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小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

立派な奉公

2012年02月16日 22時45分08秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。日本海軍の武士道は以前、駆逐艦雷の工藤艦長の話で、日本海軍は海に浮かぶ敵兵を見つけても、攻撃せずに救出することがほとんどだったようです。それに比べアメリカ海軍など、外国軍は日本の兵隊が海に浮かんでいる場合は機銃掃射しています。先に大戦でも、日本には武士道がかなり残っていたようです。

 

 

 

 
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大東亜戦争開戦2日目の1210日、イギリスの東洋艦隊の旗艦(司令官搭乗)プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがとともに撃沈した。輝かしい日本海軍の勝利でありました。
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プリンス・オブ・ウェールズとは大英帝国の次期国王である皇太子の称号です。
これを早々に日本軍がやっつけてしまったのだ。
この衝撃はチャーチルは勿論のこと、全世界、特に東洋で支配されていたアジアの国々には大きな衝撃となりました。
残る3隻のイギリス駆逐艦は死に物狂いで射撃を続けている。しかし、日本軍はこの3隻の駆逐艦を見逃し、攻撃を途中でやめ、溺れている英国兵士の救出に当たったのです。
これにより、約7割を救助したのでありました。
 
 
翌日、日本軍の攻撃隊を指揮した壱岐春記大尉は海戦のあった上空を飛んで行きました。
そして、空から紅色の花束を二つ海に投げました。
ひとつは「戦死した部下の霊よ、安らかなれ」
そしてもうひとつは「戦に敗れた英国軍人の霊よ、安らかなれ」と、念じたのでした。
これぞ日本武士道の精神であります。
このマレー沖海戦は武勇でも道義でも輝かしい日本軍の世界へ誇れる戦いぶりであったのです。
 
日本人の伝統的な考え方、それは日本精神であります。
その考えは風土、社会、とりわけ身近に生活を共にする人たちの考え方に影響されるのです。
その中心的なものに“武士道”があります。
武士の職分は“奉公”であり、侍奉公と言いました。
また、武士に限らず徒弟や丁稚も“奉公”と言ったのです。
公に奉仕すること、社会、国に尽くすこと、みんなのために働いて責任を分担する。
武士と同じ心構えでいようということの表れであります。
 
武士は帯刀して武士の体面を保つ。
刀剣は武士の魂と言われる。刀がなければ戦えないからであります。
刀は武士のシンボルでありますが、それは人を斬るためのものではなかったのです。
人に刀を振り回させないためのものであった。
剣は強い人ほど抜かないものです。
心の修養で敵を威圧する、心服させる。それが真の勇者であります。
やむを得ない時以外に人を斬っては”刀が汚れる”と言った。
昔は刀を持たせてもらえるのは危険を知りそれに対処できると認められることを意味したのです。
刀を持てるのは一人前ということであります。
 
かつて、中学では剣道・柔道・竹刀・長刀、小学生は騎馬戦や棒倒しをやり、木刀を持てる。撃剣を習える。生徒たちは勇み立った。 しかし、まずやるのは板の間に正座をしての講義でありました。
武士の心得、弱気を助け強きを挫く、武士の情け、不時の心得、そして偉人の話を聞かされる。そして木刀を持つ前に刀を抜くなと徹底して教えられたのであります。
年長者を尊び、修身と道徳を熱心に学び、唱歌の時間にも修身を同時に学んだのです。
 
イメージ 3日本人は平素から貧窮に甘んじながらそれを恥とせず、不満を持たず、不自由を忍び、謙虚で素直で愚直なまでに従順でありました。
そして日本人は、天皇陛下を敬い、国を愛し、誇りと喜びに支えられて、情熱の意欲に満ちて国家に尽くしたのです。
世界を驚かせた日清・日露の勝利も、驚異的な発展も、ひとえに修身と武士道に支えられた若者たちが、愛国心に勇み立って邁進したお陰なのです。・・・
 
 
護国の英霊は潔く命を捧げた。
残された者たちはしっかり国を護らねば、先に散った人たちの死は無駄になる。
靖国の英霊たちよありがとう。お陰で我々は今、平和に過ごせています。
しかし、一旦危難が迫れば我々も断じて国を護ります。
立派に奉公してみせますからご安心ください。・・・
こういうことを言える日本人でありたい。
 
