅春著 「私の日本憲法論」より

 

 

 

注:又地震だ!

私(サイタニ)には日本人よ良く考えて投票せよと聞こえる。

原発もTTPも重要であるが、もっと重要なことがある。それは日本を弱体化するための占領憲法破棄と自主憲法制定である。これは木で例えるなら、幹であり、根っこである。原発もTTPも枝葉である。歴代総理誰もできなかったのである。これができるのは石原氏しかいないと思う(もちろん自民党の協力は必要である)何故か?彼はあの天才小説家、三島由紀夫に負けまいとしているのでは、三島由紀夫氏は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で「諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るのだ」と演説して割腹自殺した。石原代表も心は同じであろう。命をかけていると見た。

 

三島由紀夫氏辞世

 

散るをいとふ 世にも人にもさきがけて

散るこそ花と 吹く小夜嵐(さよあらし)