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

 


インドネシアの夜明け

2012年02月16日 00時39分42秒 | 歴史

国際派日本人養成講座からの転載です。日本が大東亜戦争を戦い始めると、すぐにインドネシアを植民地支配していたオランダを駆逐します。そして日本がインドネシアを統治していた時のお話がここには書いてあります。この統治政策は、日本が侵略戦争ではなく、大東亜解放を目指した願いが真実であることをはっきりと示しています。



■1.二人のインドネシア人■

 大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。
       
1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相モハマッド・ナチールはこう語る。

もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。
   
 オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でし た。日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったので す。...もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オラン ダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。
   
インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。

■2.日本軍にびっくり■

ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。
   
 1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。町が急にあわただしくなってきました。
       
  それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われ ていました。しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。ジョグジャカルタでは 戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。
       
インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。
   
 それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア 人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。イン ドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。
       
 ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。

■3.画期的な教育政策■

日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。
   
しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位 置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにし た。
   
 日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。
       
  これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダ に反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではな かったでしょうか。・・・
       
  ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上に さらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。

日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。
   
教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせる ようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語 の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。

■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■

半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。
   
姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。
   
日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。
       
 次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。
       
そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。
   
インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。

ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。
   
■5.「青年道場」■

ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出され た。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、すぐ応募し た。
   
数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。
   
青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。
   
 訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立 は自分の力で成し遂げるものである。しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っている ことをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。
       
 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

■6.日本軍の率先垂範教育■

青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。
   
実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭 出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていっ た。
   
ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくた くたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で 立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。
   
私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。
       
  土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうにな ると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私 たちを励ましてくれました。
       
 同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。
       
ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。
   
そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。

■7.「ムルデカ17805」■

ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。
   
この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。
   
日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。
   
この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1~2千名の日本兵が、独立軍に身を投じ て一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手 厚く葬られている。

インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、現在上映中の映画「ムルデカ17805」に描かれている。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の 日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。
   
我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。



文明の転換期における日本の使命 2000年から始まる新アジア時代

2012年02月14日 03時40分28秒 | 歴史

歴史学者の村井節(みさお)氏は、人類文明が東西の二つの文明に分かれて、800年ごとに高調期、低調期の波を交代させながら、繰り返していることを史実によって立証した人です。先日ある冊子を読んで、初めて知りましたが、この村山氏の論を中心に近代のことが書いてあった文章を要約して紹介しつつ書いてみました。

村山節代表作『文明の研究―歴史の法則と未来予測』は絶版

東の文明とはアジア地域の文明で、メソポタミア文明地域以東、日本までの諸文明であり、西の文明とは、エジプト、エーゲ海域以西のもので、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、北米に至る文明であるそうです。

すなわち紀元前3600年~2800年の原始エジプト文明(西)、紀元前2800年~2000年の古代メソポタミア文明(東)、紀元前2000年~1200年のエジプト及びエーゲ海文明(西)、紀元前1200年~400年の古代アジア文明(東)、紀元前400年~紀元400年のギリシャ文明・ローマ帝国文明(西)、400年~1200年アジア極東文明(東)、1200年~2000年のヨーロッパ文明(西)という東西の交代がありました。その転換に要する期間はそれぞれ百年でその転換期には大きな事件や民族の大移動や戦争動乱があり、混乱の時代です。

東西文明の相違は、西が自然との対決、自然を支配する物質文明であり、物事を分割し分析して支配する科学を得意とする文明であり、対決と競争、利潤優先、物質優先の価値観です。東は、自然との共生、親和の精神文明であり、融合、調和、道義、の優先、物事の統一的全体的把握を得意とする価値観の文明です。

そしてこの文明法則に従えば、2000年を転換期として、ヨーロッパ文明から、新アジア文明に移行することになるはずです。

1200年から2000年において、ヨーロッパではルネサンスがはじまり、羅針盤の発明から、大航海時代が始まります。コロンブスのアメリカ大陸の発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見という地理的発見をきっかけにした中世の暗黒時代からの脱却であり、、それはまた、西洋の植民地主義の始まりでもあります。

アジアはどんどんヨーロッパの植民地になっていきます。スペインのフィリピン征服1570年、列国による東インド会社設立(イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年)、英によるシンガポール領有1819年、インド併合1858年、ビルマ併合1886年、仏印の成立が1886年です。

アフリカは、ベルリン列国会議(1885年)でバターを切り分けるように分割され、1914年における大陸の独立国はエチオピア、リビアの二国のみとなりました。

アジア、アフリカが欧米列強に呑み込まれようとし、植民地化の矛先が中国や朝鮮に向けられていた時期に、日本は日清、日露の二大戦争を戦って独立を保持し、中国、朝鮮の植民地化を防ぎました。特に日露戦争は、民族国家独立への夢をアジアやアフリカに与えました。

インド独立の戦士で元首相のネールは、自伝で、「日本の勝利は私の熱狂を沸き立たせ、インドをヨーロッパへの隷属から、アジアをヨーロッパへの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と回想しています。英国の文豪H・G・ウェルズの言うように、「アジアは、絶望的にヨーロッパに立ち遅れて、どうしても取り返しがつかないという考え方を、日本は完全にふっとばし、帝政ロシアとの戦争でアジア史に一大エポックを創り、ヨーロッパの尊大と思い上がりに終止符を打った」(『世界文化史概観』)のでした。

ネールだけではありません。トルコ独立の父、ケマル・パシャ、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、マレーシアのマハティールなど優れた指導者たちも、独立の夢を等しく抱いたのです。この夢を実現させるために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのが、大東亜戦争でした。

イギリスの東南アジアの拠点シンガポールが日本軍によって陥落した報に接したド・ゴールは、「アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した」と日記に書き記しました。数百年にわたる西の東に対する植民地支配は、日本軍の一撃によって崩壊したのです。同じアジア人である日本人によって白人が駆逐されたことは、アジアの人々にとって驚きであると共に、自らに大いなる自信と希望をもたらすものでした。

大東亜戦争が終わった直後、東南アジアへは、イギリス、アメリカ、フランス、そしてオランダと、植民地の宗主国が舞い戻ってきましたが、かつて支配に従順だった有色民族は、独自の兵力を持ち、もはや宗主国の支配には甘んじませんでした。一斉に民族独立の戦いに立ち上がり、1946年にインドネシア、フィリピンが独立、1947年にインド連邦、パキスタンと独立が続きました。明治維新以来の日本のアジア非植民地化の精神は、戦後これらアジア諸民族に継承され、やがてその民族主義はアフリカへも広がって行きました。

タイの元首相ククリット・プラモートは、「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供たちはすくすく育っている。今日、東南アジアの諸国民が米国と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」と語っています。

そしてイギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、「第二次大戦によって、日本人は、日本人のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である」と記しています。

日本は、第一次大戦のパリ講和会議で国際連盟規約第二十一条に人種差別撤廃を提案したが受け入れられませんでした。しかし、大東亜戦争、第二次大戦後、1948年の国連総会で「世界人権宣言」が採択され、日本が永年努力してきた人種差別撤廃が実現したのです。

2000年から始まる新アジア文明の時代に、日本の役割は何であるか、多くの世界の国々が日本に期待しているのではないでしょうか。日本人の中にも、左右を問わず、世界を指導する原理は日本の中から生まれると述べる人も出てきています。日本は極東にありますが、それはまた西の端に近いとも言えます。東と西の文明を結び合わせることのできる和の原理を有する国でもあります。

日本人は、まず自分たち日本の精神文化を、自らの中にあるものを、掘り起こすことが必要です。その日本独自の精神文化によって世界に貢献する事ができるのだと思います。

 


神様に恥じない心を維持した日本軍の誠

2012年02月12日 16時19分00秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

イギリスの捕虜となった日本兵のことが書いてあります。この捕虜の待遇はシベリア抑留にも匹敵するような過酷な極限状態と言えます。それなのに、これほどの秩序を持って頑張る日本兵を誇らしく思わずにいられましょうか。日本兵は天皇の皇軍という意識のもと、かくも立派に日々の餓死寸前の生活の中にも誠意を尽くしたのです。天皇という中心者を持った日本人の正義感、強さ、誠実さは、人間は仰ぎ見るものを持ってひとつの心になった時に、かくも崇高な気持ちを持てるということではないでしょうか。天皇のもとに侵略戦争を行うということが、GHQによる日本人を貶めるためのプロパガンダに過ぎず、ほんとうは侵略戦争のようなものを、天皇の名のもとに行うことなど日本人の誇りが許さなかったはずです。

極限状態でも秩序を失わない国民性、これが本当の日本軍だったと思います。負けたからといって、占領軍の洗脳による捏造した歴史を教えられて、それを真実と思い込まされているのは、あまりに敗戦という経験のなさがもたらした悲劇だと思います。物資の差に負けざるを得なかった日本ですが、情報戦にも非常に大きく負けてしまって、それが未だに負け続けているという状態ではないでしょうか。

 

 

 
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                    (レンパン島 日本兵抑留の碑)
 
      目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり 
          (神様に恥じない心こそ誠です :明治天皇の御製より)
 
 
 
 日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定し15か所に収容施設をつくりました。
そして、英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器を与えました。当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。 しかし、捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
 戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け捕虜たちを解放しました。 終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は事実上”捕虜”として扱われました。 しかも、その扱いは言語に絶するものでありました。
 
イメージ 1 東南アジアの最大の収容施設レンパン島(左写真)でのことです。当て字で”恋飯島”ともいいます。
シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。
ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島でした。その後もここで民間が開発をしましたがすべて失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なくヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われるゆえんであります。
イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を“地獄”に追いやるために移動させたのです。
 
 島の施設はすべて日本軍の手で建設させられました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫から何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが、島には何も届きませんでした。
 
 日本兵たちの1日分の米は15勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。
彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。
蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。
最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。 そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
 
 8万人に餓えが迫った128日、イギリス軍の食糧5000トンが届いたのです。しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵され賞味期限どころかイギリス軍で廃棄するようなものを持って来て、しかもわざと日本の記念日である128日まで待たせておいて、この日に日本兵に“くれてやった”のです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は33004200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
 こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
 
 ついにはイギリス軍の陰険な策謀は見事に裏切られたのです。世界のどの軍隊であろうとも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は天皇の軍隊、皇軍としての誇りであったといえるでしょう。
 
イメージ 3この白人の陰湿な日本兵への扱いに対して、日本にいた捕虜の扱いはどうであったでしょうか。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。
日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道でもあるのです。
このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なる”誠”の行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。・・・
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 


GHQによる、皇族特権の剥奪、臣籍降下、皇室財産没収と最高税

2012年02月07日 01時49分25秒 | 歴史
サイタニのブログからの転載です。GHQのやったことは許せません。GHQは、日本の国体を徹底的に破壊して、二度と、連合国、特にアメリカに敵対する事のないように、国民が天皇を中心とする家族のような国柄を破壊することにしました。そのため皇室制度を衰退させることをめざして、直系以外の皇族を臣籍降下させ、皇室の財産も没収して、いずれ天皇の皇位すら保てなくなるように意図したと、考えざるを得ません。




転載開始
 

竹田恒泰著   「皇族たちの真実」より
 

皇族特権の剥奪 

総司令部は、皇室改革を占領政策の重要な柱として考えていた。天皇を含む皇室全体を廃止するか否かについては、総司令部だけでなく米国本国を巻き込んで大きな議論を巻き起こした。
 
しかし、マッカーサー元帥の強い希望があり、最終的には総司令部の手によって 天皇と皇室を廃止することはなかった。総司令部はその一方で、皇室から多くの特権を取り上げ、皇室が政治に関与することができない体制をつくり、さらには、皇室の規模を縮小させるといった皇室改革に着手した。米国は日本を高度な民主国家にすることを目指しており、そのためにはこれらの皇室改革が必要不可欠と考えたのである。



急速に皇室改革が進められる中、皇族方が最も恐れたのは、皇族としての身分を失うことだった。皇族が皇籍を離脱して臣籍に降ること、つまり皇族の身分を離れて民間人になることを「臣籍降下」といった。ただし、新憲法の発布をもって「臣籍」がなくなったため、皇族が皇族の身分を離れることは現在では「皇籍離脱」と呼んでいる。
 
皇族たちは大方この臣籍降下には反対の立場だったが、早い段階で臣籍降下する旨を表明した皇族もあった。終戦処理内閣の首相を務めた東久邇宮もその一人である。東久邇宮は昭和20年11月10日、新聞記者を麻布の仮御殿に招いて臣籍降下の決意を表明した。東久邇宮は記者に次のように語った。

戦争がこのような結末になったことについて私は強く責任を感じている。戦時中皇族は陛下に意見を申し上げることが禁じられていたものの、陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道徳的責任がある。敗戦に至ったのであれば道徳的責任を明らかにするため皇族の特遇を拝辞して平民となることを決心した。もしそうしなければ陛下に対し、また国家に対して申し訳けが立たない。首相の任を解かれた直後、木戸内大臣と石渡宮内人臣を通して陛下にお願い申し上げた。
 
 
その後は「いま暫(しばらく)く時期を待て」との御沙汰を拝したのみで今日に及んでいる。これは私一個の考えであるが、皇族は直宮に限り、あとは臣籍に降下したらよいと思う。華族も全て爵位を拝辞したらよいと思う(『朝日新聞』昭和20年11月11日付)

また竹田宮も著書で「戦前は皇族の数がかなり多かったので、この非常事態に皇室を守ってゆくためには、もっと簡素化した方がよいという考えをかねがね持っていたと記している。賀陽宮(かやのみや)も臣籍降下への決意を固めていた。宮はシンガポール陥落の時点で既に敗戦を予測し、「敗戦になれば、皇族は臣下になるのだから、覚悟するように」と子供たちに語っており、「臣籍降下は、戦争で犠牲になった多くの国民たちへの償(つぐ)いである」と賀陽宮妃敏子に話していたという。

しかし、臣籍降下論に強く反発した皇族もあった。閑院宮は臣籍降下に強く反対した一人である。後に著書で「私も、皇族には皇族としての使命も役割もあるのであって、臣籍降下のごときは、その使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるものであるとして、反対した」と記している。閑院宮のほか、皇族のほとんどは臣籍降下に反対だった。

東久邇宮らの臣籍降下への動きは、これに反対する皇族たちを俄(にわか)に不安にさせた。東久邇宮の決断に対して石渡宮内人臣は「問題が重大であり、もう一度慎重にお考え下さるよう」と進言した。慌たて宮内省は11月22日、臣籍降下は勅許されないことを発表、臣籍降下騒動は落ち着いたかのように見えた。しかし、それも束の間だった。皇族たちの不安をよそに、総司令部は皇室縮小への圧力を徐々に強めてきた。

 

皇室財産の解体に着手したのである。総司令部は昭和20年9月22日付「降伏後における米国初期の対日方針」の中で、皇室財産についての方針を初めて明らかにした。それによると、「日本の商工業の大部分を支配した産業上及び金融上の人コンビネーションの解体を指示すべきこと」と、財閥の解体に言及した上で「皇室の財産は占領の諸目的達成に必要な措置から免除せられることはない」と、皇室財産についても財閥と同様に解体されるべきであると示したのだった。


昭和20年10月に始められた皇室財産の調査は、皇室財産解体の第一歩だった。調査は現金・土地・株式から、宝飾品や漆器に至るまで換金性のあるもの全てに及び、詳細なリストが作成された。調査を終えた総司令部は10月30日、皇室財産を発表した。

 

現金、有価証券、土地、森林そして建物の総額は15億9061万5500円だった。なおこの数字には美術品、宝石、金銀塊などは含まれず、また十四宮家の財産も計上されていない。11月20日、総司令部の指令により皇室財産は凍結された。総司令部の事前の承認のない限り、経常費を除く全皇室財産の取引を封鎖すること、8月15日にさかのぼり、これまでの皇室財産の移動を無効とすることなどが指令された。


総司令部は昭和21年5月23日、皇族の財産上における特権の剥奪を指示する。これまで皇族は 天皇から歳費および特別賜金を賜わり、日々の生活が保障されていた。加えて必要な邸地は 天皇から賜ることになっており、皇族付職員も宮内省から派遣され、さらに免税特権など、数々の経済的な特権も与えられていた。しかも終戦後は宮内省からの食糧配給もあり、皇族は食糧難による生活苦もある程度緩和されていただけでなく、不足していた自動車用のガソリンの特別配給も受けていた。

 

しかし総司令部の指令により、それらの特権が剥奪されてしまったのだ。歳費も打ち切られた。昭和22年(1947)5月3日に新憲法と同時に施行されることになる皇室経済法で新たに皇族の歳費が規定され、歳費は国庫から支出されることになった。だがこの皇室経済法は十二宮家が臣籍降下することを前提として組み立てられたもので、残る少数の皇族に対して定額を支給することになったため、皇族費の総額は著しく減額されることになった。

 

皇族への邸地賜与については、既に皇室財産が凍結されており、また新憲法の第八条で 天皇が財産を賜与することが禁止されたため、終戦後は行なわれなくなった。また皇族付職員については、御附武官と別当が廃止され、宮内官の人数は人きく減じられた。そして皇族の免税特権にも変更が加えられ、特別の規定がない限り皇族であっても原則課税されることになった。

 

総司令部の指令は皇族の立場と生活を大きく変化させた。皇族特権の剥奪、特に歳費の打ち切りは、皇族としての存在を経済的に困難にさせることになった。皇族という名目上の地位は残ったものの、これは臣籍降下を要求されたのに等しかった。


最高税率90%の財産税

 

 
皇族に対する締め付けはそれだけではなかった。占領直後から総司令部は、日本政府に対して財産税の立案を求めていた。政府は昭和20年11月16日、立案計画書を提出したが、総司令部は24日、昭和21年の最初の議会で関係法案の成立を図ること、及び皇室財産についてもこの計画から除外されてはならぬことを条件として政府案を承認した。

 

このことは、既に凍結してある皇室財産の大部分を、財産税によって国有化する方針を明らかにしたことを意味する。日本政府はこれに反対するも、結局受け入れられなかった。

 

総司令部は皇室財産を調査し、凍結した上で、莫大な財産税を課税、そしてついに新憲法の公布により、皇室財産のほぼ全てを国庫に収めさせるという大きな計画を立てていたのだ。

 

昭和21年9月30日、財産税法案が衆議院に提出された。同年3月3日午前零時を調査時期とし、その時点における個人所有の財産について課税するというもので、10万円未満を免税とし、累進税率が採用された。1500万円を超える財産を所有している場合は最高税率の90%が適用されることになった。

 

全体で約43億円の税収が見込まれた。財産税法は昭和21年10月11日に議会で可決され、11月12日に公布、20日に施行された。財産税の申告期日は昭和22年1月31日とされ、納付期限は申告期日の1か月後とされた。かくして、皇室財産は、約9割が主に物納により国庫に帰属することになったのである。


以前発表された 天皇家の財産は大きく上方修正され、評価総額は37億4712万円となり、財産税として納税された金額は33億4268万円となった十四宮家の中で最も多額の財産税を納入したのは高松宮だった。
 
 
 
評価総額が1253万円で財産税は1002万円だった。その次は朝香宮で、評価総額は1067万円、財産税は844万円だった。三井、岩崎、住友などの大財閥の資産が、およそ3億円から5億円だったことと比べると、37億円超える天皇家の財産がどれだけ大きかったかが理解できよう




                                 


    ※今でも日本政府は天皇家の財産を没収したままであろう。占領憲法もそのまま、皇室典範もそのまま、日本政府は今まで何をして来たのか 
日本人として情けない、占領軍(白人)に洗脳され今では洗脳された事も忘れているのか。アメリカ(白人)は今でも正義の御旗を元に次々と破壊しているのだ。以前バングラデッシュの方と話した事があるが、アメリカはその国が二度と立ち上がれなくなるまで破壊していったと聞いたことがある。。日本も目覚める時であろう。中国、北朝鮮、ロシア、韓国とならずもの国家に囲まれているのだ。(サイタニ)